2. 一マス進んで振り出しへ
「そういえば、まだ私の本当の名を伝えていませんでしたね」
その前に色々聞きたい事があるのだが、俺が口を挟む間も無く天子は勝手に話しだす。
「私は、シクノシュ・エサハヤタ・トミハスノリ・コニホン・ドミラージ・デ・サファリア……」
「あとどれくらい掛かるかな、それ」
もう既に覚えきれそうもないが、一応確認しておく。
天子は少し考えてから答えた。
「そうですね……あと十分ほど待って頂ければ」
「もう、天子でいいじゃん……」
円周率ですら覚えられないというのに、そんなに長い名前を覚えられるわけがない。なぜこんなにも長い名を付けたのかと、名付け人に問いただしたい。
しかし、天子は俺の提案に首を横に振る。
「いえ、それは人間界においての名ですから、やはりこの天界における名でないと……」
(何コイツ、ダルすぎんだろ)
大体、そんな長ったらしい名前で呼ばれたことがあるのだろうか。入学式に十分も掛けて生徒の名前を呼ぶような先生がいるのだろうか。そもそも、普段はなんと呼ばれているのか。
呼び名があるのならば、ぜひともそれで呼ばせていただきたい。
「なあ、お前普段なんて呼ばれてんの?」
「そもそも呼ばれることがありません。用がある時は肩を叩かれますので」
そう言う天子の目は、どこか遠い所を見つめていた。
なんだか可愛そうだ。まさか名前を呼ばれないことに悩む美人がいるとは。世の中は知らない事だらけだ。
しかし、呼び名が無ければ不便極まりないので、俺は一つ提案する。
「あだ名じゃダメか?」
「あだ名、ですか……?」
天子がコテンと首を傾げる。
これを教室にいた時にされれば可愛いと心の底から思えたのだろうが、残念ながら今の俺にそんな余裕はない。
こう見えて、結構テンパっているのだ。
「具体的にはどのようなものに?」
俺はたった今思い付いた名案を口にする。
「あだ名で天子って呼ぶのは」
「ダメです」
即答された。仕方がないので適当にあだ名を考える。
「天使は?」
「ダメです」
「神様」
「ダメです」
「バニーガール」
「わけがわかりません」
これに関しては同感だ。俺もそう思う。
「じゃあ、何ならいいんだよ」
このままでは日が暮れる気がするので、参考にするためにも聞いてみた。
「えっと……」
天子は人差し指を唇に当てて考える。
これも可愛いのだが、出来れば教室にいた時にやって欲しかった。
「……そうですね、可愛らしい名前なら」
「可愛らしい名前ねぇ……」
俺は可愛らしい名前についていくつか頭の中で候補を挙げる。
1.マロ。犬っぽいので却下。
2.クルミ。いや、それもなんか動物っぽい。却下。
3.ジャム。これは俺の犬だ。よって却下。
そんな事を考えていると、ふと思った。
(……帰れるよな?)
一度思うと無性に心配になり、俺はたまらず聞く。
「なあ、どうやったら帰れるんだ?」
「え? ああ、その話ですか」
天子は残念そうな顔をしているが、俺としてはこっちの方が重要なことなので気にしないことにする。
天子は微笑みながら言った。
「帰れませんよ」
「……は?」
時が止まった。正確には俺の思考回路に電気が流れなくなった。
「は、はは」
放心状態になったせいか、無意識に何も面白くもないのにも関わらず自然と乾いた笑い声が出た。
笑い声が出たついでに、俺の体の何処かしらから怒りが湧いてくる。
「おい、天子っ!」
「何でしょう?」
天子がまたしてもコテンと首を傾げる。
(だからそれは教室でやれっての!)
「じゃなくて、ふざけんなよっ! 帰れないってどういうことだよ!」
「そのままの意味ですけど」
「っがぁぁっ!」
あまりにも平然としている天子を見て、なんとも言えない怒りともどかしさが混じった感情が襲ってくる。
そして襲ってきたついでに俺の脳に冷静という単語を押し付けきた。
そこでハッとする。
(そうだ、落ち着くんだ。冷静さを失ってはいけない。クールにだ、クールにいこう)
俺は深呼吸を何度か繰り返してから、天子に声を掛ける。
「ふぅ……なあ、天」
「そういえば、今日は神道君の好きな〈こんにちは、そしてまた会う日まで〉の最終回でしたね」
「………」
その言葉を火薬に、俺の怒りが再び火山の如く爆発する。
「俺の普通を返しやがれぇぇっ!」
しかし、天子は俺の怒りの発言を聞き流し、微笑みながら落ち着いた口調で諭すように語り掛けてくる。
「全てが終わればきっと帰れますから」
全てが終わるとはどういうことだろう。俺に何かさせようとしているのだろうか。よく分からないが、そんな事はどうでもいい。
「今だ! 今すぐに俺を元の世界に戻せ!」
「………」
俺の言葉を聞いた天子は、少し申し訳なさそうな顔をする。
その顔を見た時に、俺の頭にもの凄く嫌な考えが浮かんだ。
「……まさか、帰り方が分からない、のか……?」
「………」
「……嘘だ、嘘だろ? なあ、嘘なんだろ?!」
「………テヘッ」
天子は舌を出し、可愛らしくウインクする。
「嘘だろぉぉっ!」
(ふざけんなよぉぉ! 先週からずっと楽しみにしてたんだぞ! 真央が神坂に助けられるシーンだぞ! 感動シーンなんだぞぉぉ!)
「まあ、安心して下さい。天界と人間界とでは時間の流れが違いますから」
天子のその言葉で、俺はハッと我へと帰る。
「どのぐらい違うんだ?!」
天子は相変わらずの微笑みを添えながら答えた。
「あちらでの一年が、こちらでの一那由多です」
「初めて聞いたわ、一那由多って。てっきり死語かと思ってた」
「そうですね……確かに聞きませんね」
「うん、だろ?」
そこで疑問が浮かぶ。
なぜこんな事を話しているのだろうか。というか、そもそも何の話をしていたのだろう。
俺がついさっきまでの記憶を探っていると、天子が微笑しながら、なぜか少し興奮気味に声を掛けてきた。
「ところで、私のあだ名の方は……」
「ああ、そうだった」
もともとは天子のあだ名について話していたのだった。
天子の様子から察するに、実は結構楽しみにされていたらしい。小さな子供みたいだ。
仕方がないので、先ほど思い付いた候補の中から、俺好みの物を提案することにする。
「……動物っぽいけどいいか?」
「それ次第です」
またしても即答されたことで、少し緊張を覚えながらも俺は答えた。
「……クルミ?」
「なるほど、確かに動物っぽいですね。それに、それだと新しく付けられた名前みたいです」
全くだ。そのことに関しては何も言い返せない。
しかし、天子はどこか満足そうに呟く。
「……でも、可愛いのでクルミでいいです」
「そ、そうか」
てっきり話の流れからして却下されるものだと思っていたが、気に入ってくれたのなら問題ないだろう。
その事に安堵していると、天子改めクルミが不思議なことを言い出した。
「あ、そうそう、すっかり話が変わってしまいましたね」
「え?」
どういう事だろうか。もともと話していた事があだ名についての話ではなかったのか。
クルミは頬を赤く染め、もじもじとしながら上目遣いで聞いてくる。
「そ、それで……神道君は、私と婚約してくださるのでしょか……?」