128 彼と彼の幼馴染みと私とハーブティー
ちゃか。
静かに、ソーサにティーカップを乗せる。うん、良い香り。アパートの一室だというのに、カフェにいるような錯覚を憶えた。
カモミールの匂いが、緊張を解かしてくれる。
そんな私の挙動を見計らったかのように、白猫ちゃんが、私の膝に乗ってきた。
「雪姫ちゃん、美味しい」
満足そうに、小春さんが微笑んでくれて思わず、私まで唇が綻ぶ。
ハーブティーを淹れること。Cafe Hasegawaの店員として、店内に立つ上で、必須条件と美樹さんに提示された課題の一つだった。かなり、厳しい要件だというのは、私だって分かる。
高校生店員のなかで、それを担えるのは音無先輩だけだ。課題はこれだけじゃない。冬君と一緒に――冬君の手足となって、恋するカフェオレを淹れること。
そして新メニューのアップルパイを共同開発すること。
ハーブティーは何度か練習して、自分のなかでは及第点。でも美樹さんの、合格基準は高い。まだまだこれで、妥協なんかできるはずがなかった。
「本当に美味しい――」
そう言葉を漏らしたのは、翠さん。蒼司さんも無言で口につける。きっとハーブティーが好きなんだと思う。味わい。鼻腔を少しヒクヒクさせながら。匂いとともにハーブティーを満喫してくれているのが分かる。
朱音さんだけが、手をつけない。
でも、その香りが、彼女の緊張を解してくれているのを感じた。そして……。
「ねぇ、雪姫? 俺はコーヒーが飲みた――」
「ダメです」
とピシャリと私は言い放つ。冬君がコーヒーを欲する瞬間は、二種類あって。一つは、本当にコーヒーを楽しんでいる時。一方で、何がなんでも集中しいたい時。そういう時の冬君は、まるでコーヒー中毒。健康のために、そんな飲み方を許容できない。
「口に合わなかった?」
「いや、美味しいけれど――」
チラッとCOLORSのみんなを一瞥して。冬君は葛藤している。
ある意味では、喧嘩別れをしたような関係。今でも冬君と蒼司さんは交流があるみたいだけれど。
コーヒーを飲んで。
感覚を研ぎ澄まして。
一人で戦おうとしている。
そうしないと、折れそう――きっと、冬君ならそう思っている。冬君はそうやって、一人で抱え込む傾向がある。そうでなければ、COLORSも脱退していなかったと思う。 冬君は、みんなが思うほど強くない。
だから、私は誓ったんだ。冬君を絶対に一人にしない。進むのも。迂回するのも。退くのも。立ち向かうのだって、私が一緒じゃなきゃイヤだから。
冬君は私を――正確には、膝の上を独占している白猫ちゃんを見やる。ちょっと、羨ましそうに。そういうところが本当に、この一人と一匹はそっくりだって思う。逆に、冬君を膝枕したりしていると、ルルちゃんが不満そうに、尻尾でパタンパタンフローリングを叩くのだから、本当にそっくりさんと思ってしまう。
「冬君、もう少しだけ、こっちに寄って」
「う、うん……」
寄り添って。
肩が触れあって。
ルルちゃんは、欠伸をする。
――仕方ない。
そう言わんばかりに、尻尾をパタンンパタン振って。近づいた冬君の膝にも、頭を寄せて。二人分の膝枕ならぬ膝ベッドを独占するルルちゃんだった。
「はい、冬君」
つい、いつもの感覚で私はクッキーを差し出してしまって、はっとする。
反射的に、冬君がパクッとクッキーを咥える。ペロッと私の指先に口付けるように、唇が触れるのもいつものことで。
私はぐっと堪える。
本当なら、今すぐ冬君にキスしたい。
でも、それは朱音さんにとっては逆効果。私は溢れ出しそうな、好きっていう感情を、なんとか飲み込んだ。
ようやく、ハーブティーに口をつけてくれた、朱音さんの動きが止まって――私たちに釘付けになる。その目が鋭さを増して。
とくんとくんとくんとくん。
心臓が胸を打つ。
私は小さく、息を吸う。
本当に軽く、小さかったはずなのに。
目敏く、冬君はそんな私に目を向けるから、聡すぎる。私は、冬君の手の甲に触れて大丈夫と、心の中で呟いた。共鳴するようにルルちゃんが「おあーっ」と鳴いた。ちょっとだけ、爪を出したのか、冬君が顔を歪める。
(ルルちゃん、気合いをいれるなら私だよ)
苦笑が漏れる。
今までの私なら、なあなあにしていた。
――良い子。
それは、大人の都合の良い子。何もしない子と同類項だ。
でも、私はクソガキ団所属。冬君だってそうだよ?
