115 君と踏み出す、みんなと歩み出す
風が凪いで。
そっと、髪を揺らす。
新緑の香りが、鼻腔までくすぐってくる。
俺の左手を、雪姫はしっかり握っている。その息遣いは、少し緊張しているのを感じるけれど、呼吸は浅くない。口惜しいのは、雪姫に左――車道側を歩かせてしまうことだった。
「……冬君、大丈夫?」
「へ?」
「転ばないように、気をつけてね」
にっこり笑んで、そんなことを言う。そういうトコでなんだ。そして、やっぱりこういう子なんだ、と今さらながら実感する。本当なら、自分のことで、もう気持ちが精一杯のはずなのに。
「お互いが、心配で。自分のことよりも、相手が最優先って感じかな?」
にしし。そう黄島さんがワザとらしく笑う。
「こんな二人を見た感想を、kゴリ君どうぞ」
「ケンカ売るなら買うぞ、オトコオンナ!」
「女々しさで言ったら、ゴリがオンナオトコかな?」
「あぁ゛?!」
「はいはい、朝からケンカしないの」
仲裁をしてくれるのは、やっぱり光で。その親友も、このやり取りに、笑いを抑えるのは必死だった。
まぁ、そりゃ怒るでしょ。あだ名製造機、黄島彩音。
光のことは【ひかちゃん】
雪姫のことは【ゆっき】
まぁ、ここまでは良いよ。俺は【上にゃん】
正直、外で呼ばれるのはとても恥ずかしい。でも、まだマシな部類であったと知る。大國圭吾、少し略してOKゴリラ。ゴロが良いので【Kゴリ】
(……だから、それは怒るって)
でも、黄島大先生の暴挙は留まるところを知らない。
【リーゼント(全然リーゼントじゃない)】
【ミソちゃん(何でもできる万能具合から味噌カレー牛乳ラーメンから命名。ラーメン熊五郎の裏メニュー。いや、あれは確かに美味しいけどね、でも、ニックネームが原型をとどめていないよね?)】
【ナンパ師(その生き様に尊敬をするから、と。彼女さんとは、保育園からのご縁とか。でも、そう呼ばれる度に、彼女さんの顔が険しくなる。そんな難波君には心から同情したい)】
エトセトラ、エトセトラ。
でもね、雪姫がクスリと笑んで教えてくれたのだ。
――彩ちゃんが、みんなにあだ名をつけるのは『ひかちゃん』呼びを、堂々としたいからなんだよ? あ、これ彩ちゃんには……海崎君にも絶対、ナイショだからね?
いくら鈍感な俺でも、ココまで言われたら「もしかして」は「実感」に置き換わる。一見ギャルとも捉えかねない黄島さんが、光と一緒にいるのは幼馴染みだから――これが周囲の評価だ。光の気持ちを知っているだけに、本当に複雑だって思う。
でも、絡んだ糸をほぐすのは結局、本人達。外野がどう頑張っても、ただ糸を片結びにしかしない。
思わず、ため息が漏れる
。
風が凪いで。
髪を揺らして。
雪姫の髪が、俺の耳朶をくすぐって。それぐらいには、距離が近い。
風が囁くように。
頬を撫でるように。
そんな風にのるように、囁きが鼓膜を震わせる。
「え? あれって、下河じゃねぇーの?」
「ウソ?」
「あんなに可愛かったっけ?」
「でも、隣にいるのは上川君でしょ?」
「ゴールデンウィークに部活に来れたって聞いたよ?」
「良かったじゃん」
「図書室の王子様と雪ん子ちゃんかぁ。こうやって見ると、お似合いだね」
「もっと早く、上川君にアタックしておけば良かった!」
「根暗インキャって、言っていたのに?」
「そ、それは……みんなに話をあわせたダケで……」
「どっちにせよ、無理無理。あの二人の間に入れるのなら、やってみろって話だよ」
「教室で下河さんと話せるかな?」
「いきなりは無理なんじゃない? やっぱり保健室登校からじゃ――」
グリグリグリグリグリ。
気づけば、むすっと頬をふくらませた雪姫が、指の腹で関節を、押し込んできた。
それが微妙に痛い。
「……ゆ、雪姫?」
「よかったね、冬君。冬君のこと、格好良いって」
グリグリグリグリグリ。なおさら、雪姫の指が食い込んできた。
「雪姫だって、可愛いってたくさん言われていたよ?」
「冬君意外の人に言われても、全然嬉しくない」
むすーっ、むすーっ。ますます頬を膨らませていく。
「おい、上川。ココ通学路だから、節度ってものをだな……」
大國、救いの一声は――
「大國君には聞いていない!」
「ゆーちゃん、ごめん……」
即、撃沈だった。狂犬と言われている、大國君。ちょっと、意地を見せてよ? 諦めるの、かなり早くない?
