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閑話11 大地さんの見た夢。あるいは空を翔ける、まるで龍のように


 この晩、夢を。夢を見た。

 雲の海のなか、縦横無尽に泳ぐ。

 そんな鯉達の夢を見ていた。





■■■




【5/2】

 ほんの少しだけ、時間は遡る。



 倉庫から、折り畳んだ鯉のぼりを出し、小さく息をつく。

 あいつらも、鯉のぼりを見て喜ぶ年じゃないんだけどな。そう思うのに、毎年ルーチンで、コイツらを泳がせようと思ってしまう。ポールを立てるのが、何よりくたびれるんだけどな。

 それでも――だ。


(何のためにやってるんだろうな)


 そう思いながらも、今年もコイツを泳がせたい。やっぱりそう思ってしまう。結局はタダの自己満足だと思いながら――。


「大地さん?」

 まさかの予想外の声が飛んできて、俺は目を丸くした。





■■■





「空ばっかりズルいっ!」


 そういえば、と思う。普段はワガママを言わない――あまり自分を出さない雪姫が、この時ばかりは、最大限の抵抗を示した。


 思えば、と振り返る。桃の節句で、雛人形を出した時は、声にこそしなかったけれど。雛人形を桐の箱から出した瞬間、目を輝かせていたのは空だ。男の子は男の子らしく。女の子は女の子らしく。親として言い聞かせようとした時期もあった。

 でも、と思う。


(無意味なんだ、そんなこと)


 女の子だって鯉のぼりに憧れる。だって負けん気が強かった雪姫は、女の子と一括りにカテゴライズされるのが苦手だったから。


 男の子が雛人形に興味をもっても。姉が好きな空は、共有することを望んだ。分かっていたのに、そんな単純なことすら許容ができなかった。


 結果は――。


 今年の春。桃の節句に点灯させたたぼんぼり。灯した光があまりにも弱々しくて、まるで送り火のようですらあった。部屋から出てこない雪姫を見ながら、漏れそうになったため息を、何とか飲み込んで。


 せめて、って思っていた。

 せめて、自分達だけは、雪姫を待ってあげたい。そう思っていた。


 ――まぁ、ひなあられは嫌いじゃないけどさ。私は柏餅の方が好きかな。

 ――花より団子かよ?

 ――空はお雛様、好きよね。

 ――だって、綺麗じゃんか。


 毎年恒例のじゃれあいも、今年は響くことがなかった。ひな祭りのときと同じように、ただ毎年のルーチンで設置するだけ、そう思っていたのに。


「大地さん、このポールを立てたら良いんですか?」


 ニコニコと破顔させて。ワクワクが隠せない、そんな笑顔を零して、冬希君はポールに手をかけていた。






■■■






 例年、1人でやっていたから。まさか、助け舟が来るとは思っていなくて、困惑してしまう。でも――。


「冬希君、雪姫は大丈夫なの?」


 何だか親が心配するのもどうかと思う。でも彼はニッコリ笑った。


「多分、大丈夫だと思いますよ? あの、春香さんが起きてきて、一緒にケーキを焼くって言っていたから……うん、多分」


 だんだん声が弱気になっていくのも、どうよ? と、つい苦笑が漏れてしまった。

 でも、それほどなんだ。娘にとって彼の存在は、必要不可欠だって俺も分かっている。


 見る人が見れば【依存】と判断するかもしれない。実際、彼がいないと外に出られないし、息ができなくなる。でも彼が傍にいれば、雪姫は息ができる。それこそ何でもできてしまう。あの冷え切った、ひな祭りの日を思い返せば、それは紛れもない前進だった。


 二人で綱を引き、鯉のぼりが天辺まで昇った瞬間だった。

 布にしかすぎない鯉が、力強く空を駆ける。


 毎年、当たり前の光景のはずなのに。

 冬希君は、少年のような表情を浮かべて、鯉のぼりを見上げていた。


「……冬君?」


 その声に思わず振り向いてしまう。

 ほらね、と思った。全然、大丈夫じゃないのも予想通り。


 鯉がはためく。

 風に乗って。


 その音に、近づく足音はかき消されてしまっていた。

 冬希君が気付いた時にはもう遅い。


 ぽふっ。

 そんな音が響いた。


「……ゆ、雪姫?」


 気付いた時には、雪姫が冬希君の胸のなかに飛び込んでいた。目が点になるとはこういうことを言うんだろう。半分、泣きそうな表情で、雪姫は冬希君に抱きつく。まるで捨てられた仔猫を彷彿させる。冬希君は、困惑して――それから、安心させようと小さく微笑んだ。


 自然と、雪姫の髪に手を添え、それから優しく抱きしめ返して。


 それでようやく雪姫は、緊張が解け、安堵の息を漏らす。それでも、絶対離さないと言わんばかりに、雪姫は冬希君を抱きしめる手を緩めないから、何度見ても娘の変化に戸惑ってしまう。


