90 君の居場所、僕の居場所 / I can't kiss you enough
コーヒーの芳醇な香り。この匂いに包まれると、ちっぽけな俺の感情なんかあっさりと溶かしてしまう。マスターが、お客さんの好みに応じて豆を変えブレンドしていく姿に、いつも頭が下がった。
サイフォンがコポコポと音をたてる。
俺はその音を聞きながら、たった一つの方法で、カフェオレを作る。噂が噂となって、「恋するカフェオレ」をご所望するお客さんが増えた。
――その恋がホンモノなら叶います。
とんでもないキャッチコピーをつくったものだ。
ホンモノか、ニセモノかと言われたら、何が本物なのか分からない。どこまでいってもニセモノのままの気がする。雪姫の前でなら、ようやく自分を曝け出して笑える気がするけれど。それも今やどう笑って良いのか、やっぱり分からな――。
「悪かったね、上川君」
そう声をかけてきたのはマスターだった。
「え、っと?」
「折角、雪ん子ちゃんとの時間をジャマしちゃって。申し訳ないなって思っているから」
「あ、いや、それはむしろ光栄というか……」
「常連が、上川君がいるトコを見ちゃったからね。ちょっとお願いしたらって思ったんだろうね。今度、絞めておくから」
「いや、いや。そうやって声をかけていただけるのは、本当に有り難いというか……」
「むしろ上川君にそう言ってもらえるから、こっちの方が本当にありがたいけどね。でもね、上川君? 本当に大切なことは見誤っちゃダメだよ?」
「へ……?」
俺は目をパチクリさせるしかなかった。マスターは柔和に微笑む。
「まぁ、俺もね色々な人を俺も見てきたから。君が何かで悩んでいることは分かるかよ。悩むのは、君らの世代の特権だけど。でも、本当に見誤らないようにね?」
「マスター……?」
全てを見透かすように、マスターは微笑んだ。
「うちの常連さん達ってさ、なかなか放っておいてくれないからね」
コーヒーカップをソーサーに置いた瞬間だった。誰かが、カウンター席に座る。視線を向けると――。
「恋するカフェオレの注文をお願いしてもいいですか、店員さん?」
満面の笑顔で、光はそう言ったのだった
■■■
「光、あのね。注文は、他の店員に声をかけて。座席のダブルキープはちょっと、他のお客様の迷惑になるか――」
「クソガキ団の特等席だから。マスターさんのサイフォンを覗くのはね」
「あの時、飲むのはラムネだったけどね」
クスッとマスターは笑む。
「そ、そういうことを言っているんじゃなく――」
「だって、冬希を指名したいんだもん」
「Cafe Hasegawaはホストクラブじゃないし、そんな顔もしていないから」
「ホストクラブでアルバイトしたら下河が泣くよね。あ、そもそも生徒指導が黙っちゃいないか?」
「しないよ?!」
どうも今日は光にペースを乗せられてしまう。クスクス笑う光の表情が、さっと色を変えた。真摯に、俺の目を覗き込んでくる。
「ひ、光?」
「冬希、僕はね。君のこともクソガキ団の一員だって思っているからね」
「へ?」
予想もしない一言に、目をパチクリさせた。
「言ってしまえばクソガキ団も、幼なじみも、所詮過去で。過ぎ去ったことだって思ってる。僕は冬希と友達になれた。それが嬉しいって、本気で思っているから」
「う、うん……」
光が突然、真面目にそんなことを言い出す。俺はコクンコクンと頷くことしかでいなかった。
「冬希はね、下河を連れ出してくれたんだ。冬希がいたら、下河は息が苦しくならない。誰にもできなかったことを、冬希はしてくれたんだ。もう一度、冬希が下河と会うチャンスを――謝る機会を作ってくれたのは、冬希だからね」
「そ、それは雪姫が頑張ったから……」
「そうかもね。でも下河だけじゃダメだった。僕らだけでも、やっぱりダメだった。下河が冬希をどう想っているのか、知っているでしょ?」
「それは……うん……」
情けないって思う。仕事に集中することで割り切ろうとしたのに、もう感情は撹拌されて溢れ出そうとしていた。
「下河は別に、圭吾のことを庇っていたわけじゃないからね?」
「そんなことは分かって――」
「冬希が電話に出るからって、道場を出た後。下河がどうしていたのか、知らないでしょ?」
「……」
「下河、冬希がいないって気付いた瞬間から、過呼吸になったからね」
光の言葉に、思わず息を呑む。
「それでも、冬希を探して。苦しくても、下河は圭吾と向き合おうとしたんだよ。電話はお母さんからだったよね? 察するにCOLORSのこと?」
「……」
どう言葉にすべきか悩む。もう終わったことなのに、こうやって思考に囚われてウジウジしている自分が本当にイヤだった。
「まぁ、無理に聞こうとは思わないけどね」
光はニッコリと笑んで言う。今日、何度瞬きをしたのか忘れてしまうくらい、その言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかってしまった。光はそんな俺を見てクスクス笑う。
「おかしい? でもね、友達だからって何でも聞きたがるのは違うって思うんだよね。冬希がそれなりに抱えているのは知っているけど。COLORSの脱退だって、それなりの理由があったと思うし。でも、それも冬希が言いたくなったら言えばいいよ。一番先に、下河に言ってあげて欲しいけどね」
「な、なんで、そこまで……」
唖然とする俺に向けて。カウンター越し、光が俺の胸にコツンと拳を突き出した。
「正拳突きの極意は『己の心意に添え』なんだってさ」
「へ? しんい?」
ごめん、光。いきなり言っている意味が分からなくなったんだけど?
