92 君に心配をかけたくない。ただ、それだけを思って俺の意識は――。
――冬は、姿勢が綺麗だよな。軸がしっかりしているんだよね。
そう言ったのは、スタントアクションのインストラクター。俺のお師匠さんだった。熊さんの空手道場、師範・熊野熊伍郎とはまるで正反対。175㎝の長身。ショートカットの髪型、ひきしまった四肢。その容姿は無駄がないが、愛嬌もない。美しさを兼ね備えつつも、淡白なのだ。
母、上川小春の親友でもあり、父、上川皐月の大事なクライアントでもあった。お師匠さんは、作られた女らしさに無頓着なので、父さんが頭を悩ませながらコーディネイトしていたのを、よく憶えている。
「軸ですか?」
「君の美徳だと思うよ。腐らず全力で、向き合う。どう見られているのか、意識して立ち回っている。君と共演する子は、さぞやり易いと思うけどね」
「そうなんですよね。冬と一緒に同じ仕事をしていると、メチャクチャやりやすくて。いつも冬が助けてくれているって実感しています」
邪気を一欠片も見せず、一緒に稽古をしていた蒼司は言う。映画やドラマの仕事もないのに、一緒に付き合おうとする感覚が分からない。
「蒼司は自立すべきだね。今いる立ち位置が、誰かに支えてもらっていると自覚すべきだ。それに冬が傍にいない状況になったら、君らやっていけるの?」
「うへぇ、想像するだけでムリ」
みんななら、COLORSに俺がいなくてもやっていけるよ。心中の呟きは、今も変わらずそう思う。
「冬はね、もっと欲を持つべきだね」
「へ?」
お師匠さんの言葉に目を丸くした。
「誰かを支えるのも良いけど、率直な感情は見るものを惹きつけるからね。冬は気持ちを飲み込まずに、素直な感情をぶつけてみるべきだと思うな」
「ぶつけ……る?」
「誰かを支えようとか、応えようって気持ちも大事。でも何より自分の気持ちを自覚できたら、なお良いよね」
お師匠さんはそう言いながら、稽古の手は緩めず、足技の応酬を現在進行形で続ていく。蒼司と二人がかりで立ち向かっても、あっさりといなされてしまう。それでいて、立ち振る舞いが本当に美しい。
スタントアクションのトレーナー。そして特撮のスーツアクターの顔ももつ櫻郷思紹さん。通称、お師匠さんには、教えてもらうことが多かった。COLORSを何とかこなせたのも、お師匠さんの存在が大きかった。
「小春は鈍チンだからね、感情を剥き出した方が良いと思うんだけど、冬は良い子だからね」
そんなお師匠さんの声を、聞こえない振りに徹した。忙しい母さんに、そんなワガママ、言えるはずがなかった。
■■■
今さらなんで、こんなことを思い出したのか。汗がじんわり滲む。大國は、ずっと空手をやってきたんだろう。苦悶の表情を浮かべながらも、すぐに体勢を整え始めた。月明かりと公園の街灯、それからお互いの呼吸を頼りに、俺たちは相手の出方を伺っていた。
”欲”なんか、まるでなかった。
COLORSに所属をしたのも、母さんに背中を押されたから。一緒にやりたいと、幼馴染達が言ったから。俺は父さんのようになりたい――その感情なら呑み込んでしまった。結果、COLORSを脱退して、それでも何も変わり映えしなくて。COLORSを失って、自分一人の力じゃコミュニティーにも入り込むことができない。そんな上川冬希を全肯定してくれたのが、下河雪姫という女の子だった。
――だって、冬君は冬君だから。
