91 君と見上げた待宵の夜に
「本当に幸せそうな顔しちゃってさ」
「……し、下河さん?」
前者は黄島さん。後者は青柳君。いつもの面々もさることながら、ピークが過ぎたCafe Hasegawaそれぞれの座席から温かい眼差しが送られてくることを感じる。雪姫が俺の肩に頭を乗せて、甘えるように擦り寄ってくる。雪姫の髪が甘い匂いを淡く漂わせているのを感じる。
「ゆ、雪姫? あの、みんなに配膳ができないから!」
「だって、冬君。15時までは時間があるって言ったもん。それなのに、その前にいなくなったのは冬君だから」
ぷくーと擬音で表現できるくらい、雪姫が頬を膨らます。
「でも、仕事が入ったから、仕方ないというか。それに、今は仕事中になるわけで――」
「上川君、今はちょっと落ち着いてきたから。ちょっと休憩していて良いからね」
絶妙のタイミングで、マスターが通り過ぎていった。言い訳なんて何一つ通用しない、そんな言葉を放り投げて。そして、図ったかのように光と空君が、カフェオレをそれぞれに並べていくから、恐れ入る。
「芯太は何か頼む?」
と光が聞く。青柳君は思考がついていかないのか、目を白黒させながら雪姫と、そして周囲を見回していた。
「もしよければだけど、青柳君。カフェオレ飲まない?」
「へ……?」
青柳君は目をパチクリさせた。だいたい、光の魂胆はわかっていた。いや、気を遣わせたというべきか。空君と天音さんは計算外だったが、明らかに雪姫との時間を作ろうとしてくれていたのが分かる。
俺の分まで含めてカフェオレを注文してくれたのだ。
(有難いよね、本当に)
思わずクスッと笑みが零れてしまう。でも、と思う。ココで青柳君だけが、除け者のような感じになるのも、ちょっと違うと思うのだ。
横目で、雪姫のことを見る。目と目があって、ふんわりと笑みが重なる。あの日――髪を切る前に、聞いた雪姫の過去なら、今でも鼓膜の奥底で残響する。瞼を閉じれば、すぐにでもあの日の雪姫の表情を思い出してしまう。
青柳君が何をしたのか。
雪姫の視点でしか、俺は知らないけれど。
本当なら、同じ場所で同じ空気を吸って一緒に笑い合えるほど、許容なんかできない。
でも、と思ってしまう。
雪姫の笑顔を見たら。どことなく緊張が隠し切れないけれど。それでも、背筋をのばして青柳君と向き合う彼女を見てしまったら。俺が「彼のことを許せない」そう拒絶するのは違う気がするのだ。
「ま、良ければだけどね。俺が奢るから」
「え……。でも、それは、いや……」
「いいなぁ。冬希兄ちゃん、俺も奢ってほしい!」
「空君、一人暮らしのお兄さんにたかるのはどうか、と……」
「いや、そうは言うけど。やっぱり、Cafe Haasegawaのメニューはお高いからさ」
「でもそれは費用対効果、付加価値だよ? 私は空君とこういうムードで一緒に過ごせるの、本当に嬉しいけどね」
「あ、いや……。そりゃ、言い出しっぺは俺だし……」
そう空君と天音さんの賑やかな会話に耳を傾けている刹那だった。
「じゃぁ、冬君は私と一緒に飲もう?」
ニッコリ雪姫がそう微笑む。
「へ?」
暖かい感触が唇から――。そして甘く。そして自分の思い描く珈琲の香り、その味が口腔内に優しく広がっていく。
「ちょ、ちょっと、ゆ、雪姫?」
「下河さん、これは少し大胆過ぎですよ?」
瑛真先輩さんに次いで、音無先輩まで顔を真っ赤にさせている。でもしっかり俺達を見るんだから、タチが悪い。珈琲が雪姫の唇から、俺に唇へと今も伝わって。慌てて離れようとしても、雪姫がぎゅっと俺の髪に触れて。ただそれだけなのに、微動だにできない。
ようやく唇が離れて、雪姫の吐息が漏れる。クスクス、黄島さんが微笑んでいるのが見えた。
「本当にウチの幼馴染さんは、どうしてこうも甘えっ子になっちゃったんだろうね。上にゃん、しっかり充電させてあげてね。目は誰かさんをずっと追いかけて、私達が何を言っても上の空だったんだからね。あからさまに寂しそうだったからね」
「そ、そんなことないもんっ」
「いや姉ちゃん、全く説得力ないからね」
弟君の援護は望めず、雪姫がぶすっと頬を膨らます。
「冬希、下河のメモ太を覗いてみなよ?」