「分かるぞ、大國先輩。その気持ちは、本当に分かる。でも、そのバカップルは犬も喰わないからね」
空君、それを言うのなら、夫婦喧嘩は犬も食わない、だよね? 勝手に犬の餌にしないでくれる?
(それから言っておくけど、君と天音さんも大概だからね?)
チラリと雪姫を盗み見る。
分かっていたことだ。雪姫と、俺という関係性から始まって。
クソガキ団のみんながいて。でも、今度はその狭い世界から、飛び出そうとしているんだ。些細なことで、雪姫が不安になるのも予想通りで。だったら――。
もう、自分がどんな行動をするのかなんて、考えるまでもなかった。
「雪姫――」
唇を寄せて、ゆっくりと近づく。その耳朶に触れるか、触れないかぐらいの、そんな距離で。
「雪姫が可愛いのは、当たり前じゃんか。何を今さらって、話だよ。それに、他の人の言葉なんてどうでも良いかな」
これは本当。そして、ウソも混じる。
今までは、 評価が気になった。
だから、ドコかで誰かが囁く、そんな言葉が気になっていた。
耳を傾ければ、いつでもこの学校では部外者で。
いつからだろう。
今のCOLORSが、どんな活動をしているのか、追いかけもしなくなったのは。
いつからだろう。
この目の前の子が、笑ってくれたらそれで良いって思ってしまったのは。
みんなのお姉さんと評価された君は、実は甘えん坊で。ヤキモチ妬きで。うまく自分の気持ちを言葉にできなくて。
でも、それで良いんた。
他の人に上手く言葉なんか、言わなくても良い。そう思ってしまう俺は、やっぱり大概だ。だって、雪姫のそんな感情も含めて、全部俺が独占したいって思ってしまうから。
「……だって、私より、可愛い人がたくさんいたし――」
「いないからね」
即答する。 厳密には、ヘアスタイリストの卵としては、可愛くない女の子なんていないと思っている。でも、雪姫は特別だから。そもそも雪姫と、他の女の子を同じ天秤に乗せて、測れるはずもないから。
「ウソだ」
「ウソを言ってどうするのさ」
別に雪姫が拒絶しているワケじゃない。不安で押し固められただけ。それなら、ただ溶かしてあげたら良い。俺のことなら、妥協しないくせに、自分のことになると――そう思い至って、つい苦笑が思わずこぼた。
(……それはお互い様、か。)
だから、なおさら。口を噤むことなんか、できるはずがなかった。
「雪姫の髪を切ったのは、誰だって思っているの?」
「……それは……冬君……」
「俺は最初に会った時から、この子は可愛くなるって思っていいたからね。俺がその髪を切ってあげたいって思ったの」
「ん、うん……」
「可愛さなんて、その人を表す要素の一つでしかないからね。他の人にとっての可愛いが、俺に当てはまるとは限らないし。でもね、俺にとっての愛しいは、一人しか当てはまらないから」
そうまで言って、もっと雪姫に距離を詰めていく。
「……ここまで言ってもダメ? 雪姫にはもっとはっきりと言った方が良い?」
「だ、大丈夫! わかった、冬君の気持ちは分かったから!」
珍しく、顔を真っ赤に染める雪姫を見ると、もっとこの子の素顔を見てみたいと、アクセルを踏み込んでしまいたくなる。
多分、こういうトコが似たもの同士なんだって思う。でも、いざ攻められると、甘え慣れていない俺達はすぐにフリーズしてしまって。本当にそういうトコまで、似たもの同士だった。
でも、これで満足なんかしてあげない。
だって、雪姫は自覚が足りないって思うんだ。ココまで、俺にとって必要不可欠な存在でありながら、他の子に目移りするって、思われているってコトが。
「だからね、雪姫――」
何度だって言うし、何回だって囁いてあげる。雪姫が不安になる度に。これでもかってくらいに。
そう言葉に紡ごうとした瞬間だった。
■■■
すっぱこーん!
