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12の花の話

6月 アスチルベ

作者: livre

12の花の話。6月。

 遠くの方で、受付番号のアナウンスがきこえる。

僕のじゃない。僕の診察はもう済んでいるから。

ここでやるべきことはとっくに終わっているのに、何をするでもなくただぼんやりソファに座って指先をキコキコと動かしていた。

さっきまでメンテナンスを受けていた僕の腕。

僕の両腕は最初から、そしていつだってこうだけれど、改めて見ているとやっぱりロボットみたいだ。

月に一度ここで受けているのは診察なんかじゃなくて、機械のメンテナンスだとしか思えない。

僕はロボット。産まれてからずっと。

それでもそれを悲しむ感覚はどうやら持ち合わせていないから、何ともなく機械の手を組み合わせつつ、病院に居る多くの人たちを見つめていた。

帽子をかぶった男の子が居る。寝巻きを着ているから、おそらくは入院患者なのだろう。

しきりに看護師に話しかけているけれどそれはあえなく躱され、病室に戻るよう諭されているらしかった。

看護師に連れられてしぶしぶ病棟の方へ戻っていく少年の向こうでは、白衣姿の2人が何やら話し込んでいる。

大切な話はこんな所じゃなくどこか別の場所で話し合った方がいいのではないか?と考えつつ、さして面白くもなさそうだったので目線を動かした。

 その先に、車椅子の女の子が居た。

僕より幾つか下の頃に見える。

膝に掛かったブランケットを見つめ、彼女は誰かを待っている様子だった。

と、その横を幼い子供が走り去っていく。

病人や怪我人のようには見えないから、誰かの付き添いで連れてこられたのかもしれない。

勢い、ふわりと掛けられただけのそれは床に滑り落ちた。子供は気付かずそのまま去って行ってしまう。

病院の白い明かりの下に晒された少女の脚は、片方が人間、もう片方はロボットだった。

金属のようにもプラスチックのようにも見える、僕と同じロボットの脚。

意図せず釘付けになった。

表情はたぶん、変わっていないはず。

ずいぶん長い時間ロボットの脚を見つめていた気がしたけれど、もしかしたら一瞬だったかもしれない。

僕の視線は掛け直されたピンク色のブランケットによって遮られた。

目線を少し上げると、少女の傍らに母親らしい女性が立っている。どうやら彼女は母親を待っていたらしい。

そして目が合った。見すぎていたかもしれない。

どうしようかと僅かばかり考えてから、とりあえず手を振ってみた。

右目の端でロボットの手が揺れる。

少女は戸惑ったらしく、目を泳がせてからそのままそっと伏せた。

 不快な思いはしなかった。


 その後は病院を訪れるたび、彼女を見た。

それは前と同じくロビーであったり、玄関であったり、陽の差す庭であったりした。

少女は元々ここへ通っていたのかもしれないけれど、先日たまたま見かけるまでは僕の目に入っていなかった。

一度見てからというもの、月に一度のメンテナンス時には毎回その姿を見ている。

きっと、ずっと彼女はここに居たのだ。

何のためにやってきているのかは分からないが、その顔はいつも沈んで見えた。

 少女がいったい何をしに病院を訪れているのか知ったのは、最初に目撃してしばらく経ってからのことだった。

僕はもはや流れ作業のようになったメンテナンスを終え、退屈しのぎに病院内を散歩中だった。

冬や春よりも少しきつい初夏の陽の中で、彼女は作業服の男性に手を取られながら歩いていた。

 ああ、リハビリか。

見覚えのあるあの服装はそのスタッフのものに違いない。小さい頃、僕自身も彼らの世話になった記憶がある。

吹き抜けになっている二階の廊下からそれを見下ろしていた僕は、ひとまず彼女らの居る中庭まで出てみることにした。

 昼のさかりに近付いて、だんだんと陽射しが強くなっている。夏が近い。

それでも風が吹けばまだ心地良く、「天気もいいから今日は外でやろう」なんてことになったのかもしれない。

もっとも、これがリハビリテーションであることを考えると、単に長距離を歩かせたかっただけなのかもしれないが。

側で見てみれば、彼女の歩みはその義足から想像するよりずっとしっかりとしていた。練習を始めてからもう長いのだろうか。

それでも念の為にと手を取られ、傍らには母親も控えている。

時々風に乗って、少女の脚がたてるキイキイという音がきこえてくる。機械の何かがこすれるような音だ。

僕の手も、よくあんな音をたてる。

特別不快には感じないけれど耳障りのいい音とは言えない。本来ならば人体から鳴る音ではないからだろうか。

