107 小春さんと雪姫ちゃんと、ムカシの冬君
「温め直しましょうか?」
そう雪姫さんに言われたけど、私はやんわりと断った。早く食べたいという衝動が勝る。この香りに、すっかりノックダウンされてしまった私がいた。
そういえば、って今さらながら思う。冬がマンションを出てから、惣菜か、外食が中心になっていた。このご馳走を前にして、上川小春の理性は、もの見事に陥落したのだった。
(でも――)
なんとか、ガッツキそうになるのを踏みとどまる。
「あの雪姫さん、ケチャップを貸してもらっても良い?」
「え? 小春さんは、濃い口でしたか?」
「そうじゃないんだけどね」
クスッと笑う。ケチャップを受け取った私は、名前を付け足したのだ。
――yuki
と、そう書いた。
「小春さん?」
彼女が目をパチクリさせる。
「んー。だってね、冬が、あんな風に笑うって、私は知らなかったから。絶対にあの表情は雪姫さんが、引き出したんだろうなぁって思うのよ。そう考えたら、ね?」
クスリと笑みを零してみせて。
「それって――」
「うん。冬希をお願いできるのは雪姫さんかな、って思っちゃったの。だから雪姫さん、冬をお願いできる?」
そう私が言うと、雪姫さんは満面の笑顔で頷くから、かなわない。こんな笑顔をされたら、そりゃ冬希も好きになるって思う。この上川小春が魅入らせられたのだ。こんな子がステージに立ったら、きっと誰もが魅了されて――。
私は、心のなかで首を横に振る。
つい仕事モードになる自分をバカと罵る。この子は、人前で過呼吸になってしまうのだ。そんな状態の子を、ステージに引っ張りだして何をさせようというのか。
いつから、ステージに立つ人。立てない人。そんな目で、誰かのことを見るようになっちゃったんだろう。思わずため息が漏れた。
「小春さん?」
雪姫さんが首を傾げた。
社長じゃない。神原小春じゃない。偶像じゃない。上川小春を見てくれる子なんだと気付く。思わず、蓋をしていた感情が湧き上がってくる。
「あのね、雪姫さん」
「え?」
「お願いしたいことがあるの」
雪姫さんが目をパチクリさせる。あぁ、ダメだ。抑えようと思うのに。なんて図々しいって思うのに。この言葉を私は飲み込むことができない。
「雪姫ちゃんって、呼んでもいい?」
「え? え……あ、そ、その。嬉しいです」
はにかみながら、でも満面の笑みを零して。
「それで、その……ね。私のことを、お義母さんって……言ってもらえたら嬉しいなぁって。ちょっと気が早いって思うけど」
私は何を言っているんだろうって思う。冬に向き合うこともせずに、今さらそんな――。
「お義母さん」
雪姫さんが迷わずそう言ってくれたことに、目を丸くする。
「改めて、こう言うと照れますね?」
雪姫さん――雪姫ちゃんが、頬を紅潮させながら言う。もっとちゃんと、冬と向き合わないと、そう思う。この子に「お義母さん」と呼んでもらうからには、自分も母親として、冬と向き合わないと。そう思う――う?
ふにふに。
雪姫ちゃんが、私の頬を軽く摘んだ。
「……雪姫ちゃん?」
「やっぱり親子ですよね。冬君も抱え込んじゃう時って、そういう表情しますから」
「え?」
「察するに、冬君との距離感に悩んでいる感じですよね?」
ニッコリ笑ってそう言う。言い当てられて、言葉にならない。コクコク頷くことしかできなかった。
「私と冬君が出会ってから期間はまだ短いですけど。冬君がお義母さんのこと、拒絶する言葉、一回も聞いたことないですよ」
その一言に、私は返すべき言葉が出なかった。口のなかがカラカラ乾く。でも、冬希をちゃんと見てこなかった私には、そんな資格はないから――。
「本当に悪いことを考える時の、顔がそっくり」
くすっと笑ったと思えば――雪姫ちゃんに、私は包み込まれていた。
「え? え? え?」
「お義母さんだから、これくらいしても良いですよね?」
にっこり、耳朶にそう囁いて。
「雪姫……ちゃん、ごめ……ごめんなさい……。今日会ったばかりの子に……私、なんてことを……」
クスリと雪姫ちゃんが微笑む。でも、その表情に引いた様子は一切なかった。
「お義母さん、そういう風に相手のことを思ってくれたら『うれしい』って、冬君は言うと思いますよ?」
「へ?」
「だって、心配したりヤキモチ妬いたり不安になったり。みんな相手があっての感情だって、冬君が教えてくれましたから」
あぁ、そうだ。冬は優しい子だから、相手を否定しなかった。
ショービジネスという舞台。華があるかないかで、あの子を否定していたのは、私達大人だ。
そして私だけ、拒絶されたとずっと思いこんでいた。冬はただ、意志を見せてくれただけなのに。
この感情の坩堝から、抜け出せない。気付けば、雪姫ちゃんが私の涙と洟水で濡らしてしまっ――って?