 いや正確には――よく知った表情(カオ)と重なる。

 薔薇の花束を嬉しそうに抱きしめた、あの時の春香さんとダブって見えた。


 今さらながらに痛感する。それはもう分かっていたことだけれど――。

 この子は真っ直ぐに恋をしているんだ、と。


 ――お父さん、ありがとう。


 幼い頃の雪姫は、鯉のぼりを設置したら、毎回そう言ってくれた。この子は本当に、鯉のぼりが好きだった。どんなに空とケンカをしても。どんなに、俺が冗談と皮肉を言葉の端っこに混ぜこんでも。じっと、旗めく鯉のぼりを飽きもせずに見上げていたのだ。


「――お父さん、ありがとう」


 声がして、思わず雪姫の顔を見る。満面の笑顔が咲いているのを見て、思わず娘の顔に見惚れてしまった俺だった。





■■■





「それで、ね。その時の雪姫は――」

「そ、そんなことまで言わなくてもいいじゃない!」


 つい口を滑らせたのが運の尽きだった。【雪ん子】の時代。それこそ、鯉のぼりに執着を見せた、あの頃の姿に想い馳せれば、つい饒舌になってしまう。


「雪姫は、どうして鯉のぼりが好きだったの?」

「……お、教えない!」


 体をプルプル震わせる。その顔は、見るからに真っ赤で。せめてものの反抗と言わんばかりに、俺を睨みつけるこの()は、反抗期だろうか?


「別におかしなことじゃないと思うけれど? 俺、実はお雛様が好きだったんだよね」


 冬希君の一言に、雪姫は――いや、俺も目を丸くする。それは、まんま空じゃないか。


「だってあの雛壇、まるでステージみたいでしょ? 現場で父さんが着付けをしているのを何度も見てたし。それにを思い出すんだよね、母さんの着物姿も」

「冬君……」


 雪姫が漏らす声を聞きながら、俺は納得する。彼の両親とは対面できていないが、ヘアスタイリスト・上川皐月。その妻は上川小春。旧姓、神原小春。かつて日本を代表するトップアイドル。今は引退して芸能プロダクションの社長をしている。


 そんな両親だから、日本中を駆け回る――だけじゃ足らず、世界のあちらこちらを行き来しているというのだから、やっぱり住んでいる世界が違う。


 ただ、子どもを置いて仕事を選ぶその心境。俺には到底理解することができなかった。


「だからね、雛人形が好きでも、鯉のぼりが好きでも、たいしたことじゃないよ」

「笑わない?」

「むしろ、雪姫の好きなことを聞かせてもらえるんだから、これ以上嬉しいことはないよね?」


 そう上川君はにっこりと微笑むのだ。身構えていた雪姫の緊張が解けていくのが見てとれた。


 深呼吸。

 それから紡がれた言葉は、親である俺も、予想だにしていなかった。


「……空に。あの大空を鯉のぼりのように泳いでみたいって思ったの。括られたり、決められたり、カテゴライズされるんじゃなくて」

「そっか」


 コクンと頷いて、彼は娘の髪を撫でる。全肯定だった。あぁ、こういうことなんだなと実感する。冬希君は、とにかく雪姫を否定しないのだ。意見はしっかり言える子だ。大人びて、落ち着いている振る舞いは彼の経験からくるものかもしれない。


 遠慮でも妥協でもなく、雪姫の全てを肯定したうえで、包み込んでくれている。見ていて、それがよく分かった。


「まるで、登竜門だね」

「え?」


 雪姫は――そして俺も目をパチクリさせる。


「中国の、後漢書(ごかんじょ)に書かれているんだけどさ。黄河に龍門っていう流れの早い滝があるんだよ。その滝を登ることができた鯉は、龍になれるって逸話があって。結構、有名な話なんだけどね」


 ふんわり、冬希君は笑む。


「まるで雪姫のようだって思ったの」

「……ふゆ君?」


「雪姫が頑張っていること、俺は知っているから。雪姫が見ている世界って,やっぱり青空の向こう側みたいな――本当に綺麗な世界を見ているんだって、妙に納得しちゃったんだよね。雪姫のそういう真っ直ぐなところ、本当に好きだよ」