 ふとこちらを向いた目と目が合って、やっぱり僕は手を振った。

すると少女はゆっくり歩みを止め、空いている方の手で控えめに手を振り返してきた。

実はこれまでも目が合うたびに手を振っていたのだけれど、反応してくれたのは今日が初めてだ。

その顔が少しだけ微笑んでいるのを見て、ちょっと話しかけてみようか、と思った。


 そのまま中庭のベンチに腰掛けて終わるのを待ち、「よく会うよね」と声をかけた。

いつもじゃないですか、と笑って応じた声は幼く聞こえた。やはり年下なのだろう。

伴ってベンチに座る。母親は少し離れたところで本を開いていた。

年下だと思っていたしおそらく実際にそうなのだろうが、それでも初めから敬語でないのは流石にまずかったかな、などと考えているところに

「前から気になっていたんです。お兄さんのその手。」

と向こうから話しかけてきた。

声をかけたはいいものの、これといって話したいことがあるわけではなかったから助かった。

「自分じゃ全然気にしてないみたい。」

僕の返事を待たずに彼女は続ける。

「最初に会った時だって、義手で普通に、全然気にしてないみたいに手を振っていたから…

その、驚いたんです。」

触れていいものか迷っているような口振りだったが、僕らの共通の話題などそもそもそれしかないのだ。

ふたりとも病院に通っていること。身体の一部がロボットであること。

それだけ。

「うん。だって僕は元々こうだからね。

気にするもなにもないんだ。」

正直に答えた。

先天性だということに、少女はすぐに気づいたようだ。

「これしか知らないんだから。」

僕は事も無げに言った。事実そうだった。

記憶の限りずっと、いや産まれてからずっと人間の腕を持たない僕にとっては、これが普通だ。悲しいとも感じない。

彼女はそれを聞いて、一瞬逡巡するような素振りを見せたあとで「私のは事故なの」と言った。

さっきまでよりも小さな声だ。

「数ヶ月前に、事故に遭ったんです。

学校から帰る途中で。

あまり覚えていなくて、気が付いた時にはベッドの上で、もう、こんなでした。

先生がいろいろ説明してくれてたのも、ちゃんと聞いてなかったな…。」

言いながら視線を下に落とす。少女の目線の先には無機質な義足がある。

「でもいくら実感が無くてもね、ここから、本当に無いんですよ。」

自分の脚の付け根あたりを指しながら彼女は笑っていたけれど、悲しいような何かを諦めようとしているような、そんな顔に見えた。

何も言わない僕に構わず少女は語り続けた。

きっとただ誰かに話したいのだろう。

僕はそのまま黙って、彼女の話を聞くことにした。

「もう一度ちゃんと動けるようになろうって思ったんです。」

その目は依然、下に向けられたままだ。

「事故に遭う前と同じように、自由に戻ろうって思って、リハビリも頑張ったんです。

無くなったのは片脚だけだし、私はまだ子供で若いし、きっと元通りになるだろうって。

そうやって頑張ってたら、1人でも歩けるようには、なったけど」

そこで言葉を切り、一瞬沈黙が流れた。

その間に少女の心の中でどういう動きがあったのか、僕には想像することができない。

「やっぱり違うんです。」

声がまた一段、小さくなる。梢の音に掻き消えそうだ。

「そもそもね、朝起きて、ベッドの上でこれを着ける、っていう時点で違うんです。当たり前ですよね。

歩くにしたって重くて固くて、それに軋んでうるさいんです。

長い距離を歩くことは出来ないから車椅子を使うことにもなるし、そうしたら、行ける場所だって限られちゃうんです。

仲の良かった友達もそのせいでなんだかよそよそしくなっちゃって…お兄さん、そういうこと、ないですか?」

それまで一人語りを続けていた相手に不意に問いかけられてハッとする。

もちろん、聞いていなかったわけではないけれど。

「ああ…、いや、うん、そうだな、僕にはそもそも友達がいないんだ。」

そう答えた。本当のことだ。

必ずしも必要ではないと思っていたし、周りの人間にしたってこんな面倒そうな人にはわざわざ関わらないだろうと考えていたから、寂しくはない。

期待していた反応ではなかったのか、少女は特別それについて何も言わなかった。

「元通りの自由がどうしても手に入らないんです。」

「私はそれがとても…苦しい。」


 その言葉は胸のどこかに刺さった気がした。

だから僕は考えた。

 彼女は事故によって片脚を失った。

それによって日常を損なった。

そうしてそれを「自由が手に入らない」と言う。

ならばこの少女から見た僕はなんなのだろう?