だから、ごめんなさい。
全ての人と仲良くなれると思っていない。それに、今の私はワガママだから。冬君を諦めるって、選択肢も無いの。
「……下河さんだっけ、なんで貴方がここにいるの?」
「ちょっと、朱音――」
「蒼司は黙って。ねぇ、下河さん。私達は冬と話に来たの。部外者は席を外してくれない?」」
私はじっと彼女を見る。そう、朱音さんにとっては冬君はCOLORSの一員。大切な幼なじみ。それはひしひしと伝わってくる。でも……。
「それはできません。だって、冬君は私の――」
「雪姫は俺の彼女だから。だから部外者じゃない」
毅然と言い放つ冬君に、私も朱音さんも息を呑む。
私は安堵した。
幼なじみであり、COLORSの仲間である朱音さんに、ずっと嫉妬を抱いていたから。私の冬君だって。はっきりと彼女に言いたい。でも――もし、冬君が幼なじみを選んだら? それはいらない心配だと、テーブルの下で握ってくれる温度が物語る。
一方の朱音さんは、今にも泣き出しそうな表情で。必死に耐えているのが、私にも分かる。
「……ふ、ふーが……COLORSに戻れば、私がお世話できるよ。家族じゃない人が、お世話するなんて、そんなの不純だよ。それに、そんな一時の感情で――」
「一時の感情って、こんなに持続するんだね。でも、これを気の迷いのように言うのはちょっと長すぎるって思うんだ」
朱音さんは、ぐっと拳を固める。
「言うじゃん。随分、大人になったんだね。昔は泣き虫だったクセに。一人暮らしだって、もう限界だったでしょ。やせ我慢しないで、こっちに戻ってきたら良いのに」
「今だって変わっていないよ。俺は弱いって痛感しているから。雪姫がいなきゃ、立つことも向き合うことも、きっとできなかった。今でも、きっと逃げていたと思う」
「雪姫、雪姫、雪姫って! いったいなんな――」
「俺の大切な人だよ」
冬君は、一つも揺らぎなく言う。
朱音さんは、クルッと背を向けた。
無理に笑おうとしているのが分かる。
朱音さんが無理をして笑えば、笑うほど、空気はより張り詰めていく。
「……ごめん、私。ふーにとって、ただジャマだった――」
そう言うや、否や。朱音さんは、駆け出してしまった。
「朱音!」
「朱音ちゃん!」
蒼司さんや、翠さんの声も聞かず。
バタンと、ドアが力強く閉まる音がして。
冬君が追いかけようと、立ち上がって。
その指を離そうと――して、踏みとどまるように指を絡めた。
冬君の、表情が辛そうだった。
胸がシクジク痛い。
私は、悪い子だ。
あなたが、朱音さんじゃなくて、私を選んでくれた事実を喜んでいる。こんなに、あなたが苦しそうにしているのに。
そして、私が今、何を言っても傷つけると分かっているのに。
――姉ちゃんってさ、損な性格だよね。
空が、言ってくれたのは、いつのことだったんだろう。損じゃなくて、バカなんだと思う。私は形容しがたい、バカなんだ。
冬君の指先から、するりと。私はその戒めを解いた。
「……雪姫?」
まるで、捨てられた仔猫のような顔をする。
「勘違いしないで」
私は、あなたに囁く。
自己犠牲のつもりはない。
私の隣はあなた。
譲るつもりは無いの。
ただ、朱音さんを傷つけることになるだけとしても。世界中の人と、わかり合えるなんて思わないけれど。それでも、今の朱音さんを放っておけないと思ってしまう。
だから――。
「おあっ」
ルルちゃんが鳴いた。テーブルに跳躍して。そこからのワンステップ。
私の肩に掴まる。
――お姫様の思うがままに。
まるで騎士に最敬礼されたかのような、錯覚する憶えた。
思わず、苦笑が漏れる。
ルルちゃん、それはちょっとキザすぎるよ。
それに、私の騎士は冬君だからね。
私は、立ち上がる。
肩がずっしり重い。
(ちょっと、ルルちゃん、太ったんじゃない?)