「熊さんの空手道場でね、正拳突きの稽古の時に言われたんだ」
「あぁ、え? うん?」
困惑している俺を見て光はクスクス笑う。俺の胸にその拳を当てたまま。
「心、その意味と書いてね、心意。本当の自分と向き合えって意味になるのかな? 中途半端な拳じゃ、中途半端な自分としか向き合えない。そう言われたんだ」
中途半端。まさに、それこそ今の俺で――。
「冬希を見ていてね、誰かを守るために、行動できる存在になりたいって、僕は思ったんだよ。もうウジウジ悩んで、行動できないのはイヤだから」
「光……?」
かろうじて息を吐き出す。光の真剣な眼差しに吸い込まれそうになった。
「冬希の心意はなに? 目を閉じたら誰が浮かぶの?」
瞼が瞬きを忘れるくらい。息をするのがツライくらいに、光の言葉に囚われてしまう。目を閉じなくても。今だって、ずっと、俺に向けて微笑んでくれる一人の子しか、思い浮かばない。
「冬希はさ、まさか圭吾のこと、申し訳ないとか思っていないよね?」
「そ、それは……」
「そんなの無意味だからね」
「へ?」
「だって冬希のこと、もうクソガキ団の一員だって僕ら思っているし。下河が、どれだけ冬希のことを必要としているかなんて、それこそ今さらでしょう?」
「それは……」
そう思う。自分は雪姫に大切にされていると実感する。どうしてこんな俺をと思わなくもないけれど。でも、そんな疑問、それこそ無意味だって分かっている。あの子は俺がいるから呼吸ができる、って言う。でも同じくらい、雪姫の傍でようやく呼吸できる自分がいる。大國の場所を奪ってしまったとしても。
「まぁ、圭吾の気持ちも分かるんだけどね」
「え?」
「でもね、冬希は行動をした。下河も歩み出した。ただ、それだけなんだよ。僕も彩音もそうだけど。何もできないと思い込んで、言い訳をしてきたから。だから下河の居場所にしてもそうだし、僕らの居場所にしてもそうだけど、勝手に決めないでね?」
ニッと笑って光はカウンター越し――。もう一度、俺の胸に拳を突きつける。
「己の心意に添え。僕の心意は、弱虫のまま行動できない自分と決別をしたかったから。じゃあ、冬希の心意は?」
師範――熊さんの受売りを転用するんだけどね。ペロッと、光は舌を出す。
心意と言われたら、戸惑ってしまう。それだけ自分はやっぱりカラッポだったんだと実感してしまうから。でも、今は瞼を閉じるまでもなく、やっぱり自然と脳裏にあの笑顔が浮かんできてしまうんだ。
「……バカって思うかもしれないけどさ」
「うん」
嬉しそうに、光は頷く。
「全部、雪姫なんだなぁって。やっぱりそう思った」
「やっと冬希らしくなってきたね」
クスクス笑う。「でも、それノロケでしかないからね?」
「べ、別にノロケてないからっ!」
「はいはい。そういうことで、店員さん。恋するカフェオレ、9人前、よろしくね?」
「9人前?! お、おいっ。あれ、結構、手間なんだぞ?!」
「いや、ほら。空君と天音さんも合流したからさ。美樹さんも飲みたいって言うし、さ。僕と彩音は、この前のアレが良いなぁ」
アレ……。雪姫の髪を切った日に、気まぐれで出した、光と黄島さんに向けたカフェアートのことか。女の子が男の子にキスをする構図は、まさしく二人のをイメージして描いたものだった。
「ただ、イラストのアレは逆にしておいてね」
「へ?」
「恋愛感情云々はともかくさ。何をするにしても、今度は僕からしたいからさ」
それって、どういう――?
