108 弥生先生のミッションインポッシブル(前編)
「お母さん、起きて、起きてってば……」
葉月の声に、私は身をよじる。今日は本社の早朝オンラインミーティングはない。あと、一年。最後の教師生活を満喫したい。でも、今は、もう少し睡眠を貪りたいと思ってしまう。
「夏目コンピューター、副社長! 起きてください!」
仕事モードの葉月の声に、思わずびくんと体が反応して、飛び上がってしまう。
私は、目を点にした。
「おはよう、お母さん」
にっこり笑って葉月は言う。母に対しての扱いが、あまりに酷すぎると思う。
「夏目コンピューターのインターネットソフトウェア・ディレクター。ちょっと、副社長に対しての扱いがひどすぎませんか?」
「仕事と教師業を両立させるって言ったのは、副社長ですからね。それに、起こせって言ったのも副社長です」
「……はぃ」
項垂れつつ、気持ちを切り替える。葉月の言う通り、この道を選んだのは私だ。大君の相棒として、夏目の仕事を支えてきたが、途中で「教育」に興味が湧いたのだ。人材教育プログラムや、これからの若手層を知る意味でも、高校教育を体験したい。そんな想いで、教育課程を履修し、実際の教育現場に飛び出たのは良いものの――現実の過酷さに愕然としてしまった。。
教員は忙殺され、疲弊していた。この悪循環のなかで、得るものは少ないと感じてしまったのだ。
でも、あと一年。
雪姫ちゃんが学校に行けるよう、せめて頑張ってみよう。そう思ったのだ。
「それよりも副社長?」
「家で、役職を言うのやめてくれる?」
「ちょっと、良い情報が入りそうなんだけど、お母さん、聞く?」
私の抗議を無視して、我が社のソフトウェア・ディレクターは意地の悪い笑顔を浮かべたのだった。
■■■
葉月はパソコンルームに入るや否や、キーボードを叩く。冗談でも、ジャレ合いでもなく、彼女は夏目コンピューターが誇る優秀なソフトウェアエンジニアの一人だ。インターネットアプリの開発は葉月もチームの一員なのだ。ソフトウェア・プレジデントである下河大地のお墨付きも受けている。この小学生、舐めてかかると、大人であってもあっさりと論破されるのだから、本当に油断ならない。
「今回はなにをやらかすつもりなの?」
「やらかすなんて、人聞きが悪いよ、お母さん。ちゃんと、技術検証を踏まえて、だよ? それに雪姫お姉ちゃんに付随する案件だから、なおさらね」
こういう時だけ、お母さん呼びはズルい。それに、小学生が使う台詞回しじゃないからね?
雪姫ちゃんはきっと憶えていないだろうなぁ。近しい社員の子ってこともある。もともと製薬会社からスタートした夏目は、先代の意向でコンピュータ部門を創設した。厳しい薬剤ビジネスのなかで、薬剤で培った技術をコンピューターに。コンピューターで創り上げたテクノロジーを薬剤開発に転化し好循環サイクルが生まれたのは間違いない。
でも、当時のコンピュータ部門は、薬剤部と違い、オフィスビルなんかもっていなかった。
ガレージで、ワープロソフト「午後睡」を初期チームが開発したのが、伝統になった。ガレージを拠点に、コンピューター部門の開発が続く。言ってみれば、エンジニア達は、そんな環境で、同じ釜の飯を食った仲間なのだ。
転任早々、その大地君の娘――雪姫ちゃんの担任になったのは、運命といえた。教師としてのラストを、妥協なしで走り切る。そこに迷いはない。
きぃーん。
そんな雑音が、耳が痛くなるくらい部屋中に響いて、私は思わず耳を塞ぐ。お構いなしに葉月はキーボードを叩き続ける。すると、ようやく音が柔らかく、束ねられたように、一つの声を形成していった。
「……私はですね先生。非常に危惧しているんですよ」
クソ教頭の声だった。こんな朝早くからこの人達はなにを――。
「教頭先生は本当に、下河さんに心を砕かれていらっしゃるんですね」
