111 君の声が鼓膜を揺らし続けて
アパートの階段を上がる。心なしか、そのステップが軽いと自分でも思う。退学勧告は撤回された。しかし、出席日数というタイムリミットが変わらないのは現実だった。
でもそんな期限なんか些事と言わんばかりに、雪姫の学校に行きたいという気持ちは、日に日に強くなっている気がする。間近で見て、肌に感じるのだ。
だから、保健室登校を取り付けた。
『そんなこと、認められるワケが! 高校は義務教育とは違う! たった一人の都合で、ねじ曲げるワケにはいかないだろ? 夏目先生は何を考えているんだ! 甘ったれた考えは大概にして――』
『認めよう』
『……はへ?』
『教頭先生がルールを重んじることも理解するが、私は生徒の可能性に賭けたいね。授業に出られた子が、成績の良い子だけが評価されるとしたら、それはそれで寂しいじゃないか』
そんな職員室でのやりとりを半ば冷めた目で見ていたことを思い出す。教頭がそこまで頑な理由が理解できない。でも、雪姫の障害になるのなら、俺は容赦しな――。
校長先生がそんな俺を見て、ふんわりと笑んだ。
『まぁ、下河さんは、私たちが何をしなくても、学校に来るって思うけどね。こんなの外野のいらないお節介だ』
コクンと頷いた。確かにって思う。
雪姫は強いですから。
だから、そう答えた。
校長先生は目を丸くして、それからさらに、その強面の表情を緩ませる。
――君がいてくれるから、じゃないのかな?
(……どうなんだろう?)
同じ状況にいたら、俺は雪姫のように向き合えるだろうか。ついそんなことを考えてしまう。俺自身、COLORSから逃げ出したようなものだったから。
――そして、今回も。
でも、自分が決めたことだ。
自分の言葉をなぞる。リュックに収めた封筒を取り出した。
――退職願。
今朝、早く起きて左手で書いた。何度も失敗したて、ようやく書きあげることができたんだ。
無理に動かせば走る痛みに顔をしかめてしまう。この右肩では、到底、Cafe Hasegawaでバイトなんかできやしない。でも、優しいあの人達に言えば、きっとやんわり、引き留める。それは想像できた。
冷静に費用対効果を考えれば、動けない従業員を雇うメリットがない。何より他のアルバイトスタッフに示しがつかない。短時間労働者は、働けなかったら契約はそこで打ち切りだ。少なくともCOLORS――ショービジネスの世界では、そんな光景いくらでも見てきたから。
だから、むしろ。誰にも――雪姫に相談をしないで決めた。そのことに後悔はない。
と意を決して、アパートのドアを開けたその瞬間、トマトソースの匂いが立ちこめる。雪姫が仕込んだ魔法が、俺の空腹を見事にくすぐってきたんだ。
■■■
「冬君、お帰り!」
駆け寄ってきたかと思ったら、飛びつくように抱きついてくる。三角巾で固定している右肩をカバーしながら。本当に、そういうところが、優しい子だって思う。
胸を埋めて、すーっと息を吸い込む。打撲箇所に湿布を貼っているので、体から香るのはむしろ薬品臭だ。あと、なんだかんだ言って、汗をかいて包帯の中が蒸れているのを感じる。総合して、そんな状態で匂いを嗅がれるのは、気恥ずかしさしかない。だから、話題転換することにした。
「あのね、雪姫。保健室登校から始めれそうだよ――」
「……冬君?」
俺の言葉は、ものの見事に雪姫に遮られた。その瞳が大きく見開いて、感情が揺れる。でも、すぐに飲み込むかのように――なんでもないように、雪姫はから笑いをしてみせる。
(――退職願がバレた?)
