26 彼があんなことを言うから(そして下河家にようこそ)
(冬君があんなことを言うから――)
私は自分の部屋で、今日のことを思い返していた。――顔が熱い。
時間が過ぎると、冷静になって。羞恥心が私の感情を蝕んでいく。この気持ちはどうやったら抑えることができるんだろう?
お父さんもお母さんも、空もいたのに。感情も、行動も抑えられなくて。あの瞬間、冬君のことしか見えていない自分がいた。
――冬君が、あんなことを言うから。
顔を両手で覆うけど。手のひらで光を遮れば。浮かんでくるのは、冬君の笑顔ばかり。そして、あの言葉達が、勝手に私の脳内で何度も、なんども再生されて。
私は本当にどうしてしまったんだろう。
■■■
時間は少し遡って。冬君は、いつもより少し遅れてやって来た。
「今日は遅かったね。学校忙しかった?」
冬君は学校とアルバイトの合間に私に時間を作ってくれている。でも、私の知らないところで、知らない人と関わって。私が知らない笑顔を知らない人に見せているんだろうか。そう思うだけで、胸がチクチク痛む。
「いや、そうじゃなくてね」
とおもむろに、冬君はカバンから弁当箱を取り出した。
「本当に美味しかった。ありがとう。洗ってきたから遅くなった。ごめん」
ふわっと優しく微笑んでくれて。私は弁当箱を受け取る。
「冬君? 弁当箱は洗わなくていいよ。そこも含めて、私のリハビリだと思っているからね」
「いや、それは悪いから――」
「冬君。これは朝も言ったけど私のためなの。私自身の生活のリズムを整えていかないと、って思うから。それに冬君の食生活が心配……」
「うん、それは本当に申し訳ないというか」
「だから、これは私が勝手にお世話を焼いていてるだけなので、遠慮しないでね? お弁当箱洗うのだって、冬君が食べてくれたことを、確認したいだけだし。そうしたらまた頑張れるって思うから」
私はにっこり笑ってみせる。冬君の目に、どんな風に映っているんだろうか。照れ臭さを一生懸命隠すことに必死で。
冬君が倒れて欲しくない。それは一番。でもそれと同じくらい、自分のことを学校でも考えていて欲しい。そんな欲が出てしまって。お弁当のおかずを弥生先生が分けてくれた――そこに他意がないのは分かっていても。
『本当に美味しくて、幸せでした。毎日、本当に食べたいって思っちゃった。ありがとうね』
冬君からのLINK。恥ずかしくて、スタンプでしか返信ができなかったけれど。
冬君は発言にしろ文章にしろ素直さが滲み出るので、本当に気持ちがダイレクトに伝わってくる。
毎日食べたいって――。その言葉を反芻するだけで、顔が熱い。冬君はそういう言葉を無造作に投げ放ってくるから心臓に悪い。それはプロポーズの常套句って冬君が分かっているんだろうか?
でも冬君の文章は、素直な感情が伝わる。
だから、なお分かる。分かってしまったのだ。
今日の冬君は調子が悪くて――寝不足だっていうことを。
■■■
私でも冬君のためなら、策略家になれるって思う。リビングのソファーに、砂糖を少し多めにしたチーズタルト。濃厚なチーズに、甘めのミルクティー。このお茶会が終わったら、冬君をソファーで寝させてあげよう、そう目論んでいた。
案の定、コックリコックリと冬君が意識を手放し始める。
――俺、雪姫を傷つけることを何かしちゃったんだろうか?