主に原因は、オヤツをあげすぎの私にある気がするけれど。
「あのね、冬君。女の子同士でお話させて」
ニッコリ笑って見せる。
「いや、俺も行く――」
私は、指先で唇に触れて、押しとどめた。
冬君がそう言ってくれるのは予想通り。私の呼吸をきっと心配してくれている。
でも、それじゃダメなんだ。守られてばかりの、雪姫では。
それじゃ、朱音さんと裸足で、向き合えない。きっと何を言っても、彼女を傷つけるだけとしても。
(……私は、ちゃんと朱音さんと向き合いたい)
だから――。
「女の子どうして、話をさせて?」
私は、満面の笑顔で。王子様に心配をかけまいと、笑顔を浮かべてみせる。きっと、ちゃんと笑えてる。
「何かあったら、すぐ電話するから。無理しないって約束するから。だから、朱音さんとお話をさせて?」
■■■
「ココ、どこよ。私、まるでバカ……本当に、バカじゃん――」
ルルちゃんの鼻は頼りになる。
10分ほど行った所で。滑り台とブランコがあるだけの、小さな公園。そこに朱音さんは居た。ただボロボロと感情をこぼしていて。朱音さんが、顔を上げ――さらに、顔を歪ませた。
「……笑いに来たの?」
自虐的な笑みを浮かべて。きっと、朱音さんは、冬君に追いかけて欲しかった。逆の立場だったら、私だってそう思う。朱音さんにとって、一番、追いかけて欲しくない人間が下河雪姫――私だから、だ。
「笑う要素なんて、ドコにも無いですよ」
喉元がひゅっ、という。
ルルちゃんを抱きしめる。
(やっぱり、ダメか)
意外に限界が早い。
冬君がいたら、全然問題ないのに。私の呼吸器は、冬君の存在を感じられないだけで、こうもあっさり気管が閉塞するような、感覚に陥っていく。
スマートフォンを抱きしめて、ストラップを撫でた。本当は、朱音さんの前で冬君を匂わすモノを見せたくないのに。
「ちょ、ちょっと? 下河さん、大丈夫? 呼吸が苦しそうだけど?!」
朱音さんが私を覗きこむ。
優しい。
あなた、本当に優しい女性だって思う。
なんとなく、他人な気がしなかった。
性格も全然違う。
内向的で、自分を出せない私と違って。貴女は、ちゃんと自分の想いを出せる。
綺麗な人だって思う。
動画サイトやホームページ、テレビで観るより、ずっとずっと。本物の朱音さんは綺麗で。
歌声も本当に綺麗で。
冬君とのコーラスに羨望を憶えた。
(こんな風に歌えたら良いのに)
だから、冬君が貴女のもとに帰っちゃうんじゃ――それが、ずっと怖かった。
幼なじみと聞いて。
なぜか、肌がざわざわして。
不安で、不安でたまらなかった。
それなのに――バカだよね。朱音さんを見て、放っておけない自分がいる。
似ている。
朱音さんと、私。
似ている、って思ってしまう。
ザラザラする舌が私を舐めて――呼吸が少し楽になる。
(……ルルちゃん、ありがとう)
視界がぐるんぐるん回って。
水の中を泳ぐように。
空気が足りない。
それでも、貴女を一人にできない。
貴女が、冬君をきっと、一番先に好きになった。
今の冬君を、きっと私が一番に好きになった。
そんな二人だから、きっと、私達は友達にはなれない。
でも、同じ人を好きになった。
だから。やっぱり放っておけないから――。
「ちょっと、下河さん! 下河さん! ふー! 下河さんが――」
目の前が真っ暗になって。
朱音さんが、何かを叫んでいる。
優しいな、私なんか放っておけば良いのに。貴女は、こんな私のことを心配してくれるのね?
真っ暗闇に沈んで、まるで息ができない。
沈んで。
口から、泡が出るように。
海に沈んで、気泡が漏れるように。
落ちて。どこまでも、落ちていくように。
落ちて。
真っ直ぐに。
私の意識は、落ちた――。




