95 好きな人の心配をするのは、そんなに悪いことなの?
「イヤだよ。冬君を支えるのは、私だもん。誰にも譲るつもりはないからね。冬君を支えるのも、お世話をするのも、全部私の役目だから」
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俺は目をパチクリさせた。何が起きたのか、未だに自分でも整理できていない。
あの時、とんと小さく背中を押されて。気付いたら、階段から転げ落ちていた。
スローモーションで落ちていくのを、まるで体の外から傍観しているような感覚だった。
そして息が止まるぐらい、何度も何度も踏みつけられた。
『……君がいるせいで。君がいるから、下河さんは……』
どこかで聞いた覚えがある声だった。でも、妙に作り物のような違和感もあった。でも、そんなことを考えられないくらい痛覚が体を駆け巡る。
『君がいるから! 君のせいで!』
踏みつけられて、その都度悪意を浴びた。
『君がいなければ!』
怨嗟にも等しかった。痛みに悶えながら、でも動く方の左手で、その足を掴む。暗闇のなか目と目が合った。記憶がぐちゃぐちゃだって思う。でも、声と顔が一致しない。そして、猫の鳴き声?
(ルル?)
心配しなくても良いよ、相棒。ただ、なんとなく理解した。雪姫は、こんな感情の奔流にずっと晒されていたのか。そう思うと、自分の痛みより、これまで雪姫が受けた傷を考えてしまう。
(――それは、許せない)
混濁とした意識のなか思う。今までだって悪意に晒されることはあった。ショービジネスの世界では、選ばれた人間が称賛と羨望のスポットライトを浴びる。でもその足元には、嫉妬や僻みが手招きをして、隙あらばステージから引きずり降ろそうとする。
スタイリスト、上川皐月。芸能プロダクション「アップリバー」社長の上川小春、その二人の息子。つまり七光り。それが大概の人の俺への評価だった。
群がる人、それから才能がないと見切る人。それでも利用価値があると、踊らそうとする人。それから純粋に寄り添ってくれた人――色々な人がいたけど、こうも直情的な感情をぶつけられたことはなかっただけに、幼いと思ってしまう。だからなお、おぞましい。
「上川君!」
弥生先生の声が鼓膜を震わす。
気付けば、救急車で運ばれていた。朦朧とした意識のなかで、弥生先生が何度も俺の名前を呼ぶ。
一人ぼっちなのは、慣れている。でも、この時ばかりは、その声が有り難いと思う。
(雪姫に心配をかけちゃうな――本当にゴメン)
救急車のサイレンがやかましく鳴り響く。
足音が鳴る響いて、意識が朦朧とした。
場面は転換する。
「これからCTで、念のため脳の状態を確認をします」
医師と思わしき人が、弥生先生、それから爺ちゃんと婆ちゃんに向けて説明をしているのが見えた。
「ごめん、爺ちゃん、婆ちゃん……」
なんとか声を絞り出すも、複雑そうな表情を二人は浮かべる。
「阿呆。今はしっかり検査をしてもらえ」
「冬希、心配しなくていいから」
コクンと頷こうとして、激痛が走る。それを表情に出さないように苦労しながら。
「辛いでしょうけど、動かないでくださいね」
検査技師さんが声をかけてくれた。
動いたらキツいから、微動だにしようがない。寝たまま、まるで棺のなかに入るように、検査機器が動く。瞼が重い。このまま、ずっと眠ってしまったら楽だろうなって思ってしまう。
――左上腕骨近位骨折ですね。いわゆる肩の骨折です。他にも打撲痕がありますが、頭部を含めて画像検査の結果も加味しても今のところ、損傷は認められません。一番は骨折ですね。手術の対象にはならないので、入院対象ではありません。ただ、外来受診の継続が必要ですね。全治、三ヶ月ですね。はい、診断書を書きましょう……。
そんな医師の声だけが、聴覚に飛び込んでくる。目を開ける気力は、もうなかった。
雪姫になんて言おう、そう思って気付く。そうか、スマートフォンは壊れてしまったんだっけ。あれだけ派手に液晶が割れたんだ。起動すらままならないと思う。でも、と思う。一人ぼっちに慣れていると啖呵を切ったクセに、この暗闇が怖い。
――上川冬希、君が病原菌だよ。
