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109 弥生先生のミッションインポッシブル(後編)


 まさか、パンを咥えて走る羽目になるとは。夏目弥生、この年になってからの初体験。葉月が淹れてくれたコーヒーも、目玉焼きもしっかり、食べましたよ。でもねぇ……。



 ――ご飯の時間も大事だけど、行ってきますのキスを蔑ろにするの、ダメだよ?


 いや、そこは、ご飯の時間だよね? 一日三食、しっかり栄養を摂ることが、学業も仕事も大事。そんな家訓ができてしまった夏目家はどうなんだろう、と自分でも思うけれど。


(おまじない、だからね?)


 大君の言葉が耳に響く。


 その唇に指で触れて。初心(うぶ)じゃあるまいし。それなのに、頬が熱い。胸の奥底から、湧き上がる活力を感じながら。


 そんな大君の応援を私は、胸の奥底に抱きしめながら、走る。出勤までまだ余裕があるのに、走る。奔る。(はし)る。息を切らしながら。ハイヒールで、無謀にも。


 駅の階段を駆け上がって。

 スマートフォンをかざして、改札口をくぐり抜けて。

 人混みの間を縫って。ターンして。

 ようやく私は目当ての人を見つけたのだった。

 駅のホームに新幹線が到着した。彼女が乗降口に足を踏み入るようとした刹那だった。



「上川さんのお母さん!」


 私は、目いっぱいの声を張り上げてた。サングラスをかけた彼女が顔を向ける。上川冬希の母、上川小春。旧姓、神原小春と。

 駅のホームで私たちは対峙していた。




 

■■■




 

「あ、あの。冬希君の担任の……夏目弥生、です」


 息を切らしながら言っている自分が、情けないと思う。運動不足がたたっているのを痛感する。


「……な、夏目先生ですか?」


 彼女は目を丸くした。この直近で彼女が直面した出来事が、脳裏を駆け巡っていることは想像できる。それすら、私にとってカードだった。


「一言、言いたくて」

「え?」


 彼女は、さらに大きく目を見開く。打算もある。でも、それ以前に、私は上川君のことを伝えたかったのだ。


「あなたの息子さん、最高に格好良い子ですから!」


 上川君は孤独を抱えていた。誰かとつながることを諦めていた、そんな子だった。

 そんな上川君だから、雪姫ちゃんのために、あそこまで妥協なく向き合えたんだ。限定的とはいえ、雪姫ちゃんがほとんど過呼吸なく色々な人に向き合えているのは、その証拠だ。


 COLLARS(カラーズ)で舞台に立つ彼は、確かに格好良いと思う。


 でも、舞台から降りた今。雪姫ちゃんにだけ見せるその笑顔が、お世辞抜きで本当にステキと思ってしまう。人のために妥協なく、行動できる子なんだ、彼は。優しくて、痛みを知っていて、だから人に当たり前のように寄り添うことができる。そんな子なのだ。


(あぁ――)


 時間が足りない。言葉がまるで足りない。彼がどれだけ、雪姫ちゃんにとって大切な人なのか。担任として、もっともっと伝えてあげたいのに。


 発車を伝えるベルが無情にも鳴る。

 私に残された時間も、少ない。


 走り去っていった新幹線を見送りながら。

 風が髪を乱す。


 でも、そんなことに構っていられない。


 雪姫ちゃんと、上川君の青春のベルなら、もう鳴りっぱなしだ。そのベルを悪意ある思惑で消させない。絶対に――消させないから。

 私は、自分の唇に指で触れて。それから、階段をまた一気に駆け上がったのだった。





■■■





【8:30】

 チャイムが鳴る。職員室では、校長、教頭をはじめ、各教職員が自分の席で、言葉を待つ。今回は緊急事態であることから、ホームルームも生徒の自習時間にあてている。


 校長は白髪、白髭の出で立ち。

 視力障害――ロービジョンであることから遮光眼鏡を装着するその姿は、ギャングの元締め、ゴッドファーザーと言われてもおかしくない風貌だった。


「えぇ、それでは、時間も貴重ですので、職員会議を開催したいと思います。今回は、皆さんご承知のように、上川冬希、大國圭吾両名による傷害事件について、本校の取り扱いについて協議を――」

「教頭先生、その表現には異議があります」


 私は手を上げて、教頭(ハゲ)の言葉を打ち消した。


「弥生先生、あなたのクラスの案件だから過敏になるのは分かりますが、事実を直視すべきですな。今回の件はあなたの、クラス管理が行き届いていなかったからこそ、起きた事件であると思いますが?」


 教頭が、淡々と言う。その目がニタリと笑うのが見てとれて、腹がたつ。そして私に援護射撃をする教員はいない。次期校長の座を求める教頭には逆らえない。そんな空気をひしひしと感じた。