冬君のか細い声を思い出す。
あの夜のLINKでのやりとり。あの短い文章で、冬君は私の感情を機敏にキャッチしてくれたんだ。怒ると言うのとは少し違うかもしれない。心配で、でも冬君の傍にいられなくて。何もできなくて歯痒くて。そして、やっぱりお弁当を分けた弥生先生に、私は嫉妬して。
でも冬君は、私のことを考えてくれていたんだと思う。友達を怒らせた――そこだけを思案して。
私は悪い子だ、って思う。
冬君を苦しませたのに。それでも、昨日という時間を独占したのは私だった。それがたまらなく嬉しく感じてしまう。自分の浅ましさに、嫌悪感も感じるけれど。それ以上に、私が冬君を独占している――そんな感情が先立って。
カクン。
と、冬君の体がバランスを失って、私の肩に頭がもたれかかる。冬君の吐息を感じて、鼓動が早くなるのを感じた。
「冬君?」
と私が思わず声をかけるも、とうに冬君は夢の世界に旅立っていて。気持ちよさそうな寝息を聞きながら、私は思わず微笑んで――笑みが凍った。
冬君が、倒れ込むように重心が崩れて。
「え?」
慌てて、冬君の体を支えた。かろうじてソファーからの転落は防いだが、冬君の顔が私の膝の上にあって。
「え? え?」
冬君が何事もなかったかのように、私の膝の上でスヤスヤと寝息を立てていて。
よりによって、今日は膝上のフレアスカートで。
冬君を寝せてあげたいと、リハビリは諦めてることにしたから。
だったら、少しでも、冬君に可愛いと思って欲しくて、ちょっと意識してみた。でも薄い生地が今は裏目に出ている気がする。冬君の体温をダイレクトに感じてしまって――。
(こ、これって、つまり膝枕……)
意識するとダメだった。私は、これでもかと言う程、顔が真っ赤になっている気がする。
「ただいまー、って、あ?」
と空がタイミング悪くリビングに入ってきて、硬直する。すでに制服から着替えて、ラフな格好。ルーチンのゲームをしに来たんだろうな、って思う。本当にウチの弟はゲームが好きなんだから――と普段なら呆れ顔一つ浮かべるところだけど、この時の私にその余裕は全くなかった。
「……姉ちゃん。冬希兄ちゃんとイチャつくのは、別に良いよ。そこを咎めようとは思わないけどさ。いっつもダイニングでティータイムしてたじゃん。今日は何でココ? 俺は気にせずゲームをするからね?」
「う、うん……」
反論する余裕もなくて、私は頷くことしかできなかった。
「しかし、膝枕させてあげるなんて、今日の姉ちゃんは大胆だね」
「ちが、違う、そうじゃなくて――」
「イヤなの?」
空がニヤニヤ笑っているのが見える。最近、冬君のことで空がからかってくることが多い。イヤなわけない。嫌じゃない。ただ冬君が、私のことを考えて時間を作ってくれているのに、それが申し訳ないと思う。
「……雪姫……」
と冬君が呟いた。起きた? と思ったが、どうやら寝言のようで。ほっと胸を撫でおろす。
と――。
「俺は雪姫のことが好きだよ」
「「え?」」
私と空の声が重なって。
銃声。どうやら空がゲームで負けたらしい。
「雪姫の笑顔も……頑張っている姿も……全部、ぜんぶ好きだよ」
「……冬君」
「だから……友達でいいから……傍にいさせて……」
「冬君……」
気付いたら、私は冬君の髪を撫でていた。理性の箍はとうに外れてしまって。私は躊躇いなかく行動していて。
冬君に支えられている、それは間違いなくそうで。でも時々、見せる寂びし気な表情は、冬君のなかで満たされない隙間があることを物語る。
冬君は私と幼馴染たち――海崎君や彩ちゃんとの距離を置こうとする。そのなかに自分は入れない、そう思っている印象があった。
――君と幼馴染たちが仲直りをしたら、俺はお役御免になるって思ってた。
あの時の言葉が脳内で再生される。そんな言葉を冬君に言わせてしまったことがイヤだ。私は冬君の一番でいたい。貴方が私を外に連れ出したんだから。貴方が私を呼吸させてくれているんだから。
「……また一人に戻るのは、ツライ……」
冬君が呟いた声が、私の心臓を鷲掴みにする。
「一人になんかしないよ。させないよ。冬君は私の大切な人だよ。一番大切な友達だよ。一人になんかしない。絶対にさせてあげないからね」
もう空の視線も、どうでもよくなって。
ただ冬君の温度を感じることが幸せで。彼の呼吸を感じながら。髪を撫でて。前髪で隠れがちなその顔を見つめながら。
冬君は安心したのか、それから寝言を紡ぐことはなくなって。規則正しい寝息に合わせて、私は冬君の髪を撫でる。時間も忘れて。
両親が帰ってきて、驚きと歓迎の表情を向けられる。
お父さんは複雑そうな表情を浮かべていたけれど。空がスグに説明をしてくれて。何だかんだ言いながら、私の弟は本当に優しい。
でも、私はココから動く気はなくて。冬君から離れるつもりはなかった。何て言われても、恥ずかしくても、照れ臭くても。
自覚した。
私は冬君のことを好ましいって思っている。友達以上の感情を抱いている。愛しいと、心の底から思っている。
冬君は、強さと脆さを持っている。だったら、私だけが守られるそんな関係はイヤだ。私も冬君を支えたい。一緒に歩きたい。そう、心の底から思った。
お父さんやお母さんが帰ってきてなお、この感情の昂りは変わることがなくて。