あの言葉が、何度も何度も頭の中でリフレインする。俺がいなければ、雪姫に心配も負担をかけることもなかったんだろうか。余所者? 誰かがそう囁く。入学式当日、勇気を出して声をかけてみたら、そう言われたんだ。大國には部外者って言われんだっけ。バカじゃん、結局は父さんと母さんのネームバリューがなければ、自分のことを証明することすらできない。
『一人になんか、させないからね』
雪姫のそんな声に包まれた気がした。幻聴のような、そんな囁き。その一言が、俺の不安を瓦解させていく。痛みは残っている。でも、それもどうでも良いくらい、不安という不安が、パラパラと音をたてて、自分の闇のなかに落ちていく。
何も見えないけれど、暖かい。手探りで触れて。自分の唇が、求めていた温度を探し当てる。
「冬君?」
聞きたかった声が、耳元で囁かれて。手を伸ばせば、逆に包み込まれて。その途端に、瞼の隙間に光が差し込んで。
雪姫以外の人たちの声が、耳に飛び込んできた刹那――今までにないくらい、痛みが左肩へと走って、俺は目を覚ましたんだ。
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「え、っと? 雪姫?」
ぎゅっと、雪姫に包み込まれている。離す気は無いと言わんばかりに。記憶の断片を繋げば、弥生先生がいることは理解できる。でも雪姫や大地さん、空君、天音さん達がいるのは、なんで――。
「お姉さんは、お兄さんから連絡がなくて、飛び出して来ちゃったんですよ」
「へ?」
思わず雪姫を見る。照れくさそうに笑む雪姫を見て、呼吸が落ち着いている。まずは、そこを確認して安堵する。ココの住所をまだ教えていなかったのだ。よく、辿り着けたものだって思う。
「ルルちゃんが教えてくれたから」
雪姫が微笑んで、ルルに触れた。贅沢にも、俺と雪姫の膝をソファーよろしく、リラックスして尻尾を振っている。情報量が多くて、俺の思考がついていけない。
「……え、っと?」
「何回でも言うね。冬君のお世話をするのは、私の役目だから。他の誰にも譲るつもりはないよ」
「だ、だから雪姫、それは――」
大地さんが慌てふためくのを止めたのは、春香さんだった。クシュンと、くしゃみをこぼす。春香さんが、猫アレルギーだったことを今さらな今さらながらに思い出す。
「大地さん、ちょっと冷静に考えてみて?」
そう言った後にクチュンと、クシャミが漏れるのが締まらないけど、以下、春香さんの名誉のためクシャミは省略する。
「雪姫と、冬希君を離すのは得策じゃないと思うの。やっと呼吸が落ち着いたのに、前より悪化する可能性があるよ? それだけじゃないね。無理やり離したら、歪んじゃう。きっと今の雪姫なら、家出くらいしちゃうよ?」
「んぐ、それは……」
大地さんが、言葉を詰まらせる。空君も、コクリと頷く。
「姉ちゃんが、冬希兄ちゃんが必要としているの今さらじゃんか。俺たちが何をしてもダメだったのに、一歩を踏み出させてくれたのは、兄ちゃんだからだろ? そんなこと――」
左手で、彼の言葉を制止する。空君に認めてもらうのは本当に嬉しい。でも、今回の件は少し違うと思うんだ。
「俺はもう大丈夫だから。空君もごめん、心配をかけたね」
ペコリと頭を下げる。取り繕うように笑顔を浮かべるのは慣れている。当たり障りなく、流したら良い。雪姫の気持ちは嬉しいし、みんなが応援してくれるのも嬉しい。でも、やっぱり僕らはタダの高校生だから。超えちゃいけない一線があるから――。
「空、そこのペッドボトルを取って?」
雪姫に言われて、空君は目を丸くする。慌てて、箱買いされた経口補水液を、雪姫に向けて投げた。
「はい、冬君。水分補給しよう?」
「ちょ、雪姫? 今は、冬希君と大事な話を……いえ、なんでもありません」
雪姫に睨まれて、大地さんの声がフェードアウトしていく。俺は未開封のペッドボトルを左手で受け取って、右手で開けようとした瞬間、痛みで表情が歪んだ。
「ほら、無理でしょ?」
そう言って、ペッドボトルを奪う。雪姫は無造作に、ボトルキャップを開けて――それから、自分の口につける。
「へ?」
俺もみんなも、目を丸くして。それから呼吸が止まりそうになる。
雪姫が俺の唇を奪う。
唇を介して、水分が流れ込んできた。
「ちょ、ゆ、雪姫、な、な、な、何をやって――」
最早、大地さんが卒倒しそうな勢いだった。いや、俺も卒倒したい。両親に見守られての公開キスは辛いんですけど、雪姫さん? 俺、このまま寝込んでも良いかな?