雪姫と出会って、ようやく一ヶ月になるかどうか。それなのに、お互いのことが分かりすぎてしまう時がある。今、きっと嬉しいんだな、とか。今、何かを言いたいんだな、とか。きっと、今、何かを我慢しているんだな、って。そんな感情を感じ取ってしまう。
たった一ヶ月の関係で何を言っているんだって自分でも思う。クソガキ団のみんなが付き合ってきた時間に比べたら、ほんのわずかしか共有できていない。
俺は後ろめたくなって、ゴクリと唾を飲み込んだ。言葉を探すけれど、どんな言葉も、雪姫を納得させられないって思う。どうしたら――そう思った瞬間、スマートフォンが鳴った。
「雪姫、ごめん」
俺はスマートフォンを手に取って、これみよがしに逃げ出したのだった。
■■■
「蒼司?」
誰なのか確認せずに出たことに後悔をした。COLORSの蒼司。本名、海山蒼司。COLORSでは中音域を担い、作曲もするユニットの顔。そして腐れ縁の幼なじみだった。
「やっと、出てくれた。携帯の番号が変わったって小春さんから聞いたよ。何回かけても出なかったから、拒否されたのかと思ったじゃんか」
「別にそういうつもりじゃ……」
大國との一件で、スマートフォンの画面は割れるわ、肩の骨折するわで。正直、蒼司達に連絡を入れる余裕がなかったのだ。
「小春さんが、そっちに行ってたんでしょ? 何があったのさ?」
「まぁ、今日、帰ったけどね。たいしたことじゃないじゃないから」
あえて心配させる必要もないと、言葉を濁す。
「親子だもんな。たまには、そんな時間もないとね。でも、小春さん、寂しがっていたよ? もう少し電話をしてやりなよ」
「余計なお世話だよ……」
「気恥ずかしいのは分かるけど、さ。でも冬がCOLORSに復帰したら、それで全部一件落着すると思うんだけれど――」
「それは無いから」
自分はなんて、冷たい声を出しているんだろうって思う。それなのに、蒼司は変わらず電話の向こうで、ニコニコしている。この空気感、本当に変わらない。
「まぁ、良いよ。冬がそう言うの予想通りだから。本題はさ、メールを送ったんだ。新曲を作ったから聴いてみてくれない?」
「は?」
俺は目をパチクリさせる。
「で、アレンジの余地ありだと思うから、また冬に頼みたいなぁって」
「何それ、意味が分からないんだけど?」
「なんで?」
蒼司はやっぱり無邪気に返してくる、
「あのね、蒼司。俺はCOLORSを引退したの。前回のアルバムだって、アレンジャーがちゃんとついたんだろ?」
俺が抜けての3RDアルバム「イロトリドリ」の編曲は、すべての曲を通して【TRUE COLORS】と表記されていた。これは全曲を通じて、アレンジャーが担当したことに他ならない。ただ、俺がアレンジした構成がそのまま採用されていたことが少し気になっていた。
「何を言っているのさ。COLORSは、冬がいてこそCOLORSだって。僕たちはずっとそう思っているよ? TRUE COLORSって、そういう意味合いだから。翠の命名、僕も朱音も納得したし、ね」
「いや何を言って、俺は脱退を――」
「活動休止、ね」
「は?」
「柊さんが、何を考えているのかは知らないけれど、アーティストホームページは『休止』ってちゃんと書き直してもらったからね。僕ら、インタビューでもそう言っているしね?」
「いや、だから戻らないし、そもそも俺は――」
「朱音も翠も、待っているから」
「あのなぁ……」
蒼司は一度決めたらテコでも動かない。本当に、頑固だって思う。世間的にも公式も本人も脱退と表明しているのに――COLORSは活動休止と言い張るのだ。でも、ココが妥協点だったのは否めない。
「それに冬、やっぱりギター弾くの好きでしょ?」
「は?」
「知っているんだよ。冬がジャズ喫茶でJAMしているの」
「な、なんで、それを――」
俺は口をパクパクさせるしかなかった。ジャムとは、即興演奏のことだ。Cafe Hasegawaでバイトが無い日限定だったが、市内のジャズ喫茶でギターを弾かせてもらっていた。政令指定都市とは言え、田舎である。ジャズ喫茶で【真冬】を知らない人と演奏するのは、本当に気持ちが良かった。これもスタジオミュージシャンのおっちゃん達にしごかれた成果だって思う。
「まぁ、ミュージシャンの世界は、思ったより狭いってことだよね。でも、そういえば、ここ一ヶ月は、来てくれてないって寂しがっていたよ、オーナー」
密告者、ココに判明。蒼司と関係がツーカーだったことに、頭痛が憶える。
でも、と今さながらに思う。この一ヶ月、捻出した時間はすべて雪姫に捧げていたんだなぁと、今さらながらに気付く。
「……しばらくギターは弾けないよ」
「へ? それ、どういう――」
「……肩の骨が折れたから」
言ってしまった。それだけで、自己嫌悪だった。
自分でももっと言い方があるだろうに、って思う。半ば八つ当たりにも近いって思う。見れば、キッチンから、雪姫が心配そうに視線を送っていることに気付いて、はっとする。
「それ、大変じゃん! 大丈夫なの?」
「骨が折れて大丈夫って言えるほど、俺は痛覚、麻痺してないけど?」
とまで言って、つい昨日まで気丈に『大丈夫』と散々言い張っていた自分を思い出す。
「……助けてくれる人がいるから、大丈夫」
結局、大丈夫って言っている自分がいる。カチン。コンロの火を止める音がした。気付けば、雪姫が俺の目の前にちょこんと座わるところで。
「え?」
「好きな人って言ってくれないの?」
雪姫が俺の耳朶に、そう囁く。思わず、ビクンと体が震えた。頬が熱を灯すのを感じる。
「え……? 冬、 隣に誰かいるの?」
「お……俺の大好きな、人」
「へ?」
喉がカラカラ渇く。気付けば、衝動的に通話終了のアイコンをタップしていた。顔が熱い。ほぼ、惚気にも近いって、自分でも思う。きっと脈拍も速い。なんで、こんなにドキドキしているんだろう。考えてみれば、雪姫と一緒に過ごす時間の全部、未だ慣れることがない。
雪姫を見る。
やっぱり、見透かすように俺を見て――それから、満面の笑顔を溢した。
「え? ゆ、雪姫?」
「うん、冬君が私のこと、大好きって言ってくれたのが嬉しい」
ニコニコ笑って、そう言う。雪姫にそう言われて、自分達が紡いだ言葉にようやく気付く。
――助けてくれる人がいるから、大丈夫。
――好きな人って言ってくれないの?
