94 イヤだよ。冬君を支えるのは、私だもん。
ルルちゃんの選んだルートは複雑だった。多分、私の体調を気にして、最短のルートを選んでくれたんだと思う。公園の破れたフェンスを抜けて、河川に沿って。わずか10分たらずの冒険だったけど、思わずドキドキしてしまう。
この冒険の先にきっと冬君が待っている。そう思うだけで、呼吸が落ち着くんだから、私はなんて現金なんだろう――本当に単純だ。
気付けば、ルルちゃんがその歩みを止めた。その視線の先は田島荘という、築40年は経過しているだろう、年季の入ったアパートだった。
見覚えのある景色。きっと、うちからそんなに遠くない。
「ココなの?」
「おあー」
ルルちゃんは、尻尾を振りながら階段を駆けていく。慌てて、私もルルちゃんの後を追いかけた。別にどんな場所に住んでいても問題ないと思う。でも高校生が一人暮らしをするアパートとしては、あまりに心許ない気がした。COLORSの真冬という予備知識があるからこそ、なおさら違和感だった。
そんなことを思案していると、ルルちゃんがドアノブを飛び掛かる勢いで、ぶら下がる。その反動でドアが外側に開いた。その隙間をかいくぐって、ルルちゃんは入って行こうとする。ちょんちょんと揺れる尻尾が「早くおいで」と催促するかのようだった。
あまりに慣れた、そして鮮やかな体捌きに、私は目を丸くするしかない。
私の目の前で、ドアがゆっくりと閉まってしまう。カチャンと響く金属音が、妙に残響する。
【202 上川】
そう表札に書かれていた。手書きの字は、冬君で間違いない。軽く、3回ノックをする。でも反応はない。私は意を決して、深呼吸をする。それからゆっくりとドアノブに手をかけたんだ。
■■■
私は目を疑った。単身世帯が居住するワンルームアパートだ。築40年となれば畳部屋で昭和を彷彿させるデザインは安易に予想できる。そして男の子の一人暮らし那。雑然と洗濯物やら雑誌が散乱している――でも、そんな先入観はあっさりと覆されてしまった。
板がジョイントされ、フローリングのようになっていた。いわゆるフローリングタイルだった。所々、接続部分が見えるが、まるで違和感がない。
ベッド奥をダークブラウン、サイドをホワイトベージュのツートーンの壁紙が囲む。さすがに天井までは加工ができなかったみたいだけど、その代わり洋風イメージしたシーリングライトが部屋を仄かに照らしていた。
と、ルルちゃんが、ベッドで欠伸をした。
――こっち、だよ。
尻尾でパタンパタンと手招きしているようだった。と、ベッドの上で寝入っていた冬君が視界に飛び込んでくる。
(冬君!)
気持ちを抑えることができず、駆け寄って――息を飲む。右肘から肩にかけてギブスで固定されていたのだ。眠っているその表情は、苦痛を滲ませていた。でも、その唇から漏れる呼吸を感じて、思わず私は、安堵の吐息を漏らしてしまった。
と、テーブルにの上にはひび割れた冬君のスマートフォンが置かれていた。連絡できなかった理由を知り、腑に落ちる。でも良かったなんてとても思えない。
あんな夢を見たせいだって思う。今でも瞼の裏側に、冬君を突き飛ばした誰かの掌が焼きつく。正夢だったんだろうか。思わず唇を噛み締める。私に向けられた悪意なら、いくらでも我慢できた。でも、冬君に悪意を向けることは許せない。その頬に触れる。ガーゼ保護されたその下に擦過傷があることは、容易に想像することができた。誰がこんなことを――そう思った刹那だった。
「……雪姫」
左手がのびる。
「う、うん。冬君、私はココにいるよ」
その手にのばす。自然と指と指が絡む。こんな時だというのに。良かったと思ってしまう、自分の感情が浅ましい。身勝手だって思う。でも、やっぱり安堵してしまうのだ。冬君の心のなかに、私はちゃんといるんだって。そう思えば、ますます愛しさが込みあげてくる。
「ゆき……」
「冬君――?」
左手だけで引き寄せられる。私は思わずバランスを崩した。冬君の患側を圧迫しないように意識しながら、でも私は抵抗しない。むしろ飛び込むような感覚で、冬君の胸に顔を埋める。
心臓の鼓動。呼吸。脈打つ証。その全部、ぜんぶを私は抱きしめたいと思う。
「雪姫、雪姫」
「もぅ、冬君って甘えっ子さんになる時があるよね」
思わず笑みが溢れてしまう。普段、我慢をして感情を飲み込んでいることを私は知っている。寂しがり屋で、一人でずっと頑張ってきたことも。だから、少なくとも私は――。
(一人になんかさせないからね)
知らないことだらけだ。冬君のこと分からないことだらけで。だから思う。もう気持ちを飲み込んだままにさせてあげない。冬君のこと全部、知りたいから。それに――って思う。冬君を傷つけた人を私は絶対に許さない。