感心したように声を上げたのは、スクールカウンセラーの添田先生だった。
添田先生は、悪い人ではないと思う。
――下河さんには安心できる環境が必要です。
そう言ってくれたのは彼女だ。
私のクラスメートとの接点を作ることから始めようという提案。両手を上げて賛成してくれたのは、添田先生だった。その彼女が、頑なに雪姫ちゃんの登校に否定的だったことに、ずっと首を傾げていた。
学校からの退学勧告も、添田先生の後押しを受けて、急ピッチに決まった気がした。
「……下河さんのことを考えると、別の学校を選択させることは酷だと承知しています。学内でフォローできないというこの事実、そのれこそが私どもの力不足、それを証明したようなものですから」
聞いていて、ムカムカしてきた。校長の席しか眼中にない教頭が、そんな高尚なことを思うものか。その「私たち」のなかに、教頭は含まれていないのをヒシヒシと感じて、嫌悪感しかない。
でも、なるほどと得心がいった。直近で、雪姫ちゃんに対する頑な姿に、戸惑っていたが、教頭の情報操作があったのなら、納得しかない。
「……下河さんの視点で考えれば、そうですね。でも、適さない環境で無理をさせない。その子にあった環境へ誘導してあげることも、大人の仕事だって思うんです。あの子とは、あの日以来カウンセリングができていません。夏目先生のご報告はあまりにも楽観的です。彼女の不安定さを考えたら、到底容認できません」
ちょっと待てと思ってしまう。言い分はもっともだが、今の雪姫ちゃんを見てから判断をして欲しい。彼女は上川君というパートナーを得て一歩踏み出す勇気をもつことができたのだ。彼女にとって、その一歩はどれだけ、エネルギーが必要だったのか。今の雪姫ちゃんにとって必要なのは上川くんであって、カウンセリングじゃない。そこだけははっきりと断言できる。
「……先生の見解を聞いて確信しました。下河さんのためにも、余計な感情は捨てたいと思います。今日の職員会議で、下河さんの方針を最終決定します。校長が、出張から帰ってくるタイミングで、性急と思われるかもしれませんが――」
「何を仰っているんですか。教頭先生が苦慮されていたことは理解していますが、判断が遅すぎるくらいです。本来なら彼女は、精神科でしかるべき治療を受ける必要があります」
「……それを聞いて、安心しました。しっかりと添田先生の意向を、校長には伝えたいと思います」
あくまで音声データを傍聴しているだけ。でもこの瞬間、教頭が「にやぁ」とほくそ笑んだ気がした。
「……もしご許可いただけるのなら、その会議に私も参加させていただいてよろしいでしょうか?」
「添田先生が、ですか?」
「幸い今日は午前中、カウンセリングの予定が入っていません。朝の職員会議の後、クリニックに出勤しても余裕がありますから」
「それは心強い!」
「彼女をあのまま放置したくないだけなんです、校長先生に現状をしっかりお伝えしたいと思いま――」
音声は、ココで途切れた。
私が、デスクに拳をたたき落としたせいで。
「ちょっと、お母さん! パソコンが壊れるからっ! 私が自作した、世界で一つのオンリーワンなんだからね?!」
娘の抗議に我に返る。
ずっと抑えつけていたいた感情が、娘の前で爆発させてしまったのだ。後悔しても、もう遅かった。
「でも、よく我慢したね」
そう手がのびて、抱きしめる存在に、私は目を白黒させた。でも、この温もりを拒もうと思わない。今まで葉月以外で、相談できる相手は上川君しかいなかった。学校の中でも、孤軍奮闘――誰も雪姫ちゃんを守ろうとしなかったから。
――だって、仕方がない。
そうやって、教員の誰もが言葉を濁す。
仕方がない?
誰も、何も行動をしていないのに。教頭は芦原と明らかに癒着しているのに?
(……仕方がない?)