「……教頭先生、生徒を傷害事件の該当者として会議で取り上げるだけの根拠があるんだろうね?」


 そう言ったのは、校長だった。その遮光眼鏡の奥底に、どんな感情を灯らせているのか伺うことはできない。


「この件に関しては私からも情報提供をさせてください」


 手を上げたのは、カウンセラーの添田先生だった。


「例の下河雪姫さんの件で、この上川冬希君が関わっていると聞いています。しかし彼女が非常にデリケートな状況にあるのは、皆様ご承知の通りです。具体的には、登校ができていない状況で、カウンセリングも継続できていません。対人コミュニケーションによる過呼吸状態は、著しく生活に支障をきたしています。本来なら、精神科での治療が早急に必要な子です。そんな子が、暴力事件をおこすような生徒と一緒にいるのは、看過できません」


 言ってくれた、な。私は唇を噛みしめる。完全に教頭の情報操作に踊らされているじゃないか。この場では、私は完全にアウェー。どんな発言も聞く耳は持たれない。まさに、教頭の思惑通りに、ことが進んでいる。だからこそ、私はカードを――。


「ふむ」


 校長が自分の顎髭を撫でた。


「カウンセラーの先生は、口を謹んでもらいましょうか。私は発言は求めていないし、出席も許可していない。これは禿末(とくすえ)先生の独断、ということでしょうか?」


 あぁ、そうだった。ハゲと心のなかで連呼していたから忘れていたけれど、そんな名前だった。それにしても、と嘆息を漏らす。校長がここまで、言い切ってくれるとは思ってもみなかった。

 その刹那、職員室のドアがノックされた。


(――ん。良いタイミング!)

 返答を待つことなく、ドアが開け放たれる。  


「今、職員会議中だ!」


 ペースを乱された教頭は、感情丸出しである。このゲーム、制圧(メーク)できたかもしれない。デバッグ作業まで気が抜けない本業に比べたら、姑息なのでもない。プログラマ、舐めるなと声を大にして言ってやりたい。


「あ? 呼ばれたから来たのに、何だよそれ?」

「大國。一応、先生の前だから言い方気をつけて。迷惑をかけたのは事実なんだから」


 不機嫌な声を隠しもしない大國君と。それを宥める上川君。それぞれ片腕を、三角巾で保護していることを除けば、まるで仲良しに見える。


「お前らを呼んでなんかいない! さっさと教室に帰れ――」

「あぁ。上川君と大國君を呼んだのは私だ」


 そう言ったのは校長だった。職員室にいる誰もが、目を丸くする。


「これだけ先生方が重要案件と認識して、ホームルームも自習に置き換えての対応。当事者の意見を聞かずして、判断はできないと私は思ったのだよ。当事者として、上川君はどう思う?」


「そうですね。先生方にご迷惑をおかけしたのは事実です。大國にも、痛い思いをさせてしまって申し訳ないって思っています。そのうえで、自分達の現状を知ってもらって、ご指導いただけたらって思います」


 ペコリと頭を下げる。その光景を職員は――添田先生は、呆然として見やる。


「金髪の子が、上川冬希君じゃないの……?」


 やっぱりね。そういう情報操作をされていたワケね。


「上川は悪くないからな。ゆーちゃん……あ、下河雪姫さんに、何か酷いことをするんじゃないかって、誤解して俺が突っかかっただけだから」

「だが、その結果、上川の暴力で、大國君は大怪我をしたんだろう!」


 教頭の激昂は、もはや見苦しいって思う。


「は? 階段から落ちそうになった俺を、上川は助けようとしてくれたんだ。なんで暴力になるんだよ? むしろ、暴力は俺だろ」

「可愛い暴力だね」


「お、お前! また、そういうことを――」

「だって、大國は雪姫を守りたいって思っただけでしょ? 俺は暴力を振るわれたって、思ってないから」

「――と、当事者は言ってますが、はて如何に?」


 校長が、教頭に視線を向ける。完全に、ゲームは覆されたことを実感し、ただ怒りで体を震わせていた。でも、甘い。もう一枚、私にはカードがあるんだな。



 こんこん。こん。



 ノックの音。あえて、リズムを狂わすようにノックをするから、この子も本当に良い性格をしている。


「会議中、失礼します。校長先生と夏目先生にお客様です」


 そう言って、ステップを踏むように入ってきたのは――。


「音無副会長、今は職員会議中だ! 後にしろ!」

「だって、事務の先生が誰もいなかったから。仕方なく生徒が応対したんですけど。そこも含めてご指示いただけたら、助かりますけどね」


 にっこり笑って音無ちゃんが微笑む。まるで物怖じしない、その姿は流石だと思う。


「ごめんなさいね、副会長さん。あなたが怒られることになっちゃったわ」

「いえ、すいません。折角起こしいただいたのに、門前払いするような形で。上川君のお母さん、忙しいのに……」

「忙しいのは先生方も一緒ですから。また時間を作って、ご挨拶に伺うようにしますね」


 そう彼女は、教職員に会釈をしたのだった。

 上川小春。かつて神原小春の名で、お茶の間を。そしてステージを。ヒットチャートを。芸能界を騒がせたその人がココにいた。

 惜しげもなく、人を魅了する笑顔を振りまいていたのだった。

 





■■■





「神原小春さん……」


 そんな声を絞り出して、立ち上がったのは校長先生だった。神原小春のファンであったことは、リサーチ済みである。ファンクラブ会員番号007番。神原小春親衛隊(チーム・ボンド)の異名をもっていることもリサーチ済みである。