でも、聞き返す余裕すら与えてくれなかった。
「下河が待っているから、よろしくね」
光はそう言って、ひらひらと手を振り、席に戻っていく。
マスターはコポコポと音を立てるサイフォンの火を止めて、木べらでコーヒーを撹拌をしている。
何故か微笑ましそうに見守られている、そんな気がしたのだった。
「お相手のことしか考えられない時点で、もう上川くんの居場所は雪ん子ちゃんなんだけどね」
■■■
「流石に、上川君一人じゃ無理ですよ」
音無先輩がクスクス笑う。さすがどころの話じゃない。一度の注文が多すぎだ。
幸い、と言うべきか。客足が引いたのが、有り難かった。淹れるにしても、配膳するにしても。音無先輩がさり気なくフォローしてくれたのが、本当に有り難いと思ってしまう。
「すいません」
ペコリを頭を下げると、なぜか先輩が慌てだす。
「いや、こちらこそなんですよ? ああやって上川君をダシにしたら、美樹さんが出てくると思ったから。まさか、上川君が出るとは思っていなくて、本当にすいませんでした」
「いや、そんな――」
「でも、”メ”ですね」
へ? 一瞬で音無先輩の目が剣呑な色合いに変わり、俺は一瞬たじろいでしまう。
「お願いした私が言える立場ではありませんけどね。みんなが一緒だったとは言え、上川君は下河さんとデート中だったワケですよね?」
「え? デートって……。今回はあくまで雪姫が熊さんの空手道場に行くという名目で……」
「特別な時間を過ごしていたら、それは誰が何と言おうと、デートですからね。下河さんは上川君しか見ていなかったし、上川君だって然りです。どんな理由があっても彼女を差し置いて、仕事を選ぶのは”メッ”ですからね?」
剣呑な視線が消えて、ふんわりと先輩は笑む。俺も、脱力して視線を雪姫がいるテーブルに向けた、その瞬間だった。
■■■
「下河さんが元気そうで良かった」
「青柳君も」
「……その、あの時は――」
「大丈夫、気にしていないから」
笑顔で雪姫がそう頷くのが見えた。
(青柳?)
彼が、あの青柳芯太なのか。小柄で、気弱そうな印象がある一方、優しく笑うその顔に吸い込まれそうになる。
感情が渦巻いた。
雪姫を見放して、傍観を決め込んだのは彼だ。でもその一方で本当に心の底から、雪姫のことを心配していたのが分かる。そんな姿を見て、やっぱり自分の感情が揺らいでしまう。
(情けない)
再会できたことを喜こんであげるべきなのに。心がざわついて、おさまらない。
「上川君、やっぱり待ってくれそうにないですよ?」
「へ?」
胸に衝撃を受けて、思わずトレイを持つ手を離してしまった。
陶器が割れ、派手な音が響く――ことはなかった。
「ギリギリセーフかな? 翼もありがとう」
「空君のトリッキーなパスに比べたら、全然、楽勝だよ!」
聞き慣れたその声すら、目をむける余裕はなかった。
うって変わって、雪姫が目に涙をいっぱい溜め込んで、俺の胸に飛び込んできたから。そのまま席に引き寄せられる。
青柳君も、予想にしなかった雪姫の行動に目を白黒させているのが見えた。
「……冬君、冬君ッ――」
名前を呼ぶのに、嗚咽が混じって、それ以上は声にならない。抑えきれず、雪姫の感情はとうに崩壊していた。
「ゆ、雪姫?」
「違うから、ね。私、冬君が大國君に何かをした、とか。そんなこと思っていないから」
「え? いや、俺はそんなことは……」
見れば、黄島さんが片目を閉じて、ウィンクを送ってくる。何かを雪姫に言ってくれたらしい。お願いだから、さらにややこしくなることは――。
「冬希はね、幼馴染の居場所を奪ってしまったって思っていたらしいよ」
光の言葉にさーっと血の気が引く。
(だから、今そんなことを言わなくていいから!)