(……許せるワケないよ)
それが大國君なのか、誰なのか。今の私には知る由もない。でも絶対に許さな――。
「ちょ、ちょっと、冬君?」
すり寄るように、唇が首筋を這う。まるで電流が走るような、今まで感じたことがない感覚が私のなかを駆け巡る。
「や、冬君、んっ、だめ――」
抵抗できない。このまま、冬君の温度に全部、呑まれてしまいたい。そう思った瞬間だった。ガチャッと玄関のドアが開く音。パタッパタと靴を脱ぐ音が響く。
「上川君、どう? 今からお粥を作るけど、無理に起きなくても良いからね――って、え?」
「え?」
突然、飛び込んできた声に私は固まる。
台所に、エプロンをした女性が――弥生先生だった。小学生と思わしき、女の子も同じようにエプロンをつけて、唖然として私達を見ている。
「や、弥生先生……?」
「下河さ、ん?」
「先生は……冬君と同棲をしていたんですか?」
「へ? い、いや、違うから! 下河さん、誤解だからね?!」
私の頭が真っ白になる。
考えたくない想像が頭のなかを過っていく。何度も、何度だって嫉妬した。だって私は学校には行けない。でも他のみんなは、学校で当たり前のように、冬君とコミュニケーションを交わせる。私が見ていない笑顔を、みんなは見ている。それがズルいってどうしても思ってしまう。
(冬君を独り占めになんか、できない。そんなこと、分かっているけれど)
分かってる。分かってる。わかっている。分かっているつもりだけど。分かっているけど。分からない。冬君のこと、分からないことだらけで。私だけが知らなかった。でも、もうそんなのイヤだ。感情を撹拌させた私は無意識に、冬君の腕をつかんでいた。
「……いっ、痛い、痛い、痛い、痛い、痛っ!」
跳ね起きるように、冬君が目を覚まして、私は慌ててその手を離した。何をやっているの、私――。
「ご、ごめんなさい、冬君……」
「……ゆ、雪姫?」
目をパチクリさせて、私を見る。その目が、私だけしか見ていないのが、分かった。弥生先生でもなく、そこにいる女の子でもなく、ただ私を見て――躊躇なく、私を抱きしめる。
まるで時間が止まったかのようで。
でも、その温もりに包み込まれた途端。凍りついた感情がや妬み、その全部が溶けて剥がれ落ちていくのを感じた。
かちゃん、かちゃん。錆びついた鉄屑が落ちていく、そんなイメージが私の中で充溢していく。
浅ましくて欲深い私を、冬君はいつも全肯定してくれる。
「ふ、冬君?」
「ごめん。しばらく、このままでいさせて」
とくん、とくん、心臓が打つ音が聞こえる。
弥生先生と、女の子が微笑ましそうに、私達を見ている。でも、そんなことはどうでも良いくらい、私も冬君のことしか見えていない。線なんか引かせない。一人ぼっちになんか絶対させない。冬君が辛い時、傍で支えるのは私だ。私が良い。他の誰かなんて、絶対にイヤだ。そんなことを思う私は、やっぱり本当に強欲だった。
「弥生ー? 箱買いした経口補水液、ドコに置いたらいいかな?」
玄関の向こう側から響く穏やかな声。でも、私の意識は全部、冬君の温もりに包み込まれてしまっていたんだ。
■■■
「ふふっ、そうかそうか。上川君と弥生は同棲していたのか。夫として、それはちょっと困るかな?」
「ちょっと、大君。だから、それは下河さんが誤解をしただけだから!」
「でも、お母さん。上川さんとLINKのIDを交換して、楽しそうに通話した時あったよね?」
「あー! 葉月、あれは下河さんのことで上川君にお願いをしただけだから! 本当に止めて! 下河さん、ヤキモチ妬きなんだからね。私、生徒に憎まれたくない!」
そんな弥生先生一家の会話を、私も冬君も目を点にして眺めていた。ただ、こうしながらも、二人でベッドに腰をかけながら、距離はゼロで。冬君は怪我をしていない左腕で、私の手を握ってくれている。ヤキモチを妬く余裕なんかゼロだった。
「改めて、自己紹介させてもらおうかな?」
クスクス、弥生先生の旦那さんが微笑む。
「夏目陽大です。一応、こんなんでも【夏目コンピューター】のCEOなんかやってます。よろしくね?」
私は目を丸くした。夏目コンピューターと言えば、私のお父さんとお母さんが務めている会社だったからだ。
「夏目葉月、小学校5年生です。冬希お兄さん、雪姫お姉さん、はじめまして。よろしくお願いします」
ペコリと女の子――葉月ちゃんが丁寧に頭を下げる。私も冬君も、合わせるようにお辞儀をした。弥生先生が既婚者ということは知っていたけれど、こんな大きいお子さんがいると思わなかっただけに、戸惑ってしまう。この子まで冬君のことを心配してくれていたんだ。でも何より――。