――お……俺の大好きな、人。
「俺の大好きな人」
自分の言葉をなぞる。ますます笑顔になる雪姫の表情が、視界に飛び込んできた。
赤裸々に何を言っているのだろう、と思う。
嘘は言っていない。雪姫に言われたから、そう言ったワケでもない。結局、漏れたのは本心で。隠すのは違うと思う。
――冬はさ、好きな人とかいる?
――へ?
――僕は翠が好きなんだ。冬は?
――母さん……?
――小春さんは除外だよ。母親じゃんか!
――え、ダメ?
――ダメというか、論外だよ。まったく……あのさ、二人はきっと冬のこと、好きなんだって思うんだよね。なんとなく、見ていたら分かっちゃうから、さ。
――へ? それは、できの悪い弟を見る、姉ちゃんズとして?
――なんで、そうなるのさ。
そんなことをダンスレッスンの帰りに、言い合っていた記憶が脳裏に再生されて。
でも、そんな思い出はあっさり、暖かい温度に包み込まれて、消え去ってしまった。
「雪姫?」
「上書きしなくちゃって思ったの」
抱き寄せられる。雪姫の胸に顔を埋める姿勢になって、妙に気恥ずかしい。
「ちょ、ちょっと、雪姫?」
「今のお相手は、誰か聞いても良い?」
「お、幼馴染だよ! COLORSの蒼司! 雪姫もCDアルバムのジャケット、見たことあるでしょ?!」
なんで、こんなに必死になっているんだろう。まるで浮気現場を目撃されたみたいだった。
「……可愛い声だったよね? ごめんね、聞こえちゃったから、ちょっと盗み聞きしちゃった」
意外にスマートフォンでの通話は、スピーカーの性能な良いから周囲に聞かれる時がある。雪姫との通話中、光がニヤニヤしていたことを思い出す。あんまり惚気ないようにしようと改めて思った瞬間だった。
「……蒼司は男だからね」
「うん。分かっているよ」
クスリと笑む。でもね、そう雪姫は囁く
「誰よりも、いつだって。冬君を一番独占したいと思っているの。その気持ちがなかなか止まってくれないから、困るんだけどね」
雪姫が微笑を浮かべる。その自分を見透かす双眸から、目が離せない。
「これでも私、結構ガマンしているんだよ?」
この瞬間、またスマートフォンが着信を告げた。
そんな音も。振動もどうでも良いと思ってしまうくらいに、雪姫の温度に抱きしめられて。
黙って決めた【退職願】の罪悪感――それすら、溶かされてしまいそうで。
でも、決めたんだ。
もう、誰にも迷惑も心配もかけたくないって。
(決めたから――)
スマートフォンの通知音が、まるで遠い世界のように小さく鳴り響いた。
反響して。
残響が、届かないくらいに。
遠くて、とおく、て。
雪姫が、その指で俺の髪を梳く。
普段、自分が雪姫にするのと同じような、指の動きを感じながら。
「私も冬君が大好きだよ」
だから、ね。
声が遠い。
それなのに、鼓膜を確かに振るわす。
だからね、冬君。
うん。
聞こえてるよ。
うん。良かった。
髪を梳く。
何度も髪を梳かれて。
抱きしめられて。
それから、それから。たくさんの言葉が囁かれて。
スマートフォンが鳴る。振動が体を揺する。でも、それ以上に雪姫の声が、やっぱり鼓膜を震わせる。優しくて、甘くて、暖かくて。そんな言葉が、まるで口付けをされるように、耳朶に触れて。鼓膜を揺らし続けて。
――絶対に、一人で抱え込ませてあげないからね。
鼓膜が、小さく震えた。
■■■
aoshi:色々、聞きたいことがあるけどさ。来月、ツアーでそっちに行くから! その時、しっかり聞かせてよ? それまで冬! 絶対に無理しちゃダメだからね!
(……これ、朱音と翠に、なんて言ったら良いのさ? 二人とも、ツアーなんかお構いなしで、飛び出すに決まってるじゃん! 冬、イジメ? これは僕に対するイジメなの?! 小春さん、説明求めるからね?! 一体全体、どうなっているのさ――!?)