案の定。雪姫が俺の背中にその手を回す。
「お役御免なんて、認めないもん! 冬君の隣が私の居場所だもん。離してって言われても、絶対に離してあげない! 誰にも譲らないから!」
妙に強張っていた体の緊張が抜けていく気がした。
そういえば、俺は軽はずみに口走ったことがあったんだ。
――君と幼馴染たちが仲直りをしたら、俺はお役御免になるのかなって思ってた。
雪姫のなかで、あの言葉がシコリになって残っていたんだと、今さらながらに思い知る。
ここはお店の中で。
みんなの目があって。
青柳君だって見ている。
でも、そんなことはどうでも良いくらい、不安で押し潰されそうになっていたんだ。
二人とも一緒だったんだ、って思う。
お互い、居場所を求めていた。
その居場所が、なかったことになるのが怖かった。
(線を引かれた。)
でも線なんか、最初から引かれていなかった。誰かに線を引かれても、そんなことはどうでも良いくらい、雪姫を幸せにしたいって思ってしまう。笑って欲しい。雪姫を笑わせてあげるのは、俺が良い。他の誰かじゃイヤなんだ。
「冬君の隣は私が良いの。他の誰かじゃ絶対、イヤだから」
言葉が重なったのか。心が重なったのか。もうぐちゃぐちゃになって分からないくらいに、二人が近い。無意識に、俺は雪姫の髪を梳いていた。
「――線なんか、引かせないから」
雪姫の声を聞いて、ようやく息をすることができる。そんな錯覚を憶えた。
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「空っちも瑛真ちゃんも、ツッコまないの?」
「姉ちゃんは中途半端に止めたら、より暴走するからね」
「自然消火が大事って、最近悟ったの。彩音、燃料は投下しちゃダメだからね」
「同感だよ、瑛真先輩!」
「分かってるくれる? 空っち!」
「むー!」
「そこで意気投合しないの。つーちゃんもむくれない」
「……こ、これって?」
「あ、そっか。芯太は初めてか。ま、そのうち、見慣れると思うけどさ。早めに慣れてね? 昔の【雪ん子】のイメージでいると面食らうと思うけど、今の下河の方が僕は自然体で好きかな?」
クスクス笑う光をきっかけに、笑顔が咲いていく。青柳くんは取り残されたように、唖然と雪姫を見ていた。
雪姫はようやく安堵したように微笑を溢す。でも、抱きしめるその力は一向に緩めてくれそうになかった。と、物欲しそうに雪姫が俺を見る。
「……だ、ダメだからね?」
「だって、冬君が私を置いていったんだもん。ちょっとワガママ言うくらい、いいよね?」
「それ、ちょっとじゃ――」
有無を言わさず、雪姫は瞳を閉じる。
何回だって交わしたのに、未だ慣れないけど。俺は思わず、メニュー表を手に取る。これはせめてもの抵抗だった。メニューに隠れるように。それから小さく雪姫の唇に触れる。ただ、それだけ。それだけの行為なのに、甘くて。溶けてしまいそうで。線を引くことすら、まるで無意味だったと知る。
「だって、やっぱり冬君は自覚が足りないって思うの。私の居場所は冬君の隣以外に有り得ないから」
今度は、雪姫が俺の唇を奪う。一瞬では到底終わらせえくれるはずもなくて。長くて、深くて。息継ぎをして。それから、雪姫はもう一度、俺の唇を奪った。
…。
………。
……………。
「見えてるからね、姉ちゃん」
「見えてるからね、上川君」
容赦なく呆れられるけど。
照れくさくても恥ずかしくても。それでも、雪姫との距離を開けることなんて、できるはずがなかった。
その刹那――。
■■■
――ギリッ。
まるで憎しみを込めるように歯軋りする音が耳について、残響する。
思わず顔をあげ、見回そうとしたら――やっぱり、雪姫に唇を啄まれてしまったんだ。
【熊さんの空手道場 正拳突きの極意】
己の心意に添え。
麺のようにコシをもって。
スープのようにコクを得て。
三代目 熊野熊伍郎