「姉ちゃんが、兄ちゃんの所にたどり着けてよかったよ。散々、探したんだからな?」
「本当ですよ。みんな心配していたんですからね」
「だから雪姫に内緒にしておくのはダメって言ったでしょ、大地さん?」
「いや、だって。混乱すると思ったし。予想通り、パニックになったワケで。でも、とりあえずは良かったと言うべきかな―― 社長、連絡ありがとうございました」
空に、翼ちゃん。お母さんにお父さんが矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。8畳のワンルームもこれだけ人数が押しかけたら、人口密度は飽和状態。窮屈感いっぱいだった。
「本当は先輩達も来たがっていたんだけどね」
と空は苦笑を浮かべつつ言う。きっと海崎君や、彩ちゃん、瑛真ちゃん達もずっと心配してくれていたんだと思う。それこそ、私よりも先に冬君の状態を知っていた可能性がある。そう思うと――やっぱり悔しい。
拳を握りしめる。
肝心な時に、私は何もできなかった。
冬君が辛い時に、支えてあげることができなかった。
と、冬君が私の額にコツンと、頭を寄せた。
「冬君?」
「右手が使えないって不便だね」
ニッコリ笑ってみせる。大丈夫だからね、その目がそう伝えてくる。でも無理に強がっているのがどうしても分かってしまう。私を心配させないように、気丈に微笑んでくれているのが――。
「さぁ、もういいかな?」
そう言ったのは、お父さんだった。
「夜には、師走さんと霜月さんが来る。これからのことは、ご家族に託して、俺たちはいったん帰ろうか? 空達も学校サボって来てくれたけど、本来はNGだからな」
「それ、仕事を休んだ父ちゃんに言われたくないから」
まったく悪びれた素振りなく、空が笑む。空ってこういう子だ。いざという時には、ルールよりも大切な人を最優先する。でも翼ちゃんも、全く同じ気質だと知り、そんな二人を見てつい唇が綻ぶ。
「生徒の一大事と思って、今日は有給休暇を取ったから、この後のことは任せてね」
弥生先生が、そう力こぶを作って見せる。葉月ちゃんも同様のポージングをするのが微笑ましい。でも、と思ってしまう。私の本音は。でも、それを言ったら迷惑になってしまうかもしれない。でも、でも――。
「心配かもしれないけれど、今は冬希君を休ませてあげよう?」
お父さんは、そう言って立ち上がる。
「さ、雪姫? 帰るよ?」
そう言って、お父さんは手を伸ばす。
とくん、とくん。
私の心音が、打ちつける。私の本音を揺さぶる。
――おぁー。
ルルちゃんが鳴く。君がそう決めたのなら、そうしたら良いよ。そう言われた気がした。
深く深呼吸をする。
あれほど悶えた、過呼吸も目眩も今はウソのように消えている。
冬君がいてくれたら、私は呼吸ができる。だったら、弱気になる必要なんかない。自分の気持ちをただ、伝えたら良い。
だから、迷わない。
考えるまでもなかった。私の答えは、もう決まっていたから。
■■■
「イヤだよ」
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「へ?」
お父さんが目を丸くした。この場にいた、誰もが同じ反応だったように思う。でも、私は迷わない。他の人の反応なんか、どうでも良い。だって冬君の一番は私が良い。一番、辛い時に傍で支えるのは、私じゃなきゃイヤだ。それは私の役目だから。
みんなを心配させまいと、冬君が無理して笑っているのが痛いほど分かるから。だから、なおさらそう思う。
――そんな冬君を放っておいて、帰られるワケがないよ。
たかだか高校生が、未成年のクセに何を言っているんだって自分でも思う。
でも、この選択を覆すつもりはない。
良い子のお姉ちゃんは、もうココにはいない。かつての雪ん子だったら、その時々の気持ちを取り繕って、建前の中に隠してしまっていたと思う。
――さすが、お姉ちゃんだね。
――雪ん子ちゃんは、本当に良い子だよ。
――雪姫ちゃんに任せたら、安心からね。
――雪姫、いつも手伝ってくれてありがとうね。
でも、今の私は全く隠すつもりはないから。だって建前で固めた雪玉なら、もう冬君が溶かしちゃったから。
と、すっと冬君の指が私の手から離れようとする。私は、その指を絡めとる。離さない。離してあげない。そんな今にも壊れそうな笑顔を浮かべておいて、一人にさせてあげるワケがなかった。
私は、だから大きく息を吸い込む。明確な意志を伝えるために。
「イヤだよ。冬君を支えるのは、私だもん。誰にも譲るつもりはないからね。冬君を支えるのも、お世話をするのも、全部私の役目だから」