ニッと光が笑む。雪姫が、慌てて画面をたたもうとしたが、ちょっと遅い。俺がプレゼントしたポケットノートライター【メモ太】は、電子ペーパーディスプレイを採用している。電源が入っていなくても、書いていた文字が、更新しないと、うっすら見える仕組みになっている。
待ってくれている間、小説を書いていたのかと思っていたんだけれど――。
「67?」
数字がただ無造作に入力されていた。思わず、首を傾げてしまう。雪姫は隠すようにポメ太を抱きしめる。でも、その顔は真っ赤だった。そんな様子を見て、光と黄島さんの幼馴染コンビは”ニシシ”と笑みを浮かべているから、ますますワケが分からない。
「この数字はね、上にゃん。君が女性客に優しく微笑んだ数だよ」
「あ、彩ちゃん、ひどい! ナイショって言ったのに!」
「ね、冬希? 下河がどれだけ君のことを好きかなんて。本当にいまさらでしょ?」
「普通は引くかもしれないけどね。でも上にゃんは、むしろ嬉しいんでしょ?」
黄島さんにそう言われて気付く。自然と俺の唇が綻んでろんいるのが、自分でも分かった。
「冬君……?」
心配そうに俺を見る。未だに残る口の中の珈琲の味が、やけに甘く感じる。俺は自然と雪姫の髪に触れていた。
「嬉しいしかないよ。こんなに想ってもらってるんだって感じるから。でも、お客さんに向けているのは、あくまで営業スマイルだからね?」
「だって……。冬君、全然私のことを見てくれないし。笑っている顔も少なかったし。私には見せてくれないのに、他の人には笑顔向けるし――」
「変な心配をかけたよね。ごめん」
「だ、大丈夫。今は……冬君を近くに感じるから」
俺の肩にもう一度、顔を寄せて。ようやく雪姫が安心したと言わんばかりに息を吐く。指先と指先が絡んで、これでもかってくらいに雪姫との距離が近い。
「だから、お店のなかでイチャつくなと――」
「瑛真ちゃん、適度なガス抜きは必要ですからね。これぐらいは大目に見てあげましょう? 流石にお仕事中のチュッチュッはダメですけど、今はプライベートな時間ですからね」
「いや、私達とのプライベートな時間なんだから、ちょっとは遠慮して?!」
と瑛真先輩は俺に少しだけ厳しい視線を向けながらも、苦笑混じり。やっぱり見守ってもらっていることを実感する。
「ゴールデンウィークだから、人も多いかなぁと思って雪姫ちゃんのシフト入れるの遠慮したんだけど、これは考え直さないといけないかもね」
美樹さんがカフェラテに口をつけた後、そんな言葉を漏らす。
「だってね。やっぱり雪姫ちゃんの精神安定剤は上川君なんだねって思ったら、二人が離れるのはやっぱり違うと思うし」
「安定剤と言うより、姉ちゃんにとっての冬希兄ちゃんは半身だからね」
「空君、その言い方は的確かも。お兄さんとお姉さんって、確かにそんな感じがする! やっぱり、良いなぁ……」
そう天音さんに羨望の眼差しを向けられると、なんだか照れ臭い。
「だから雪ん子ちゃん。この後、店員として頑張ってみる?」
美樹さんはニコニコしてそんなんことを言う。雪姫は、目を丸くする。
「待ってるだけなんてイヤなんでしょ? 雪ん子ちゃんが、上川君の隣で、当たり前に過ごしたいって思っているの感じるから。そのために頑張っているのも分かるしね。ちょうど、新作スイーツに取り掛かろうと思っていたの。オーソドックスで、でもお店の売りになるようなパンケーキを作りたいって思っていたんだけど……雪ん子ちゃん、ちょっと手伝ってくれない?」
「私が、ですか?」
「雪ん子ちゃんにお願いしたいの。上川君を虜にしたパティシエさんに、ね」
「……は、はいっ!」
雪姫は大きく頷く。本当に嬉しそうに笑顔を零して。ようやく気付くのは、俺はやっぱり雪姫のことが何も分かっていなかったんだ、ってことで。
雪姫は歩みだしている。頑張っている。そう思っていた。このゴールデンウィークで、雪姫のたくさんの表情を見ることができた。そう思う。
でも、俺が思う以上に――雪姫はもっと、踏み込んで。翔けるように。跳ねるように。大きな前進を望んでいたんだ。
雪姫と俺の視線が交わる。雪姫の笑顔に目を奪われそうになる。
(冬君のせいだよ? 私が色々欲張りになっていくのは)
カフェオレを淹れる前、雪姫はそう言ったんだ。
(……一緒に実現したいって思ってくれるの?)