その言葉に、どれだけ救われたのか分からない。俺が雪姫に手を差し伸べることができたのかと聞かれたら、はなはだ疑問だ。俺は弥生先生のお膳立てで、プリントを届けてあげただけ――今でもそう思ってる。
でも、”欲”が生まれたんだ。
とくん、とくん、と心臓がリズムを打つ。あのコと出会って。友達だとお互い、自分の気持ちに蓋をして。雪姫と言葉を重ねれば重ねるほど。時間を過ごせば過ごすほど、彼女のことを「好き」という気持ちは覆い隠すことができなかったけれど。
譲れないって思ってしまう。雪姫の隣を誰にも譲りたくない。今までなら、簡単に諦めていたと思う。でも、雪姫の隣は絶対に譲らない。そんな”欲”が生まれてしまったんだ。
「ゆーちゃんに馴れ馴れしく、近付くな!」
「なんで、大國にそんなことを言われなくちゃいけないのさ?」
「あ?! 部外者は――」
「どっちが?」
「は?」
「どっちが部外者かって、聞いたんだよ。大國は、今の今まで、雪姫に何か手を差し伸べたの? 雪姫を支えようと努力をしたの?」
「な、何を言って。ゆーちゃんは、そんなことが言える状況じゃ……」
「だから諦めるの? 雪姫が全部、シャットアウトをしたから? それって雪姫が全部、悪いの?」
「し、仕方ないだろ! これ以上、ゆーちゃんを追いつめるわけにはいかないし。話しかけても過呼吸に――」
とまで言って、大國がポカンと俺を見る。
「上川と一緒の時、過呼吸に……なっていなかった?」
多分、大國は今までの記憶を辿っている。これまでにずっと感じていた視線。焦げ付いた感情を、ずっと大國は俺に向けてきた。唖然とする彼を見ながらも、緊張は緩めない。
彼は彼で、雪姫のことを大切に思っていた。でも、それはそれだって思う。俺自身が譲る気、ないから。目を閉じれば、自然と雪姫の笑顔が浮かんでしまう。
――冬君、美樹さんとパンケーキ作ったよ! 食べてみて!
――口移しはなしだからね。
――えー? 瑛真ちゃん、超能力者? なんで考えていること分かったの?
――雪姫、『えー』じゃないからね!
――じゃ、あ~ん。
――お客さんの前でするなぁ!
――美味しい? 今度、冬君に作るからね。
――雪ん子ちゃん、商品開発の意味が……。
――美樹さん、そこは片目つぶらないと。雪姫ちゃんの最優先事項は、いつも上川君ですからね。
――音無ちゃん、そんなに早く白旗をあげちゃダメだから。
――瑛真ちゃん、これはこれで目の保養ですから。尊いってこういうことを言うと思うの。あ、瑛真ちゃんも尊いっていつも思っていますからね。
――全然、嬉しくない!
そんな喧騒、笑いが今も俺を包み込んでくれる。だから、大國にも今の雪姫をしっかり見て欲しいと思う。でも絶対に譲らない。この”欲”だけは絶対に隠せない。
「認めねぇ、認めるかよ!」
「今の雪姫をまず見ろよ。少なくとも、雪姫に邪魔と言われない限り、俺が遠慮する理由がないから! 何もしていないくせに、勝手に雪姫を悲劇のヒロインにするな! あの子が一番頑張っているの、そこをまず見てよ!」
お互いの拳が交錯するその刹那だった。
■■■
「病原菌」
そう、大國とは違う声が、俺に向けて断言する。
「上川冬希。君が病原菌だよ」
とん。
軽い音がして。
俺の背中が押され、公園――野球場につながる階段から、俺の体が転げ落ちた。
■■■
「上川っ!」
大國が手を伸ばす。その動きがスローモーションに見えた。
(バカ!)
声にしようとしても、声帯を震わす余裕もなかった。行動に辻褄があってないじゃないか。なんで、助けようとするんだ。大國、君はバカなの?