「だから、姉ちゃんを抑圧しても何も良いことにならないんだって」
ボソリと空君が呟くのが聞こえた。
「流石に私だって、この状態の冬君に無節操なことは考えていないよ? でも、好きな人の心配をするのは、そんなに悪いことなの?」
「だ、だって、雪姫も冬希君も高校生で……」
「お父さんとお母さんだって、高校生の時にそういうことしていたんでしょう?」
「ちょ、ちょ、ちょっと、春香さん?!」
あ、春香さん。猫アレルギーでクシャミが止まらないことを言い訳に、背を向けている。でも雪姫はそんなことは関係ないと言わんばかりに、背筋をのばして大地さんを見る。
「何度でも言うよ。納得してもらうまで、何回でだって言うから。冬君を支えるのは私だから。他の誰かなんてイヤだ。誰にも譲らないから」
そう言い切る雪姫を見て、体の力がぬけるのを感じた。
意地を張ってみたり。自分で勝手に抱え込んでみたり。でも、結局は自分一人じゃ何もできなかった。でも、と思ってしまう。何もできなくて良かったんだ。正直、痛い。本当に痛い。なんでこんな目にあわなくちゃいけないんだって、どうしても思ってしまう。でもそれ以上に、これから雪姫と会えなくなってしまうのなら。その方がもっと辛い。
そう思ったら、熱い感情が零れ落ちて、止めることができなかった。それでも、俺は頭を下げる。
「ふ、冬希君?」
「……俺、雪姫と出会えて、本当に幸せで。こんな自分が幸せを望んで良いのかなって思うけれど。本当に嬉しくて。でも、今は痛くて。目を閉じたら怖くて。だから、高校生として自重しますから、もう少しだけ、雪姫と一緒にいさせてください。絶対に、雪姫を傷つけるようなことはしませんから――」
もう何を言っているのか、自分でも分からない。感情がグチャグチャに撹拌されている気がする。雪姫に抱きしめられて。その感情の跡を拭われながら。情けないって思う。弱いって思う。大地さんも呆れていると思うけど、それでも、オトナの表情で、飲み込むにはあまりにも痛すぎた。
「バカだな、君は」
くしゃっと、俺の髪を撫でたのは大地さんだった。
「子どもが我慢なんかするなよ」
さらにくしゃくしゃっと、大地さんは髪を撫でる。
「うちの娘はちょっと面倒くさいと思うんだ。多分、冬希君じゃないとダメだから。雪姫には冬希君が必要なんだ。親から見て、絶対にそうだから。でも、雪姫だけじゃないから。俺にも頼って。少なくとも俺たちは、君を追い込んだヤツを絶対に許さない」
「……へ?」
俺は滲んだ視界の先に、大地さんを見る。雪姫がぎゅっとその手を握ってくれているのを感じた。絶対に離れない、離さない、一人になんかさせないからね。――そう耳元で囁く。
思考が追いつかない。必死に考えを巡らせていると、もう一度、大地さんが俺の頭を撫でた。
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「だから、両家で腹を割って話そうって思うんだ。今頃はオンラインを活用したら、県外も国外も関係ないかからね。ただ、一つだけ言わせて」
大地さんは、微笑む。
「俺たちは君を一人になんか絶対にさせないからね」




