21 彼と最初に友だちになったのは――。
「名前は、ダメ。絶対にダメだから」
冬君と最初に友達になったのは私だもん。
その言葉は思いとどまったはずなのに、何故か止まらずに言葉は漏れて。名前を呼ぶことは私にとって特別だった。
もっと冬君の近くにいきたくて。冬君の特別になりたくて。やっと冬君が私の名前を呼んでくれたのに。
彩ちゃんは、あっという間に。私が苦心して埋めた距離を、あっさりと跨いでしまった。
私は、ぐっともう片方の手で拳を作った。喧嘩したいワケじゃない。波風をたてたいわけじゃない。海崎君と彩ちゃん。保育園の時から仲が良かった二人が、こうやって私と向き合ってくれた。それは本当に嬉しい。
でも、気持ちを抑えることができないのだ。
他のことなら、諦めても良い。今までだって諦めてきたし、夢は見ないって決めたから。傷つくのは期待してしまったから。だったら最初から期待しなければ良い。ずっとそう思っていた。
でも冬君は、こんな何もできない私を無条件に受け入れてくれた。
彼が私の名前を呼んでくれて、私は満たされて。
彼の顔を見て、私は安心して。
彼の笑顔に吸いこれまれそうになって。
彼の温度を感じるだけで、あれ程怖かった外の世界でも私は呼吸ができた。
他のことなら諦める。でも、冬君だけはダメ。
この感情について、私はあえて考えないようにしていた。
冬君が、弥生先生や海崎君にスコーンをご馳走したいと言った時、胸がチクリと痛んだ。
大切な冬君との時間を、横取りされた気がして。
冬君が、コーヒーを淹れたこともそう。
コーヒーは苦くて飲めない。むしろ苦手だった。
でも、冬君の一番は私であって欲しい。
そんなワガママが抑えきれなくて。
だから、冬君のあの時の言葉が、嬉しくて嬉しくて。
「俺さ、アルバイト先が喫茶店なんだよね」
「え?」
「メニューに、カフェオレもあるから。今度、淹れてもいい?」
「――いいの?」
本当に嬉しかった。でも、彩ちゃんと海崎君は、そうやって私が背伸びして手に入れた場所に、あっさりと到達してしまった。
呼吸が浅い。息が苦しい。冬君が遠くに行ってしまう気がして。
握ってくれていた手が離れて。
冬君――?
(……キラワレタ?)
それは、そうか。こんなワガママばかり晒して。折角、勇気を出して機会を作ってくれた幼馴染達を蔑ろにするようなことをして。
息が、苦しい。酸素どうやって吸っていたんだっけ?
冬君は、私に愛想を尽かした。
私は本当にバカで――。
「海崎、黄島さん、ごめん悪いけれど、しばらく席を外してもらえないか?」
「え?」
その瞬間だった。私を、暖かい温度が包み込んで。
冬君が私を抱きしめてくれたと、理解するのにどれくらい時間をかけてしまったんだろう?
その手が、優しく髪を梳く。まるで子どもをあやすように。
そう実感した途端、気管にまるで酸素が流れ込んでいくのを実感して。
「雪姫が不安に思ったことを、聞かせてもらって良い?」
そう冬君は、何でも無いことのように言う。呆れも軽蔑もなくて。全力で自分を受け止めてもらっているのが分かって。
その手で髪を梳かれながら。
私はコクリと頷いた。
■■■
「私にとって、冬君の名前は特別だったから……」
今まで諦めてきた自分が、唯一、ワガママを言える人。それが冬君だから。
弱さを見せても、冬君は笑わないし、目も背けないし。今もこうやって一緒に居てくれるから。
ポツリポツリと、私は言葉にする。本当はこんなことを言うつもりはなかったのに。ただ、自分のなかの特別な感情だけは、絶対に漏らさないように気を付けた。
それを言ってしまったら、冬君を本当に失ってしまいそうで。
冬君は私を大切な友達と言ってくれる。
それなら――。冬君にとっての一番でたい。今はそれしか考えられなかった。
「誰よりも、どんな人よりも、冬君の一番でいたいの」
私は、そう伝える。精一杯の背伸びと、本当の感情を何とか隠して。友達としての一番でも良いから。心の底からそう思う。
「そうか……」
「うん……」
沈黙に包まれて。でも、この体温は離れない。
私の浅ましい感情、その全てを冬君は受け入れてくれている。それを実感する。
「じゃあ、今度は俺の番だね?」
「え?」
私は思わず冬君を見上げた。覗き込む、その表情は小さく微笑んで。
「雪姫、俺はね」
「うん」
「君と幼馴染たちが仲直りをしたら、俺はお役御免になるのかなって思ってた」