振り払おうとするが、大國の握力のほうが強かった。引き寄せようとするが、それで失ったバランスは取り戻せない。
視界がぐるぐる回って。
今までに感じたことがない痛みが体中を駆け巡る。
跳ねた。
そして、割れる音がする。
スマートフォンだ。一瞬、待ち受けにしていた雪姫の笑顔が明滅して。
そして、ブラックアウトした。
視界がちらつく。
雨。そんな気候じゃない。砂嵐。風なんか吹いてない。あぁ、そうか。スマートフォンの液晶が割れたのか。
月明かりと街灯に照らされて、キラキラ煌めく。
(どうしよう……雪姫に今晩、連絡できないかも)
落下が止まる。
ぴくん。指を動かしてみようと試みるが、言いようのない激痛が体中を駆け巡る。口の中が血の味だけじゃなくて、砂の味がした。
「……君がいるせいで。君がいるから、下河さんは……」
搾り出すような声。
大國とは違う声。
その声は、心の底から俺に呪詛をこめている気がした。。
そういえば、大國は? そう思考を巡らした瞬間だった。息が止まりそうなくらい、痛みが体中を駆け巡る。
「君がいるから! 君のせいで!」
右腕を踏まれる。
その度に、痛みが走る。神経がまるで剥き出しになったようで。
「君がいなければ!」
何度も何度も腕を踏まれる。あまりの痛みに思考がブラックアウトする寸前で――。
猫の鳴き声がした。
可愛らしい鳴き声なんかじゃなかった。
まるで、威嚇するかのように。
テリトリーを荒らした敵にむけて一切容赦しない、宣誓布告のようなそんな声音で、全身の毛を逆立てるように、腹の底から唸っていた。
「おあー!」
一際、高い鳴き声。まるで相棒の鳴き声に聞こえたのは、気のせいか?
「や、やめろ、や、や、め、やめて――」
その声が猫の鳴き声にかき消されてしまう。まるで肉を裂くような音がした。朦朧とした意識の中、何かが近くで飛んでいる音までする
(……プロペラ?)
でも、考えれば考えるほど痛くて、思考がまとまらない。
「――上川君っ!」
なぜか、弥生先生の声までした。でも、それでも思うのは、やっぱり雪姫のことで。連絡をいれなくちゃ。大丈夫だよって。あの子に心配をかけたくないから。折角、雪姫が前向きになったのに。外に踏み出してくれたのに。こんなことで邪魔なんかしたくない。そういえば、大國は大丈夫だったんだろうか? もっとやり方はあったはずなんだ。それなのに、考えなしの行動で、雪姫の幼馴染を傷つけた。部外者、その言葉がしっくりくる。俺はやっぱり余所者、異分子で。自分がいなければ……何回、何度そう思ったんだろう。COLORSの時も。いつだってそうだ。母さんの期待に応えられなくて。ぐるぐる、グルグルと思考が回る。いなくなれば良いのに。本当にそう思う。だから、いなくなったのに、結局はこんな形になってしまう。
(……何が悪かったんだろう?)
考えれば、考えるほどに痛い。痛くて、痛くて思考がまとまらない。やっぱり”欲”なんか出しちゃいけなかったんだろうか?
――残念だ。本当に君には、何もない。
柊さんの言葉が脳裏にいつまでもいつまでも響いて。月明かりすら、網膜を刺激しない。ただただ痛みに、呑まれながら、雪姫を心配をさせたくない。それだけを最後に思って、俺の意識はブラックアウトした。
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「冬希! 冬希! 冬希!」
「親分、落ち着いて! ちゃんと息をしている!」
「お兄ちゃん、人間が救急車を呼んだよ! きっと大丈夫だから!」
「クロ、この匂い絶対に忘れないで!」
「ティアのお嬢! もうやってやす! 尾行もつけやした! 人間どもの”どろーん”も一緒です! 絶対に証拠は全て回収させます!」
「ティア、モモ、クロ……」
「……」
「匂いも大事だが、傷もだ。俺が爪痕をつけた瞬間を、ドローンは撮影していたか?」
「へい、そう思います。だから弥生先生が駆けつけたんでしょうから。ただ、こっちは油断していやした。親分、本当に申し訳ねぇ」
「……油断していたのは俺もだ。単細胞の大國坊を煽っていたのを知っていたのにな。恐怖心を植え付けて、雪姫嬢に関わらせないようにするつもりか。これは今後も、あの手この手で、揺さぶるつもりだな」
「親分……」
「全家族に告ぐ。この落とし前をつけてやろうじゃないか。姑息な蛆虫の挙動が見えたら、その時点で潰せ。情報共有は継続。権限を俺の他にもクロ、ティア、モモに集約。即時判断、実行しろ。目印をつけたターゲットは、徹底的に行動をチェック。必要と判断したら、容赦をするな!」
「「「「「「「「いえっさー!!!!!!!」」」」」」」」
猫の鳴き声が、この町に谺するのと、時同じくして。救急車のサイレン音がようやく鳴り響いたのだった――。