「ヤキモチ?」
私は目をパチクリさせた。流れ出たものが、引っ込んでしまいそうになる。
「お義母さんにこういうこと言うの、どうかと思うんですけどね。私、冬君を独り占めしたいって気持ち強いんです」
照れ臭そうに、雪姫ちゃんは笑ってみせたのだった。
■■■
「美味しかったぁ」
思わず、そんな言葉が漏れてしまった。結局、温め直してもらって、残さずいただいてしまった。デザートに出されたシフォンケーキまで、ペロッと食べてしまったのだから、自分の食欲に驚く。
「芸能人の方には、お口に合わなかったと思いますけど」
「元、だからね。今は裏方だから。でも、本当に美味しかった!」
電子レンジで温め直したのに、オムライスの卵がとろっと溶けるのだ。これ、できたてだったら、どれほど美味しかったんだろうと、悔やんでしまう。
「良かったです」
私の言葉に、安堵したように雪姫ちゃんは胸を撫で下ろす。いやいや、本当に美味しいから。このクオリティと私のご飯を比べられたら、そりゃ雪姫ちゃんの傍にいたいよね、と妙に納得してしまう。
「でも、ご飯は手段ですから」
「へ?」
「だって、冬君に私だけ見て欲しいって思うので。私、ワガママだから、色々な方法を使ってでも冬君を独占したいって思うんです」
「そっかぁ」
思わず、私まで笑みが溢れてしまう。冬は幸せ者だなぁって思う。そして、忘れていた気がする。あれほど誰にも渡したくないって思っていた、恋する気持ちを。
こんな時だというのに、さー君の顔が瞼の裏側にちらついてしまう。
「雪姫ちゃん、あのね――」
「へ?」
「もっと、冬を独占したくない?」
冬が起きていたら、全力で拒否をする。そんな提案を私は、雪姫ちゃんに投げかけた。
■■■
私の企みは単純明快だった。【今の冬】を見せてくれたら、【昔の冬】を見せてあげる。
まずは雪姫ちゃんの番。
ソロで映っている写真。ルル君と一緒の写真。学校の友達とのショット。バイト先で……それから、雪姫さんとの二人のツーショット。冬との出会いの物語を、雪姫ちゃんに紡いでもらいながら。
「……冬君がきっと恥ずかしがると思うんですけど、ナイショで小説を書いているんです」
「え?」
「タイトルは――」
君がいるから呼吸ができる。小説だから、ちょっとオーバーに書いている部分もありますけどね、そうはにかみながら、雪姫ちゃんは笑う。
今は落ち着いているけれど、雪姫ちゃんはほんの些細なことで彼女の呼吸は乱れる。それは今日という短い時間の中で痛感した。でも、と思う。君がいないと呼吸ができないのは、冬も一緒なんじゃないかしら? そんなことを思ってしまった。
どの写真も、私が見たことのない笑顔を浮かべている。COLORSでこんな笑顔を見せていたら、もっと冬の評価は――いや、止めよう。私は冬の居場所を作ってあげらることができなかった。ただ、それだけのことだから。
私はタブレットを取り出して、写真アプリを起動した。まずはCOLORS時代の写真から。
「……か、格好良い……」
視線が冬を追いかけながらも、次第にその相貌に複雑な感情が孕んでいく。予想できたことではある。COLORSの蒼司、朱音、翠と仲良く肩を寄せ合う冬の、そんな姿を見てしまえば。
「前も思ったけど……仲が良いですよね」
雪姫ちゃんの呟きに、私はコクンと頷く。そうか、雪姫ちゃんは、前にもこの子達の写真を見ていたのか。
「ま、いわゆる幼馴染だからね」
冬がこの子達の後を追いかけるそんなイメージだったのになぁ。思わずため息がもれる。目を閉じると――閉じなくても、あの子達の声が、今でも鼓膜を揺らすのだ。
――なんで、冬希が辞めるんですか?!