私はイヤだ。絶対に飲み込まない。大人の事情で、見なかったことになんかしたくない。雪姫ちゃんが、上川君の前であんなにステキに笑うのに。ココの大人達は、そんな彼女を見ようともしない。むしろ、今日の職員会議では、上川君と大國君の暴力行為を糾弾しようというのが、メインテーマなのだ。
――だから、負けられない。
これは私の戦いだ。
そして、私たち、アップダウンサポーターズの戦いでもある。
上川君を守る。雪姫ちゃんの笑顔を守り通す。これは私たちのイコールだから。
「弥生――」
大君が囁く。ずっと欲しかった温度で、私をまるごと包み込んでくれる。
「一人で戦うんじゃないからね?」
「う、うん……」
心強いって思う。これだけで、胸の奥底まで満たされる私は本当に現金だ。それこそ、雪姫ちゃん達を笑えないくらい、今でも大君に恋をしている。
大好きな人がいるから頑張れる。折れそうな時だってあった。その度に、大君の存在が、私の背中を押してくれたんだ。ココまでくるまで、紆余曲折があった。みんな、ようやく手をのばすことができたんだ、って思う。
きっと紐解けば、海崎君だって、黄島さんだって。それに大地君も春香さんも、後悔がたくさんあったのだと思う。あーすれば良かった、こうすれば良かった。今だって、私だってそんな感情だらけで。
私の立ち回り一つとっても、上川君の骨折だって防げたのじゃないかって思う。夏目コンピューター内部だったら、あんなにうまく立ち回れるのに、今の私は本当に上手くいかない。添田先生をもっと、味方につけられたら。そんな思考がグルグルと回って――。
「あのね、弥生」
大君が私に囁いた。
「弥生はよく頑張ったよ。会社と教育は違う。でも、向き合うのは、みんな人だから。人が向き合い方を間違えたら、こんなに簡単に人を傷つけちゃう。それを俺も学んだから」
「ん、うん……」
「もっと、人について学ばないとって思ったの。俺たち、学校で何を学んだんだろうね?」
「それは――」
私が返答するより早く、大君に言葉を奪われてしまう。
「だ、大君?!」
「思い出したの」
「へ?」
「中学の時さ。俺、弥生とどうやったらもと仲良くなれるかなぁって必死に考えていたんだよね」
「……なんで今さら、そんな話を――」
顔が熱くなる。
あの夏――。
大君との接点を見いだせなかった私は、頭に入らないくせに単語帳ばかり見ていた。
その私の単語帳を、大君は取り上げ――放り投げてしまったのだ。リングが外れて。その1枚1枚がまるで、羽根のように舞い上がったのを、今でも憶えている。
「一番、悪いのは無関心なのかもね。俺はあの時、弥生をしっかり見ていなかった気がするから」
ふにゃっと、大君は笑う。思わず私は見惚れてしまった。
そうかも、って思った。私だってそうだ。あの時の私は大君のことを表面上しか見ていなかった。
上川君や雪姫ちゃんの評価だってそうだ。
上川君は陰気で、内気で内向的。閉じこもり傾向で協調性がない。それが前任教師からの評価だった。そんなレッテル、彼と話せばあっという間に、崩れ去ってしまった。ひたむきで、全力。誰かのためなら、妥協なんか一切しない。彼はそんな子だった。
雪姫ちゃんは男の子に守られてばかりいることを良しとしない、やはり「雪ん子ちゃん」だった。彼女の本質はナニも変わっていない。
でも、添田先生は、そんな雪姫ちゃんのことを、まるで知らないのだ。
「だから、ね。アップダウンサポーターズで、これは弥生にしかできないお仕事だから。弥生に託すからね?」
ニッと、大君は笑む。
「うん、託された」
コクンと頷いて、私も笑んでみせる。
「先生達に、大学で人間についてちゃんと学んできたのかって、言ってやれ。好きな人に妥協しない上川君と雪姫ちゃん。二人の爪の垢、煎じて飲めってね」
「あのハゲにはもったいないよ」
「違いない」
大君は、苦笑を浮かべて――それから真顔で私を見つめる。
「……大君?」
「おまじない。俺は応援しかできないから」
暖かい温度が、唇越しに伝わって。若かりし頃には、恥ずかしくて到底できなかったコミュニケーションが、今は当たり前のようにできてしまう。違う――あの時より欲張りな私がいるんだ。
大君だけじゃない、葉月だけでもなくて。
上川君にも雪姫ちゃんにも、笑っていて欲しい。そのためには妥協なんかしない。空気なんか読まないし、忖度なんかしてやらない。
(――おまじないをしてもらった、私は最強なんだから)
ニッと笑みを溢して。
でも、このおまじない。欲張りな私は、一回だけじゃ、とても足りそうになかった。
【とある娘さんのぼやき】
キッチンでは、コーヒーメーカーのセットをしながら、葉月はため息をついていた。
「仲が良いのは良いんだけどさ、子どもの前で節度ってものを、うちの両親はもってほしいよね」
コポコポ、コーヒーが抽出される音を聞きながら、葉月は呟く。
「……今日はやること、たっぷりあるんでしょう?」
生暖かい視線を向けながら。
「ま、仕方ないか。ずっと会えなかったもんね」
そう、肩をすくめて。娘は、フライパンを片手に目玉焼きに取りかかる。
母が娘にせっつかれるまで、あと20分――。