ぎゅっと、私は冬君の制服を掴んだ。あの時、冬君が離れてしまう、そんな感覚を憶えたのは錯覚じゃなかった。今は冬君に抱き締められて、受け止められて、傍に居てくれることを実感しているけれど。
それでもなお、冬君を離したくなくて――。
分かってる。私の理性は、もう崩壊していて。
でも止まらなくて。
私からも、冬君を抱き締めていた。
「雪姫?」
「今日、こうやって彩や海崎君とお話できたのは嬉しいよ。それは本当に」
「うん」
「でも、それは冬君が私にプレゼントしてくれたモノだって私は思っている」
「いや、それは偶然で。それに海崎達だって、何とか雪姫ともう一回話したくて一生懸命だったと思うし――」
「私を外に連れ出してくれたのは、冬君だよ」
「……」
「冬君が私を連れ出してくれなかったら、外に足を踏み出すことすらできなかったよ?」
「……そっか」
「そうだよ」
私は、きっと今、満面の笑顔を浮かべていると思う。立場が逆転していたように、冬君を抱き締めたくて。
私だけが支えられているんじゃない。冬君の不安や心細さ、それをもし支えられているのなら、本当に嬉しい。
だから、気恥ずかしさもあるけど。私は自分の気持ちを素直に言葉にする。
「友達って、役割を終えたらそれでお終いになるとか、そういう関係じゃないと思うの。私はもっともっと冬君のことを知りたいよ? まだまだ冬君のことを教えて欲しいって思ってる。私は誰よりも冬君のことを知りたいよ。私が冬君の一番でいたい。ワガママだって思うけど。友達に一番も二番もないって思うけれど、それでも。私は冬君にとっても一番でいたいんだよ?」
「それは俺も、かな。雪姫の一番が俺だったら嬉しい」
「だから、私は今日ばかりは冬君に『バカ』って言うから」
「へ?」
冬君が目を丸くした。私は精一杯、頬を膨らませてみせる。
「勝手にいなくなったらイヤだよ。大切な友達がいなくなったら悲しいよ。冬君のバカ」
だって――。私は冬君がいるから呼吸ができる。そもそもの話ね、私の一番は冬君以外に有り得ないから。だからね、この場所は誰にも譲らないの。絶対に誰にも譲らないから。言葉にはしないし。誰にも教えてるつもりはないけれど。
「えっと……お二人さん。そろそろ良いかな?」
遠慮がちな海崎君の声。見ると、海崎君も彩ちゃんも、顔を真っ赤にしてこっちを見ていた。あれ? 席を外してもらっていたはずで――? その意味を理解して、私も冬君も慌てて、体を離した。
でも、その手は自然と握りあっていて。どちらかがじゃなく。お互いが、当たり前のように気付けば、その手を握り合っていて。
「ちょっと外してくれって言っただろ」
冬君は困惑して思わず海崎君から視線を逸らした。
「外す前に、始めちゃったの君らでしょ?」
海崎君は半ば呆れ、半ばからかうように。私が隠していた気持ちを、海崎くんに見透かされた気がして。思わず私は、俯いて視線を反らした。意識しすぎて、頬が熱い――。
■■■
そして、何度目かの仕切り直し。今度は海崎君の自己紹介の番で。
冬君は、真剣な表情で、海崎君の話を聞いていた。――と、チラッと冬君が私を見る。ほんの一瞬、僅かな時間。でも、冬君が私に優しく微笑んでくれて。
たったそれだけ。ただ、それだけのことなのに。
私は無性に嬉しくなる。冬君の一番でいたい。それは、誰よりも冬君に近いということで。もっと近くに行って、誰よりも冬君を独り占めしたい。そんな欲ばかりつのっていく。
冬君を誰にも渡したくない。最近はそんな感情が次から次へと湧いてきて。その感情を飲み込んだり、隠したりするのに私は必死になるけれど。
冬君が手を繋いでくれる。この今感じている手の温もりも、そう。冬君がしっかりと私を見てくれている、今この瞬間も。
もっともっと冬君の色々な表情を見たいって思ってしまって。
(冬君と学校行きたいなぁ)
最近、そう感じることが多くなった。今までの自分からは想像ができなくて。そして、自分のなかのイヤな感情もまた、再燃してきて。
私がいない時間に、冬君が他の人にこうやって笑っていたら、それはスゴくイヤで。そう考えると、感情が溢れ出して。止まらなくなっちゃうから。
もう一度、冬君が私を見てくれて――。
私を握るその手が少し、強くなって。だから、私もちょっと、握り返して。
私が冬君の嬉しい感情とか、不安とかを感じるように。冬君も、私の不安定な時を感じてくれるのか、絶妙なタイミングで私が欲しいことを全力で行動してくれて。そして私を受け止めてくれる。