生まれつきのロボットの腕。

周りの人間になら普通に出来て僕には出来ないことが、確かに、挙げればキリがないほど沢山ある。

彼女から見ればそんな僕は、自由など、最初から知りもしないということにはならないだろうか?

彼女は出来ないこと不便なこと、それらを全て「不自由」だと看做していて、それ自体は間違いでないとしても、そうだとするとこの子の目に映る僕はずいぶんと、哀れな存在なのではないだろうか?

彼女が苦しめられているという不自由に、実は僕も苦しめられているのだろうか。

僕はこれしか知らないのに。

他のものなんて知らないのに。

知らない何かに、僕も苦しんでいるのだろうか?


 息を一つ吐いて、一旦気持ちと思考を落ち着けた。

少女がこちらを窺っている。

僕が黙りこくっているせいで、気分を害したのではと気にしているのかもしれない。

「自由ってなんだろうね?」

その心配を取り除けるようなるべく優しく言った。

ようやく放たれた僕の言葉に、彼女は答えられなかった。

言ってはみたものの、こうだというはっきりした意見を持ってはいないらしい。

それでもこちらが怒っているわけではないようだと悟ると幾分か安心したようで、曖昧に笑ってみせた。

「ああ…でも」

と、僕は思いついて声を上げる。

「この手で何かを触っても何も感じないっていうのは、少し寂しいかもしれないな。」

 そうだ。

冷たい、も熱い、も分からない。

誰かの体温を感じることもない。

それはやっぱり、寂しい気がした。

ロボットの腕を少しだけ恨めしく思う。思って、すぐに消えた。

そんなことを言ったら少女は一度何かを言いかけて、そのまま口を噤んだ。

ほら。不自由でしょう。と言っているような顔に見えた。

 気が付くと陽が落ちかけていて、彼女の母親がこちらを見ていた。本は閉じられている。

何も言ってこなかったのは僕への気遣いか娘への気遣いか、どちらだろう。

そろそろ帰る時間だろうと立ち上がると、空席の車椅子を押してこちらへやってくる。

母親に声をかけ、車椅子に乗りかけている少女を一瞥してから、

「じゃあ、また」

とその場を去った。


 夜、ベッドの上でまた考える。

ロボットの脚を持つ女の子との会話について。

 彼女は自分の身体を、境遇を、不自由だと言った。それが苦しいのだとも。

僕はといえばこれまで、彼女とよく似た自分のこの身を、疑問に思ったことさえなかった。

もちろん両親を恨んだこともなかった。

こうして生まれついたのは単なる運だ。それ以外の何物でもないし、それを悪運だと考えることすらない。

僕にとってはこれが当たり前だったから。

他の身体は“見て”いるだけで、“知り”はしない。

彼女は僕のこの思考までをも、不自由だと嘆くのか?

「僕が自由でない、としたら」

知らず言葉が漏れていた。

一人で寝る部屋に、聞き留める人間はいなかった。

真っ暗な天井を見つめて、そこに向かって腕を伸ばす。

義手を外した肩口が微かにぴくりと動いたような気がした。視界には何も入らなかった。

だとしたら、自由になるために何ができるだろう。

考えながら幻の腕を下ろした。

 何もできないだろうな。

結論づけて目を閉じる。

もうこれ以上僕のためにできることなど、僕にも誰にもない。

このまま眠って、明日の朝、いつものように母親が部屋へやってくる。そして僕の両腕にロボットを取り付ける。母が来るまでに起きてしまったら、ベッドの上でぼんやりと待つのだ。