――おばさん、ウチは納得しないから!
――小春さん、整理したいです。これは、どういうことなんでしょうか?
あのライブの直後、詰め寄られたあの瞬間が目に灼きつく。当の本人は混乱に乗じて、ライブ会場を後にしているのだから、本当にひどいと思う。あの子達はあれほど冬を慕っていたのだ。ただ、冬のなかでは答えが決まっていた。私に対してサインも出していた。私が、見過ごし続けた。ただ、それだけの話で。
私は、そんな思考を振り払うような、画像をフリックして遡っていく。
卒業式、運動会、そえから、みんなで輪になって歌をうたって。それから――あぁ、この時はcolorsもup riverもなかったなぁ、って懐かしく思う。庭にビニールプールを出して、無邪気にはしゃぎ回っている冬。確か、保育園の時だったと思う。
「こ、こ、小春さん!」
見れば、顔を真っ赤にして雪姫ちゃんは狼狽えていた。
「え?」
雪姫ちゃんは視線を逸らそうと、でも画面から離せず、顔を両手で覆っている。その隙間から、視線が向いているのは見え見えだけど。あぁ、そういうことかとポンと手を打つ。
「いくら、冬が裸でも、これ保育園の時よ?」
「あ……え、分かってますけど……そ、その……。やっぱり、大きくなっているんだなぁ、って……」
「は?」
雪姫ちゃんの言葉が理解できず、私は凍りついた。
「ちょ、ちょっと?! ちょっと待って、雪姫ちゃん?! それ、どういう――」
冬のソレを見たと言ったようなものだった。
「い、いや、違うんです! そういうこと、まだしてないですから!」
雪姫ちゃんが、さらに真っ赤に顔を染めていく。
「そういうこと、したから知っているワケよね?!」
「ち、違います! ただ一緒にお風呂に――あ――」
雪姫ちゃんが、慌てて口を抑えるが、もう遅い。ニヤリと、私の唇が綻んだ。
「ふぅん。最近の高校生は、やっぱり積極的なんだねぇ」
「そ、そうじゃなくて……わ、私はちゃんと水着を――」
「それはそれで、えっちだねぇ」
「だから、そういう意図はなくて――」
あわあわする雪姫ちゃんを尻目に、笑みがやっぱり溢れて。今日日のアイドル達は、もっとえげつないことをする子だっている。それを考えたら、なんて純粋なんだろうって思う。高校生二人に委ねるのは親として心配してしまうけれど。でも、雪姫ちゃん以外に、冬を委ねられる人なんかいない。それを分かったうえで、私は爆弾を投げ放つことにしたのだった。
「じゃぁ、どういう意図があったのかな?」
にぃっと笑ってみせて。
イジワルだなぁ、って思う。
雪姫ちゃんの膝で、今もスヤスヤ眠る冬を尻目に。
と、冬の手がのびて。雪姫ちゃんを抱きしめる。
「……ふ、冬君?」
「雪姫、大好きだよ」
ストレートな一言にこっちの方が赤面してしまう。
「う、うん。私も大好きだよ」
コクン、コクン。そう頷いて見せながら。
そんな若い二人を肴に、晩酌とシャレこもうか。幸い、冷蔵庫には私が冷やしておいたビールもあるしね。
好きって、素直に言えるのが、羨ましい。
私はいつから、さー君に「好き」って言わなくなっちゃったんだろう。そんなことを思いながら、私は缶ビールのタブをプシュッと開けたのだった。
■■■
「うん、熱はないね」
雪姫ちゃんが冬の額に、自分の額を重ねる姿を尻目に、私は朝食の準備に勤しむ。と言っても、雪姫ちゃんのの共同作業で、すでに完成。あとは配膳するのみだが。
「ゆ、雪姫。近い、近いから! 母さんがいるから!」
何を今さらと白けた目で見てしまう。
「はい、冬君。火傷しないようにね」