冬君が友達で良いと言うなら、それで良い。どんなカタチであれ、あなたの一番であれば、私はそれで良いから。
自分の気持ちに蓋をして、飲み込むことに必死でいると――。
「あのさ、今は俺の自己紹介の番だったけど、二人とも聞いてた?」
と海崎君に言われてしまった。
冬君のことしか考えられなくてごめんね、私は心のなかで謝った。
■■■
「じゃ、最後は雪姫だね」
と冬君が言うので、目をパチクリさせてしまった。みんなは、でももう私のことを知っている――。
「俺は雪姫のこと、全然知らないよ? 海崎や黄島さんが知っていることを俺は何も知らないから、教えてくれたら嬉しいかな」
「うん……」
冬君に私のことを知りたいと言われて、舞い上がっている自分がいて。その感情を抑え込むのに私は必死で。
「上にゃん、そういうことサラッと言っちゃうんだー」
「彩音、ココはもうそっとしとこう。どうせ僕ら、この二人の世界には入り込めないからね。馬に蹴られるよ」
何か海崎君と彩ちゃんが言っていた気がしたが、私は目の前の冬君しか見ることができなくて。改めて自己紹介って、なんかすごく恥ずかしい……。
でも、と思った。私も冬君に知って欲しいし、冬君のことをもっと知りたいと思う。そう考えたら、私はまだまだ冬君のことを知らないのだ。
飼い猫のルルちゃんがいること。喫茶店でアルバイトをしていること。故郷には可愛い幼馴染がいたこと。優しい笑顔。私のために一生懸命考えて行動してくれること。私の作ったお菓子を美味しいと全肯定で言ってくれること。弥生先生と冬君はそれなりに仲が良いこと。私の次に友達になったのが海崎君。そして彩ちゃん。でも冬君は私が一番の友達だって言ってくれたこと――。
そう思うと、まだまだ冬君のことを全然知らないって思う。
だから。
「改めまして。下河雪姫です」
冬君の目を見て、真っ直ぐに私は伝える。
今までの私。冬君と出会って変わった私。その全部、ぜんぶを貴方に伝えていきたい。そして私の知らない冬君のことを、もっと私に教えて欲しい。
私が、貴方の一番になりたいの。
「……あの、ゆっき? 私たちもいるんだけど?」
彩ちゃんの言葉も、私は緊張して、よく聞こえていなくて。でも、と思う。精一杯、冬君に伝えたいと思った。私のことを。そして、私がどれだけ貴方のことを大切に思っているのかを――。
私のこと。好きな小説や漫画のこと。家族のこと。弟のこと。お母さんが猫アレルギーだってこと。全部、これは冬君が知っていることで。どう言葉にして良いか分からない私に、冬君は真剣に目を向けて、耳を傾けてくれて。
「改めまして、だけど」
そう冬君が言ってくれた。
「みんな、よろしくね」
そう満面の笑顔で。海崎君と彩ちゃんは、目を点にして――私と冬君の握った手の上に、二人は掌を重ねてくれて。
私は目をパチクリさせた。私は冬君のことしか考えられなくて。もうそれだけで頭がいっぱいだったのに。
あなたは、自然と私達の壁を乗り越えてしまって。
――これからも、よろしく。
私達の声は自然に重なって。ごく当たり前、まるで当然のように。澄んだ空気の中、やけに私の鼓膜に、凛と響いて聞こえた。
【幼馴染達の緊急ミーティング】
「下河って、あんな感じだったっけ?」
「私もビックリしてる。アイドルとか、恋愛とか全く関心が無いって言っていたの、ゆっきだったよね?」
「中学の時、二次元が推しと言っていたの思い出したよ」
「今日のあれ、もう完全に二人の世界だし。雪姫は特に、上にゃんしか見えてないよね?」
「でも、過呼吸が止まったのは、上川のおかげだよね?」
「正直、ズルイって思う。私たちが、どんなに頑張ってもゆっきを支えてあげられなかったのに。上にゃんはあっさり、乗り越えちゃってたんだね」
「あれで、友達って……」
「でも、ゆっきは、自分の気持ちに気付いてるよ」
「え?」
「気付いてるうえで、蓋をしてるんじゃないかな。何となく、そう思った。ゆっき、上にゃんのこと好きすぎって思う。アレ隠せてないし」
「まぁ、でもあまり騒ぎ立てるのも違うかな。上川は、下河のことを最優先で考えるだろうから。下河が友達って言えば、上川は律儀のその関係を守ろうとするだろうし」
「とりあえず思うのはね」
「多分思うことは一緒だよなぁ」
「「いいから早く付き合え!」」