そうやって毎日を繰り返す。昨日までも、明日からも、僕は“不自由”を享受する。

そんな風に考えながら眠りに落ちた。

やっぱり悲しくはなかった。


 それからも毎月少女に会った。

病院以外の場所で会うことはなかった。

あの日以来会うたびに話をした。

話すことはなんでも良くて、取り留めもないことばかりだった。

 少女が僕より2歳年下であること。学校のこと、勉強のこと、親のこと。

僕が特別支援の学校へ通っていることも話したし、彼女が受験を控えていることも聞いた。それについて少し悩んでいるということも。

 身体の話はあまりしなかった。

お互いに時々、「調子はどう?」と訊ねるくらい。

境遇が似ていることもあり、僕らはだんだんと打ち解けていった。

僕は純粋に楽しかったし、彼女も楽しそうだった。

だから分からなかった。

彼女に与えた影響を、僕は何も考えていなかった。


 ロボットの僕とロボットの少女が出会って最初に言葉を交わしてから、半年と少しくらいが経っていた。季節は、もう、あと少しで1年が終わろうかという頃だった。

 病院のロビーを入ってすぐのあたりで、少女の母親の姿を見た。どうやら誰かを探している。

そのまま観察していると、母親は僕を見つけ小走りで近づいてきた。

探していたのは僕だったらしい。

あまり話したことはなかったが、それでもいつもより疲れて見えた。

「ごめんなさい。良かった…会えて。」

何を謝られているのかは分からなかったけれど、とりあえず挨拶を返す。

あたりを見回した。少女は居なかったし車椅子もなかった。

キイキイという音も、雑踏のせいかきこえなかった。

「貴方を探していたんだけど連絡先を知らなかったから。

いつも会う頃にここに来れば、そのうち会えるんじゃないかなと思って。」

どうして僕を探していたのか、少女の姿が見当たらないのは何故なのか、気になることはあったものの診察の時間が迫っていた。

それを伝えると、

「ああ、そう、そうよね…ごめんなさい。ここで待ってるわ。」

と、また謝った。


 本人ならばまだしもその母親とは向かい合ってお茶を飲むほど親しいわけではない。

かといって外はもう酷く冷え込んでいたので、診察を終えた僕はロビーで話を聞くことにした。

何かあったんですか?

僕に何の用ですか?

あの子はいないんですか?

そういえば最近見かけませんでしたけど、リハビリは終わったんですか?

訊ねたいことを全て飲み込み、ひとまず何も言わずに相手の言葉を待った。

 やがて、ロビーの簡素な椅子に隣合って座った母親が、僕の方を向かないまま口を開く。

「あの子ね、死んじゃったんです。」

ぐら、と心臓が揺れた気がした。甲高い悲鳴のような耳鳴りがする。

隣で動かない横顔を見つめ、それから意味もなく、受付カウンター、走り回る子供、空いているソファ、背の高い観葉植物、に目線が動く。

その中に、車椅子とピンク色のブランケットは見当たらなかった。

どう声をかけるべきか分からない。

いやそもそも、何かを言うべきなのかどうかすら。

娘が死んだとこの人は言った。この人はあの少女の母親ではなかったか。

ロボットの少女が死んだ。

ロボットの少女が死んだ?

 何故か直感的に、事故や病気ではないだろうと思った。

それは、一度悲惨な事故に遭った人間が再び不幸に見舞われることなどないはずだという希望からくるものだったかもしれないし、彼女と話す中で僕が勝手に無意識で、何かを予感していたのかもしれなかった。

とにかく自殺だと思った。

そしてそれは当たっていたのだ。

 す、と僕の膝の上に白い封筒が置かれた。いかにも遺書ですと言いたげな封筒だった。

母親が話すには、これを遺して自宅のマンションから飛び降りたのだという。

中を見ても?と確認すると、唇を結んだまま頷いた。


 僕は彼女の書く文字を初めて見た。

癖のない、これから死のうとしている人間が書いたなどとはとても思えない、落ち着きはらった字だった。

 書き出しは両親への謝罪だった。

「先立つ不幸をお許しください」

ありきたりで使い古された、感情のない定型文。

 そのあとはこうだった。

「なんて。本当はこれはね、不幸なんかじゃないはずなの。」

 そして遺書はこう続く。

「私は自由になります。

お兄さんのように、全て諦めてしまえれば良かったのかもしれない。

私の身体は“こう”なんだって、一生このままなんだって、認めてしまえれば良かったのかもしれない。

でも私にはそれができませんでした。

やっぱり元に戻りたい。

不自由の中でなんて生きていたくない。

パパ、ママ。私のことを叱りますか?

リハビリを頑張って、歩けるようになったんだからそれでいいじゃないかって、叱りますか?