「本当に、会議を止めて申し訳ないと思います。ただ、息子が本当にお世話になっているので。今回、ご心配をおかけしたことを含めて、一言、先生方にご挨拶をと思ったんです」


「ご迷惑だなんて、とんでもない。今回の件、少しいきすぎた点もあったのかもしれません。しかし、友人達のすれ違い、諍いは青春のなかでよくあることです。教師として思うことはこの程度の怪我で、二人とも済んで良かったということです」


「私もそう思います。お医者さんからは、下手をしたら硬膜下血腫のリスクもあったとお話があったと聞いています。二人とも無事で、本当に良かった――」

「……母さん、なんでいるのさ? 帰ったんじゃないの?」


 と上川君は眉をひそめる。あぁ、上川君、そういう顔できるんだねぇ。お母さんと一緒にいて恥ずかしいっていう、年頃の男の子の顔。なんか、先生、嬉しくなっちゃう。


 小春さんにムリを言ったのは私だ。私の提案に二つ返事で、受けてくれたのだ。本当にありがたいって思う。


 と、今度は、電話が鳴る。もはや、職員会議どころではなかった。 

 事務の先生が応対するものの、困惑した表情で私に縋るような視線を送ってくる。


「あの、夏目先生……?」

「へ? 私に?」


「その、下河雪姫さんが、直接電話をかけてこられて――」

「「「「「「「下河さん?!」」」」」」」


 私を含めて、教職員と添田先生の声がハモった。この会議の議題にあがった生徒だ。登校どころか、コミュニケーションすら取れず、過呼吸に陥ってしまう雪姫ちゃん。教員の認識で考えれば、当然の反応だった。

 でも、私が驚くのは別の理由で。


(私はそんなカードは用意はしていないよ?)


「それは興味深いね。申し訳ないが、スピーカーモードで、通話してもらっても良いかな?」


 と校長先生が、微笑む。


「は、はい……」


 私は頷くしかない。校長先生は明らかに楽しそうだった。


(雪姫ちゃん、ごめん。用件はだいたい想像がつくんだけどさ。お願いだから、控えめに発言してもらって良いかな? )


 天にも祈る気持ちで、私は受話器を受け取る。


「はい、お電話代わりました。夏目で――」

「弥生先生! 冬君は大丈夫ですか?!」


 開口一番、みなまで言わせてもらえなかった。雪姫ちゃん、ごめん。これスピーカーホンだから、少し感情を抑えて。みんな聞いているから!

 そんな私の心の叫びは、当然ながら、必死の雪姫ちゃんには届かない。


「冬君、学校から来るように言われて、登校しましたけど、昨日まで熱があったんですよ!? 学校でも検温してくれたんですよね?」

「あのね、下河さん。ちょっと、待って……」

「冬君、痛がってませんか? 本当に大丈夫ですか?」

「だから、ちょっと――」


 まったく聞いてくれないんですけど? ちょっと、上川君、助けて!?


「冬、愛されているよねぇ」

「職員室で公開ノロケって、ウチの学校初じゃないか?」


 大國君がゲンナリした声で言う。


「そんな記念、いらないからね?」


 上川君が耳まで真っ赤に染めているのが新鮮だった。でも、そう言いながらも、迷わずに彼は受話器に手をのばすから、やっぱり上川君だなって思う。雪姫ちゃんのためなら、彼はいつだって躊躇わない。








「雪姫――」

「冬君!」


 上川君の声を聞くだけで、きっと電話の向こう側の雪姫ちゃんが、笑顔を咲かせている。声だけで、その表情が想像できてしまう。


「……親と疎遠じゃなかったのかっ」


 視界の隅で、苦虫を潰したような表情で呻いている教頭。

 そして唖然としている添田先生を私は見やりながら。きっと、彼女は、目の前でやりとりを直視できない。いや、私も直視――聞いていられないけどね。








 ――心配したんだからね。

 ――ごめんって。でも、腕を使うことはなかったから。

 ――昨日、熱を出した人がいう台詞じゃないからね。どれだけ、心配したと思ってるの。

 ――だから、ごめんって。

 ――ゆるしてあげないもん。

 ――でも、これは先生から言われたことで……。

 ――だったら好きってちゃんと言って。

 ――今?

 ――心配させたんだから。今度は、冬君が私を安心させる番だと思うんだ。朝はちゃんと、言ってくれなかったから。




 上川君が深呼吸をする。

 職員室は波を引くように、静まり返った。



「……好きだよ」

 受話器を手で包み込んでも、しっかり聞こえているからね。

 






■■■






 何にせよ、だ。

 私は小さく息をついた。


(……乗り越えた)

 って思う。流れは完全に引き寄せた。


 拳を小さく上に突き上げる。どうせこの状況、誰も見ていない。


 小春さんも、大國君も。それから、校長まで。一緒に拳を突き上げていたのが見えて、思わず私は目を丸くして――唇が綻んでしまう。

 

(言い切っちゃって、いいよね?)



 ――このゲームは、アップダウンサポーターズの勝利だから。





 このタイミングで、授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いたのだった。

 


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