俺の脳天が、ハリセンでぶっ叩かれた。
■■■
「……はぇ? 瑛真先輩?」
「君らは、本当に見境がないよね。息をするように、イチャつくなって、の」
ハリセンを肩に当てながら、呆れた眼差しを向けてきたのは、文芸部部長にして、Cafe Hasegawaの看板娘、長谷川瑛真先輩だった。
「瑛真ちゃん、看板娘って言わせるのどうかと?」
「言わせてないよ? 上川君も言ってなかったじゃん?!」
見事に俺の心を読んだのは、音無先輩だった。
「瑛真先輩、私はどうせなら二人が、行き着くとこまで見たかったですけど?」
文芸部のトラブルメーカー、芥川さんは今日も元気溌剌だった。でも、行き着かないからね?
「うん、それはきっと生徒指導部行きですよね」
笑顔でそういうことを言うのを止めて。そこまで、目に余ることはしていないと思うんだ――た、多分。
「良かった、ちゃんと止めてくれる人がいてくれて!」
空君が心底、安堵した声を漏らす。いや、だから……え? そんな目に余る行動してないよね?
「――お兄さん、お姉さん、それから空君」
ペコリと、天音さんが頭を下げた。
「私達は、こっちなので。お姉さん、頑張ってくださいね。応援してます!」
そう手を振ってくれる。思わず、唇が綻んで、俺も雪姫も手を振り返した。
「ちょ、ちょっと、翼! 離せって! ちゃんと、行くから! 手を引っ張らないで!」
「どうだか。お兄さん達と一緒に高校に行きそうな気配だったよ?」
「行かないよ!? 中学校の制服で何やってるの、って話じゃん」
「どうかな? 空君なら、やりかねないなぁって」
「流石にそれは、信用ゼロ過ぎじゃ――」
そんな言い合いをしながら、二人は角を曲がっていく。思わず、雪姫と顔を見合わせて――頬が緩む。
うん。本当に君ら、大概だからね。
■■■
「そういえば音無先輩、挨拶運動は良かったんですか?」
思わず、聞く。生徒会執行部恒例の挨拶運動。直近では、副会長――音無先輩しか、校門の前に立っているのを見たことがなかった。見かねた瑛真先輩が、何故か一緒に立っているのが、最近の風物詩になっていた。
もっとも、人の目を避けたかった俺は、先輩達が挨拶運動するより早めに登校していたから、あまりお目にかかることはなかった。
――上川君っ!
ぶんぶんっと、手を振ってくる瑛真先輩が恥ずかしかったというのもあるのだけれど。その都度、周囲から「誰?」と呟かれるのは、本当に勘弁して欲しい。
「今日は雪姫ちゃんの記念すべき日ですからね。生徒会のお仕事より、こっちを優先しちゃったんです」
そう音無先輩が満面の笑みを浮かべるのと、ほぼ同時にその声が飛び込んできた。
「音無副会長。執行部として、そういう態度はいただけないかな?」
風が凪いで。
そっと、髪を揺らす。
砂埃が舞って。
視界の隅で、雪姫が髪を片手で押さえるのが見えて。
校門の前。
複数の人影が佇んでいた。
(生徒会執行部――?)
雪姫の手を強く、握ってしまう。
満面の笑顔を溢して、生徒会長が微笑む。女子生徒の歓声が、まるで無機質なノイズのように耳に突き刺さる。
思わず、耳を塞ぎたくなる。
とん、とん、とん。
生徒会長から、一歩。もう一歩、距離を縮めていく。
この雑音に紛れて、雪姫の呼吸音がやけに耳についた。
「下河さん、久しぶりだね。来てくれて、本当に良かったと思ってるよ」
生徒会長が、心底嬉しそうに微笑んだのだった。
作者注
味噌牛乳カレーラーメン(バター入り)は、青森県に、行かれたらぜひ食べて欲しい一品です。




