129 朱音さんは【ふー】の歌が好き
「朱音、待っちぇよー!」
私の後ろを、いつもトテトテとついて歩く、男の子。
上川冬希は、そんな子だった。
保育園が一緒。
最初は、そんな認識だった。
公園で、お母さんの弾くギターに合わせて、歌を歌っている子がいる。
(歌なんか、何が楽しいのかな?)
蒼司や他の男子とサッカーをしながら。藤棚の下で演奏をする音。それから、時折聞こえる歌声が妙に気になっていた。
「あぁ、上川君のお母さん? おおっぴらに騒ぐの、本人はイヤがるけどね。ほら、神原小春。あーちゃんは、知らないか。ママにとっては、憧れの人だったのよね」
そう言って、ママが映像を見せてくれたのを憶えている。
保育園で、一人で絵本を読んでいるアイツとは、全然違う。人間って、こんなにキラキラするんだと思った瞬間だった。
私は、神原小春という人に、虜になったんだ。
ズルいって思った。
今日も藤棚には、アコースティックギターの音色が響く。
小さな子達との、合唱が響く。
でも、そのなかで、ひときわ澄んだ声が聞こえて――息が止まりそうになった。
神原小春の声と、重なる幼い声。
保育園で聞く、舌足らずな声とはまるで違う。
「朱音ちゃんも、気になったんだ?」
一コ上の、翠姉が同じように、覗きながら言う。
「翠姉ちゃんは、行かないの?」
「あんなに上手に歌えないよ」
翠姉が目を細めながら、音楽に耳を傾ける。
メロディーが耳に飛び込んできた。
対等って、こういうことを言うんだろうか。
子ども騙しじゃない。
幼いながら、私はそんなことを思ったんだ。
その歌声が途切れる。
視線があった。
視線が絡んで。
ふんわりと、冬希が微笑む。
風が撫でる。
あの時のふーは、女の子のように髪が長くて。
遅れて、ギターを紡ぐ、手を小春さんが止める。
(……ジャマしちゃった――)
こみ上げてきたのは、後悔。
どう言って良いのか、分からなくて。感情がグチャグチャに溢れてくる。どうしてだろう、この時の私は「世界で一番悪いことをした」そんな強迫観念に駆られて、泣きたくなって。背を向けようとして――。
「一緒に歌おう?」
舌足らずな声で、ふーが言う。
精一杯の声。
普段は、そう上手く言葉が言えないから。男の子達が、笑い者にするのに。
――この子、発達障害かもしれませんね。
保育士の先生が、そう言うのを聞いたことがある。
――じゃあ、私も発達障害だったんですね。
小春さんが、そう聞き返す。あれは、ふーのお迎えの時だったんだと思う。
――私もね、子どもの頃は、言葉が遅いってずっと言われてましたから。
にっこり笑う。
――冬が、ステキに歌うの、私は知っているからね。
神原小春より、ステキに歌う人なんか、いるわけないじゃん。
そう思っていた私は、なんてイヤな子だったんだろう。
それなのに。
満面の笑顔で、私に手招きをして。
翠姉――翠に手を引かれた気がする。
それからのことは、ちょっと記憶が曖昧で。
小春さんが弾くギターにあわせて。
冬と一緒に、歌っていた。
聞いているだけだった、翠を輪の中に引き込んで。
サッカーを誘いに来た蒼司を、私が手招きをして。
いつのまにか、みんなで一緒に歌うことが当たり前になっていたんだ。
■■■
「朱音、あのさ」
「なに?」
「僕がギターを習いたいって言ったら、笑う?」
「――どこに笑う要素があるの?」
小学校5年生になって。男の子と女の子が、それぞれのグループに分かれる。それでも、この四人は、公園で一緒に歌い続けていた。ふゆが、子役のお仕事で、歌えない時も増えていたけれど。
――朱音ってさ、本当に神原小春が好きだよね。
――違う、違う。朱音が好きなのはね……。
――それ以上、言ったらぶん殴るからね!
友達と、そんなバカなことを言い合って。いつから好きだったのって、よく聞かれた。多分、ふーが、私を手招きしてくれた、あの日から。
「……なんで、私なの? そういうのは蒼司の方が――」
「なんでだろう?」
コテンと首を傾げる。
「蒼司なら『良いんじゃない』って、いつも言ってくれるけど、朱音なら『ダメ』なら『ダメ』って、言ってくれるでしょ?」
ふーの言いっぷりに、私は思わず吹き出した。確かにね、って思う。蒼司はムードメーカーで、色々考えてくれるのだが、言葉がけが適当な面は否めない。
――良い、塩梅でしょ?