そんなの当たり前だ。だって、俺が雪姫と実現したかったんだから。
ぐっ。
雪姫が小さく拳を握りしめてガッツポーズするのが見えた。
また、俺と視線が交わって。ふにゃりと笑みが溢れる。
「お店の中でのイチャイチャは禁止だからね」
瑛真先輩がジトリと睨んで、釘を刺す――と同時に、みんなが破顔して笑いの渦に包まれた。俺は目をパチクリさせる。え? イチャイチャ? 俺たち、適度な距離感は保っているつもりなんだけど? え?
「冬希兄ちゃんは、姉ちゃんにダダ甘なのを自覚しようね」
「でも、そうじゃないと、お姉さんが拗ねちゃうから。そこは仕方ないと思うよ、空君」
クスクス天音さんが笑う。
「ま、上にゃんとゆっきは、周囲が釘をさすぐらいが丁度良いのかもね。我慢しすぎると暴走するし」
「ぼ、暴走なんかしないもんっ!」
「雪姫、まったく説得力がないからね」
「瑛真ちゃん、でも仕方ないですよ。あんな包容力ある殿方がいたら、そうなっちゃいますって。私達もそんな殿方を全力で探しましょうね!」
「音無ちゃん、私まで巻き込むなし!」
そんなコントみたいなやり取りをしている間に、さり気なく目の前にコーヒーカップが置かれていたことに気付く。
「上川君、飲み物なかったでしょ? いつものアメリカンを勝手に淹れたんだけど、良かったらどうぞ」
マスターが柔和に微笑んで、そして踵を返す。もう少し早くいただきたかった――なんて思うのは贅沢か。
コーヒーカップに口をつけて。
雪姫も同じように、カフェオレに口をつけて。
やっぱり視線と視線が交じりあって。カフェオレのミルクが溶け込むように、微笑が漏れる。
自然と肩と肩が寄り添った。規則正しい雪姫の呼吸音。確かに感じる温度に、安堵する。結局、雪姫に満たしてもらった。自分の不安も含めて、全肯定してもたった気がする。――と、視線を感じた。
見れば、青柳君が、唖然として雪姫に視線を向けていた。
未だ、輪の中に入れず。
ただただ、困惑している彼に申し訳ない気持ちになる。
線を自分が引いたつもりは無い。
でも、線を引いてしまったかのような錯覚を憶える。どんな言葉を青柳君にかけて良いのかも分からず、俺はやっぱりコーヒーカップに口をつけることしかできなかった。
■■■
風が凪いで――妙に生暖かい。
不思議な夜だなって思う。今晩はやけに月が近いように感じるのだ。そのせいなのか。いつもは歩いていると、どこかしら猫の存在を感じるのだが、今日は猫一匹見ない。猫は猫で忙しいということなのかもしれない。
(ルルも、猫社会の中では忙しいのかな? 意外にボスって呼ばれていたりして)
自分で想像して、つい唇が綻ぶ。何より腕に抱きついて寄り添ってくれる存在が、なお心の中を暖かくする。あんなことで悩んでいたことが、バカだなって自分で思うくらいには。
「スゴイ! 月がとても近いよ、冬君?」
まるで初めて真夜中の街へと探検に繰り出したかのように、二人ではしゃいで。見上げれば、満月まであと少しの待宵月。弥生先生が授業で言っていた小ネタを思い出す。来るべき想い人をずっと待っている。待宵には、そんな言葉が隠されていると。恋バナが大好きな女子達は大盛り上がりで、男子――俺と光は苦笑するしかなかった。
でも、そんな情緒も感じさせないほどの圧迫感を感じる。まるで地球に急接近するかのようで。妙な焦燥感を掻き立てる。
(すかり遅くなっちゃった――)
本当だったら、俺のアルバイトが開始になる段階で、大地さんが迎えに来るはずだった。それがCafe Hasegawaで今日から、正式にバイトになった。まかないまでもらって、お腹が満腹になっての帰宅。
シフトは無理がない範囲で。俺と同じ時間帯。あまりに優遇された条件だと思う。
――ま、先行投資ってヤツだと思うよ。
と言ったのは、瑛真先輩だった。何やら瑛真先輩と美樹さんで企んでいることがあるらしい。でも、お店がそれで良いのなら、好意に甘えようと思う。雪姫が一歩、また一歩踏み出せるのなら、これほど嬉しい条件はない。
(一緒に働けるんだ)
一回きりのサプライズじゃなくて。そう思うだけで、頬が緩む。