「雪姫? 上川君にご飯を食べていってもらおうか?」
お母さんがそう言ってくれて。私はコクコク頷くことしかできなかった。
「ちょっと、僕は二人の関係について聞きたいことが――」
「はいはい。あなたは私と一緒に晩ごはん作るわよ」
お父さんは、お母さんに引っ張られて。ありがとう、お母さん。そう思う。あと少しだけ、もう少しだけこうしていたいと思ったから。
冬君がゆっくりと目を醒ました。うろたえる冬君を見ながら、あと少しだけ。もう少しだけって、さらに思ってしまう。
だからちょっとだけ大胆に、起きようとする彼の頭にそっと手を添えて、元の場所に押し戻した。
冬くんと目が合う。羞恥心で今も死んでしまいそうだけど。それ以上に、募っていく感情の方が上回ってしまって。
冬君は何のことか分からないと思うけれど。
冬君の寝言へのアンサー。今その耳に私は囁いた。
「大丈夫。私も、冬君が大切な友達と思ってるからね。むしろこの気持ちは誰にも負けないからね」
一番じゃなきゃイヤだからね。誰にも譲らないからね。心の奥底の感情には蓋をすることに必死になりながら。
冬君の髪を撫でる。貴方のなかで、私がいっぱいになって欲しい。
私が誰よりも一番であって欲しい。
――この気持は誰にも負けないからね。
■■■
冬君と一緒に、食卓を囲むというだけで、ウキウキしている自分がいた。
つい視線を向けてしまうのは冬君の方で。緊張している様子、気遣いをすることに懸命な姿。私を気にかけてくれる優しい視線。その全部が私にとって、かけがいがなかった。
ワガママを言うとすれば、今日の夕飯を私が作れば良かったと後悔してしまう。この笑顔が向けられるのは、お母さんとお父さんなわけで。それがちょっぴり悔しい。
そんなことを思っていると、お父さんが言葉を切り出した。
「じゃ、食べる前に簡単に自己紹介させてもらおうかな。僕は、雪姫の父で、下河大地です。改めまして、上川君。よろしくね。それから本当にありがと――」
お父さん、そんな風に思ってくれていたんだ。
お父さんやお母さんの話を黙って聞く。心配、かけていたよね。本当にそう思う。でも、どうすることもできなかった。だけど。こんな私だけれど。冬君は、あっさりと私を外に連れ出してくれた――。
冬君と、目と目が合う。ただ、それだけ。たったこれだけなのに。その一瞬が嬉しくて嬉しくてしかたがない。
みんなが自己紹介をして。この流れは――。
「えっと……これは、私もした方が良いかな?」
「え? 雪姫は上川君のことよく知っているでしょ――」
「挨拶に便乗してイチャイチャしたいだけだから、気にするだけムダだよ」
空が余計なことを言うので、思わず睨んでしまう。
何度、あなたに自己紹介をするんだろう。多分、まだまだ足りなくて。もっと知りたいし、知ってほしい。そんな感情が渦巻いた。
だから、自分の番が終わった後、今度は冬君の自己紹介を心待ちにしている自分がいて。
「上川冬希です。雪姫さんとは、本当に仲良くしてもらっています。きっかけは学校のプリントを届けに来たことでした。でも、むしろ俺が雪姫さんに支えてもらっていると思ってます。俺、県外出身なので。こっちで初めての友達が雪姫さんだったから。雪姫さんは俺にとって、一番大切な人です。これからも仲良くさせてください、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる冬君。いつも雪姫なのに、今日はさん付けでこそばゆい。お父さんとお母さんが、冬君に改めてお礼を言う。
両親の気持ちは単純に嬉しいし。お父さんやお母さんが言うように、私を変えてくれたのはやっぱり冬君だと思う。
私はテーブルの下で冬君の手を求めた。
冬君が少し驚いた顔をして――そしてすぐに受け入れてくれたのが、その笑顔で分かる。
だから、私は小さく冬君に囁いた。きっと冬君にしか聞こえていないはずだ。
「冬君が、私を支えてくれるから。私、頑張りたいって思えるんだよ」
本当の気持ち。私の本心を。まっすぐ、まっすぐに伝える。
家族の食卓での賑やかな喧騒を聞きながら。今、私は冬君のことしか見えていない。
と、冬君がおもむろに顔を上げた。見ている視線の先はお父さんとお母さんで。
深呼吸をする。その表情は緊張した面持ちに変わっていた。
「本当は、雪姫――さんにお願いしてもらうつもりだったんですけど。こういうことは直接、俺が言いたいと思ったので」
「冬君?」
「え? 上川君?」
「……上川君?」
「冬希兄ちゃん?」
みんな、冬君の真剣な眼差しに戸惑っていた。
今度は冬君が、私の手を求める。私は、反射的に――自然に彼の手を握っていた。触れるだけじゃなくて、指と指を絡ませて。ちゃんと、私はココにいるよって、伝えたかったから。
大胆すぎるだろうか。
冬君があんなことを言うから。そう心のなかで言い訳をして。
でも冬君のお願いって何だろう? そう思っていると、冬君がもう一度深呼吸をして、言葉を紡ぐ。
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「今度の土曜日、雪姫さんの時間を少しいただけませんか?」