なんて本人は言うが、おじいちゃんかって思ってしまう。
「それで、朱音はどう思うの?」
じっと、ふーが私を見る。
狡いよね、そういう目で見てくるの。
ふーは、いつも真っ直ぐに私を見てくるから。
目だけじゃない。
声も。
指先も、髪も。必ず、後をついてきてくれる存在感も。
それから――ふーの歌声が、やっぱり好きで。
ずっと、聞いていたくて。
彼の歌を汚さないように、ボイストレーニングを始めた自分がバカみたいって思うけど。
「……別に、私に相談しなくても、ふーの中で答えは決まってるんでしょ?」
「う、うん――」
思考を巡らすように。それでいて、自分のなかで、確信を得たように満面の笑顔で、頷いたんだ。
■■■
「ダメよ! ムリだから」
珍しく、おばさんが声を荒げるのが、聞こえて、ふーがギターの弦を爪弾くのを止める。キッズギターから初めて。今や、大人と遜色ないギターを紡ぐ。
(ふーなら、納得なんだけれどね)
嘆息が漏れる。
引退しても、神原小春は、神原小春。後輩アイドルからの相談、そして育成に少なからず関わっていた。レコーディングスタジオが、ふーのプレイルーム代わりだったと聞いて、目を丸くするしかなかった。
プロと比べられたら、そりゃ中学生だ。おばさんの次に、上手いぐらいの感覚だったけれど。翠に誘われて、高校の学園祭に行った時に実感したのだ。
(へたくそ? ちがう? ふーが、上手すぎる?)
よりによって、神原小春のカバー曲なのが、いただけなかった。日頃から、おばさんっと歌っていたんだから、当然だ。ボイストレーニングの課題曲でもあったから、なおさらに。
「――だからダメ! 絶対にダメだからっ!」
おばさんがココまで声を荒げることが、そもそも珍しい 私とふーは顔を見合わせて。それからリビングを覗く。
あの瞬間を、今でも忘れられない。
「この子……あの子よね!?」
ぐいっと、私はその手を掴まれた。
「ちょっと、柊……?」
「あ、ごめん。小春」
苦笑を浮かべながら、ずいっと、私との距離を詰めてきた。
「アイドルやってみたいって思わない? 君たち三人、ステージで映える! 華があるから! 男の子もいるから失礼な言い方かもしれないけれど、君たちなら、第二の神原小春になれるよ! 私のマネージャー人生をかける! 保証するから!」
「……柊?!」
「あ、ごめん。肝心なことを言ってなかったよね」
少しだけ、距離を空けて。それから、柊さんは深呼吸をした。
「アイドルグループ、スカーレット合唱団が突如、リーダーの脱退で、活動休止になっちゃったの。本当にあの、バカプロデューサーったら!」
「柊?」
今にして思えば。
世代交代が必要だと、脇を固めていたアイドルさんを追放したプロデューサーと、冬に冷淡だったうちのマネージャーは何が違ったんだろう。
「フェスで穴が空いちゃってね。もちろん、他のグループを当てがっても良いんだけど。ココは君たち三人に是非――」
「……ちょっと、待ってください。《《三人》》って?」
一番聞きたかったことは、そこだ。
「そりゃ、もちろん! 朱音ちゃん、蒼司くん、翠ちゃんのことで……」
柊さんは目を丸くした。
私は、勢いよくその手で握りしめて――。
■■■
コポコポ。
コーヒーメーカーから漂う香が、鼻腔をくすぐる。懐かしいって思う。そういえば、ふーにライブ前にコーヒーを淹れてもらっていたっけ。
と、無造作にマグカップをふーが置いた。
――少しの間、席を外すね。
そう、蒼司からのLINKメッセージを尻目に、ふーを見やる。声が掠れそうになる。でも、なんとか言葉を紡ぐことができた。
「……下河さんは、大丈夫?」
「うん、今は寝てる」
ふーが頷く。
僅かに聞こえる、下河さんの寝息が私の鼓膜を震わせた。それにしても、と思う。下河さんが半覚醒しているとは言え、右肩の骨を折っているクセに、彼女を支えようとする幼馴染に、目を疑う。
言われるがまま、自分の本音を飲み込んで。私の背中に隠れていた幼馴染みはドコに消えたのか。私は、こんなふーを知らない。
「……懐かしいね」
「へ?」
私は目をパチクリさせる。ふーが、何かしら想い出を抱いてくれていたことが嬉しい。思わず、頬が緩みそうになって――。
「あの時も、ダイニングだったよね。柊さんに、水をぶっかけたの」
私は口をパクパクさせる。
(よりによって、そんなことを思い出さなくても良いじゃない!)
顔が紅くなるのを自覚する。
だって、衝動だったんだ。
私達は、四人だ。
三人と、言われたことが悔しくて――。
「ありがとう」
「ふー?」
彼の笑顔が眩しい。
「四人って言ってくれたことが、本当に嬉しかったんだ」
満面の笑顔。
いつ振りだろう。
こんな、冬希の笑顔を見たのは。
「あのね、ふー!」
「ん?」
「あの――」
ダメだった。
ずっと、ふーの笑顔を見たいと思ってきた自分がいて。
ふーに認めて欲しくて。
頑張ったね、と褒めて欲しくて。
昔のように、髪を撫でて欲しい。そう思ってしまう。
またCOLORSに戻るよ、って。そう言って欲しくて。
だから、私は、わたしは、私は――。
「ふー! あのね、私――」
衝動で、感情が弾けた