「あ、うん。いや、やっぱり、自分で食べ――」
「無理はしないの? 今は安静だよ?」
「う、うん……」
はい、論破。撃沈だった。色々な冬の表情が見れて新鮮だけど、すっかり雪姫ちゃんに尻に敷かれている感がある。まぁ、冬は抱え込んだり溜め込んだりして、感情が暴発する傾向にあるから。雪姫ちゃんぐらい、寄り添ってくれる子が良いんだと思ってしまう。
気づけば、やっぱり笑みが溢れていた。
「な、なんだよ? 気色悪い」
「いや、ね。これは、孫を見る日も早そうだなぁ、って」
私がそう言った瞬間に、むせこんだ冬が、ご飯粒を吐き出した。
「ちょっと、冬、汚いから!」
「冬君、ゆっくり食べてね? 喉つまらせちゃうよ?」
「母さんが変なことを言うからでしょ!」
半ば呼吸困難になりかけた冬を見ながら、クスクス笑う。雪姫ちゃんと目があって、やっぱり笑みが溢れる。
「な、なんだよ……? やけに二人とも、息が合って――」
「まぁ、夜に色々お話をしたからね」
「うん、色々お話をしたの、お義母さんと」
雪姫ちゃんもにっこり笑って頷く。
「はぁ?」
冬が首を傾げる様子が可笑しくて、楽しくて。つい、爆弾を投げたくなってしまうのは母心だ。
「例えば、冬が全裸でプールに入っている時の写真とか、ね」
「はぁぁぁ?!」
「可愛かったよ。それから、お義母さんの真似をして、冬君がお化粧したのとか」
「やめて、ストップ! マジで止めて! 他に変なの見せてないよね?!」
「あと、お義父さんを真似して、髪を自分で切って、マッシュルームカットになった冬君とか――」
「なに、見せてんの?! マジ、やめて!」
「色々、他にも見たけど、もうナイショが良いよね?」
「……ほ、他に何をみたの?」
「保育園のお遊戯会で、将来の夢を言うシーンで、小春さんと『結婚する』と宣言したり、とか?」
「やめ、やめ! 本当にやめて!」
すっかり頭を抱え込んでしまっている。片手で、だけど。
「あらあら」
「母さんのせいだろっ!」
ぶすっと冬が頬を膨らませる。そりゃ、そうよね。かわいい彼女さんの前じゃ、格好つけたいって思うだろうけど。
でもね、冬。
私は嬉しかったんだ。
電話じゃなくて。
ちゃんと、私を見て「母さん」って言ってくれたことが。
「あのね、冬」
場違いかもしれないけど、そんな言葉が出てしまったんだ。
「え?」
「また来ても良い?」
「何、言ってるの?」
呆れた顔をされた。
「母さんが、何を遠慮する必要があるのさ?」
さも、当たり前といわんばかりの顔で。
「母さんは、忙しいんだから。無理しないようにね。ちゃんとスケジュール確認して、俺もそっちに行くから」
私はその言葉に目を丸くする。雪姫ちゃんが、そんな私達を見てニッコリ微笑んでくれているのが見えた。でも、衝動が止まらない。
私は、思わず冬を抱きしめていた。
「ば、バカ。母さん、何するの? 雪姫がいるんだから、恥ずかしいって――」
「じゃぁ、私も混ざっちゃおう」
雪姫ちゃんが、冬と私ごと、抱き締めてくれる。
「は、何やって、ちょっと、雪姫?!」
そう言いながらも、頬が緩んるよ、冬? そう思いながら、私は冬と雪姫ちゃんを、まとめて抱き締め返したんだ。
伝えなきゃ、伝わらない。
寄り添わなきゃ、感じない。
分かり合うのは、分かち合わなきゃムリ。
でも、温度を感じたら、こんなにも近い。
大好きって、伝えれたら、もっともっと近くなる
「冬、大好きだよ――」
今さらだけど。
私は何年か振りに、やっと言葉にすることができたんだ。
作者からのお知らせ。
主人公、ようやく起きました!