「……今は違うもん」


 ボソッと雪姫が呟く。

 冬希君に囁くのが見えた。



 ――今は、冬君が私の全てだから。



 あのね、しっかり聞こえているからね? でも、声に出して指摘するのもヤボってものか。俺は苦笑いするしかなくて――。


「……もぅ、雪姫ったら。後はケーキを焼くだけって言っても、全部私に任せるのひどくない?」


 プクーと頬を膨らませて、春香さんが覗きに来て――目を丸くする。そして、浮かぶのはやっぱり苦笑で。思わず俺も春香さんも顔を見合わせて、笑みが溢れる。


「鯉のぼり、今年も上げてくれたんだね。なら、仕方がないか。雪姫、好きだもんね」

「そういうこと。今年は冬希君が手伝ってくれたから、本当に助かったよ」

「すっかり息子みたいじゃない? それなら、私もお礼を言わないとね」


 にっこり笑って春香さんは言う。あ、この満面の笑顔はイタズラを思いついた時の――ワルい顔だ。


「……ありがとう、冬君」


 瞬間、その場が凍りついた。雪姫の表情が、その一瞬で怒気を孕むのが、見ていて分かる。


「――冬君を気安く呼ばないでっ!」


 絶対に渡さないと言わんばかりに、雪姫が冬希君を抱きしめる


「ゆ、雪姫、ちょっと、ま、待って? 待って?」


 冬希君の声も、どうやら今は届いてない。ますます抱きしめる力を強めて――見るからに、その胸の中で窒息寸前になっている。


「なんでよ。いつまでも、上川君じゃ他人行儀でしょ? もう息子同然なんだから」

「普通に名前を呼べばいいでしょ?! 冬君って呼んでいいのは私だけだもん!」

「そんなこと、いつ決まったの? 何時何分何秒に? そこんトコちゃんと教えてもらわないとねぇ?」


 ニヤニヤ笑って言うが、春香さんの言い分はまるで小学生レベルだ。


「それじゃ――」


 チロっと唇を舌で舐める。「冬希?」


「何で呼び捨て?! ダメに決まってるでしょ!」

「く、ぐる、苦しい……」


 まさに君のおかげで呼吸ができない。まぁ女の子の胸で窒息するのも、それはそれで漢の夢かもしれない。冬希君もきっと本望――。


「いやいや、助けろって」


 ポカっ。頭に軽い衝撃が響く。

 いつのまに帰ってきた、空に頭を叩かれた。

 見れば、天音さんは自分の口を掌で押さえつつ、チラチラと空を見やる。ハグしようか、どうしようか悩んでいる素振りが一目瞭然で――なかなかカオスだった。


 色々な想いが絡むの目の当たりにしながら、俺は鯉のぼりを見上げる。


 オトナになってしまったんだな、って彼らを見ていると、思ってしまう。達観することが、格好良いオトナのように見えるし、そう振る舞うけれど。


 例えば、鯉が滝登りをするように。

 空を翔けたいと想うことだって。

 夢を語ることも。

 誰かを好きになることも。

 全部、同類項な気がしてきた。


 俺は諦めることが当たり前になっている気がする。

 だったら――。


 せめて、言い訳を並べずに羽ばたいてみせたい。

 少なくとも雪姫は、冬希君と一緒に、もう泳ぎ始めている。


 愛しそうに彼のことを抱きしめる、娘の姿を見ながら、ついそんなことを思ってしまった。







■■■





 その晩、夢を見た。

 雲海が広がって。

 それぞれ、浮島に立っていた。


 遠くに、雪姫や冬希君、空、それから春香さん。見知ったみんなが見える。

 と、空が天音さんと、手を繋いで雲の海に飛び込んだ。


 手を伸ばそうとしても届かない。


 雲へ。空へ落ちていく二人が――二匹の鯉となって舞う。

 俺は、大きく目を見開いた。


 雪姫と冬希君も飛ぶ。


 雲の海から、飛び上がってきたのは。

 二匹の龍だった。


 黒い龍と白い龍は寄り添う。

 並走飛行しながら、雲の隙間を。浮島の間を駆け抜けていきながら。


 呆然とその光景を見上げて。


 風が吹く。

 俺の体が煽られ、バランスを崩す。

 体が雲海に落ちていく。


 どこまでも落ちても、雲。雲。雲。思わず目を閉じた。

 もう、鯉にはなれない。

 そんな年だから。

 仕方ない。しょうがない。そう言い聞かせてきて――。





 落下が止まる。

 目を開けて。

 白い龍が、俺をその背に乗せてくれていた。隣には春香さんがいる。ドキドキが止まらないと言わんばかりに、俺の手に自分の手を重ねて。


 笑っていた。嬉しくて、楽しくて、笑顔が自然と溢れていく。

 今日、雪姫や冬希君と笑ったように。


 また雲に突っ込んでいく。

 その雲の海を脱したら。

 思わず息を呑んだ。


 眩しいくらいに、陽が燦々と射す。


 見れば、たくさんの龍が、この大空を縦横無尽に駆け回る。そのなかの一匹が俺だと気づく。隣では、春香さんがのびのびと、この大空を泳いでいた。


 これは夢だ。

 夢を見ている。


 夢を叶えようと、願えば。行動したら。それは――現実になる。もう知っていたことじゃないか。雪姫が当たり前のように笑って欲しいと願った。その夢は叶った。上川冬希君という、一人の男の子のおかげで。


 それは夢だ。

 夢を見ている。


 夢を叶えようと、願えば。行動したら。それは――現実になる。

 今度は、オトナが頑張る番なんだ。空を翔ける、まるでこの龍のように。竜門を登る、鯉達のように。





■■■





 この晩、夢を。夢を見た。

 雲の海のなか、縦横無尽に泳ぐ。

 そんな鯉達の夢を見ていた。

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