と見れば、月明かりに照らされて下河家の前で待つ人影が見えた。
「お父さん……?」
見るまでもなくソワソワしていた大地さん。信頼をその視線の先――俺たちに寄せてくれている春香さん。興味なさ気でありながら、一番雪姫を気遣っている空君だった。
「だから言ってるじゃん。冬希兄ちゃんがいたら、過呼吸になんかならないから」
「ま、心配していなかったけどね」
「いや、でもさ……」
下河家がどんな風に今まで待っていたのか、安易に想像できた。一方の雪姫はと視線を動かせば、何故か不満そうに頬を膨らませていた。
「雪姫? どうしたの?」
「ほらね。だから言ったでしょ、大地さん。私達はおじゃま虫にしかならないって」
「でも、心配なんだから仕方ないじゃんか!」
「いい加減子離れしないと、本格的に姉ちゃんに嫌われるよ? Cafe Hasegawaでのバイトも本格的に始まるわけじゃん?」
「二人っきりの時間って貴重だから。雪姫はいくらあっても足りないだろうしね」
と春香さんがニヤニヤしながら、雪姫を見やる。雪姫は物欲しそうに、俺を見上げる。その意味が分からないほど、俺も鈍感じゃない。でも、流石に彼女の両親の前で公開キスをする度胸なんて、俺にはなかった。
だから――。
「今、帰りました」
ペコリとお辞儀をして、雪姫の手をゆっくりと離す。
「あ――」
その瞬間、今にも泣きそうな顔になる。呼吸が少しだけ浅くなるのが分かった。だから、雪姫の耳元で囁く。
「帰ったら、すぐに連絡をするから。明日またバイトだよね?迎えに来るから。焦らないで、ちょっとずつ進もう。次はカウンセラーの先生とお話もしなくちゃ、でしょ?」
ニッと笑って見せて。この子は、前を向いて歩み続けることができる子だ。妥協なんかできないくらい。目標が目の前にあれば、そのために自分が何をすべきか、考えることができる。
このゴールデンウィークは本当に目まぐるしいくらい、色々なことがあって。そのなかで雪姫の過去も。そして現在も。色々な雪姫の表情を垣間見ることができた。
そのなかで――線を引かれた。俺はソコから先には入られない。彼女と幼馴染達の関係に、俺は入り込むことができない。そう思ってしまった。
でも、線を引いたのは――俺だった。そしてその線を、雪姫はあっさり跨いでしまうし、消してしまう。今だって、こうして自分のことを求めてくれるのだ。
だったら――。
「おやすみ。また、明日ね。でも、帰ったらすぐ連絡するから!」
踵を返して、駆ける。途中、雪姫へ振り返って。大きく手を振って。
「冬君っ――」
雪姫が手を振るのが見えて。手を振り返して。
そして駆ける。
たん、たん、たん。
まるで月と追いかけっこをしているようで。
車も通らない。電灯が切れかかっていて、”ジジジ”と音をたてている。月明かりの方がまだ明るいと感じてしまう。
たん、たん、たん。
自分の足音だけが、やけに反響する。息があがる。でも、ちょっとでも早く帰って、雪姫の声を早く聞きたい。純粋にそれだけを思う自分は、雪姫のことを笑えないって思う。
車のライト。思わず足を止めて。
それから、また駆ける。
たん、たん、たん。
たっ、たっ、たっ。
早く、ちょっとでも早く。
そう思った矢先。
その足が払われた。
■■■
「え?」
受け身を取る余裕もなく、アスファルトにしたたかに頬を打ち付けた。口の中が砂利とともに、鉄臭い。きっとドコかが切れたんだ。冷静にそんなことを思う。
月明かりに照らされて、影がのびる。その顔を見忘れるはずがなかった。
「大國?」
口の中に広がる血の味を舐めながら、俺は立ち上がる。
「……はっきり言うぞ。上川、ゆーちゃんに近付くな」
大國が拳を振る。素直に殴られてあげる優しさは、生憎持ち合わせていない。体を屈め、彼の拳を避ける。
「な?」
「遅いから」
スタントトレーナーが課した鬼仕様のトレーニングに比べたら、こんなの造作ない。空手の世界でなら大國に軍配が上がると思うが、ココは道場でも試合でもない。まして、一方的に害意を叩きつけてくる相手に、遠慮する必要もなかった。
「んぐぁっ?」
俺は彼の鳩尾に、容赦なく拳を叩き込んだんだ。