私はね、それじゃあどうしても嫌だったの。ごめんなさい。

このお手紙は、できればお兄さんにも見せてほしい。

私が選んだ道が何だったのか、お兄さんにも知ってほしい。」

 そこまで読んで、ふと隣から視線を感じた。

僕が目をやると母親はふいと目線を逸らし、再び前を向いた。

その顔は泣いているようだったが、娘に対しても僕に対しても、怒りは感じなかった。

 遺書へと意識を戻す。

「ここから先はお兄さんへ」

 そう続いていた。

「私とよく似ていて、真反対のところにいるお兄さん。

まずは、仲良くしてくれてありがとうございました。

お兄さんのことは前から知っていました。もちろんその腕のことも。ひとめ見れば分かりますもんね。

私はこんなに必死でこの脚を隠しているのに、なんであの人はああも平然としているんだろうって不思議でした。

でも、最初に話したあの日に分かりました。

お兄さんは、自分が自由かどうかなんて考えたことがないんですよね。

だからそんなふうに、不自由なことを悲しまずに生きられるんですよね。

責めているわけでも馬鹿にしているわけでもないよ。

お兄さんの心は自由そのものだったんです。身体は違っても。

だから私も、それにならうことにしたんです。

私の身体はもう元には戻らない。私が欲しいものは今後一生、手に入りません。

心が自由ってことはつまり、何を選択するのも自由ってことです。

自分が幸せか不幸せか決めるのも、自由かどうかを想うのも、考えた末に死ぬことを選ぶのも。

たとえそのせいでママが泣いても、もしかしたらお兄さんが悲しんでも、です。

自分勝手かもしれないけど、私が最後に望むのはそれだけなんです。

それとねお兄さん。

お兄さんならきっと分かってくれると思うけれど、今の私は不幸せなんかじゃないんです。

だから悲しまないでください。

だって、心の自由を手に入れたから。

心と身体は違うんだってこと、教えてくれたのはお兄さんだよ。」

 それから

「突然のことでごめんなさい。どうもありがとうございました。」で遺書は唐突に締め括られていた。

何枚かの便箋に書かれた手紙と十年余りの少女の人生の、呆気ない幕切れ。

少女はこれを書いてから、義足の身体で懸命に屋上までの階段を登ったのかもしれない。

その時彼女の胸の裡にあったのは、自分の不幸と肉体の不自由を嘆いた悲しみだったろうか。

それとも、手に入れた精神的な自由と生まれ変われるかもしれない未来への喜びだったろうか。

 すぐ側で聞こえる啜り泣きの声。これも彼女に言わせれば、彼女自身の自由による選択の結果らしい。

少女を責めることは出来ない。

隣で泣く母親もきっとそれは同じだろうと思う。

まして彼女によると、このきっかけは僕だ。

恨まれるのであればそれは僕だけのはずだった。

しかし母親は僕を責めようとはせず、数分ほど泣いたのちに「貴方を責め立てるつもりはないのよ」と涙声で言った。

横を見る。今度は前ではなくしっかり僕を見据えていて、

「あの子が、『お兄さんにも知ってほしい』と言ったから。」

と告げた。

何も言えずにただ頭を下げた。

それは詫びのつもりだったのか礼のつもりだったのか、自分でもよく分からなかった。

 そうして母親は立ち去っていった。

この人と顔を合わせることはもう二度とないだろうなと思いながら、その背中を見送った。


 数分か、数十分か。その場に座り続けていた。

他にやるべきことなどなくて、ひたすら少女について考え続けた。

 彼女を殺したのは僕だろうか。

僕がこの腕にもっと執着してもっと恨んでいたなら、もしかして彼女は死ななかっただろうか。

そうしているうちどうしようもなく悲しくなって、そして怒りが込み上げてきた。

 どうして、どうして。こんなことで、何も死ななくたっていいじゃないか。

そんな怒りと、純粋に、彼女にもう会えない寂しさとがそこにあった。

ただただ僕はとても寂しい。

たとえ彼女が“心の自由”を手に入れ、そのために自ら死を選んだとしても。

 僕は少女といるのが楽しかった。

きっと初めての、友人だった。

「君が死ぬことが君の自由であるなら」

口の中で呟いた。

僕がその死を悲しむことだって、自由なはずだろう。

君がそれを望まなくても。

 普段通りの見慣れた病院の中。

暖房で火照った両頬が、流す涙で冷えていく。

アスチルベ 花言葉「自由」

(http://hananokotoba.com/astilbe/ より引用)

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