八話『知ってるんですよ』
村から見て山の頂上は東にある。
村全体は山の斜面を削り平に均してあるが、東側まで来ると本来の斜面との差異が大きくなり過ぎる。その為、誤差を現象させる工夫として、東側の地面は単純に平行な地面ではなく、階段状に地面が幾つも重なった不思議な形状になっている。
その一種珍妙な大地に民家は建てられていない。田畑として利用されているからだ。これを段々畑という。『北西都』周辺では非常に珍しい土地の利用法である。
現在、畑には青々と茂る苗麦が育成しているが、幸いにも怪物の足跡は畑を無駄に荒らす事なく階段状の地面を上に向かって突っ切っている。被害無しとはいかないが、農家への被害は僅かなものだろう。
農民が通行する目的で作られた、入り組んだ坂の農道がある。早急に怪物を追跡したい現在、走っての通行を想定していない農道を通ると時間が掛かるので、今回ばかりは申し訳ないと思いながらも怪物の足跡を真っ直ぐ追って畑の中央を突っ切る。
小規模な畑が幾重にも続くので、畑を跨ぐ毎に岩を積み上げた低い壁を乗り越えねばならない。これが想像以上に体力を削っていく。農道を通るよりは速く駆けあがっている自信はあるが、段々畑の頂上に至った頃には既に呼吸が乱れていた。
畑の頂上を越えた先には再び植樹された木々が茂り、畑の姿を外部から隠している。また、木々の向こうには外柵が設置され、小型怪物の侵入を阻む。
しかし、現在、外柵の一部は派手に破壊されていた。逃走した怪物が壊して行ったのだ。侵入して来た地点もそうだが、壊れた外柵は早急に補強せねば、村には新たな被害が発生する恐れがあった。小型の怪物だとしても、複数匹が同時に村内に入れば脅威になり得るのだ。
一抹の不安を感じながらも、今は兎に角、攫われた村人の救出が先決だと思い直す。
村の東端は、丁度山の中腹にある。山の頂上まで登るのだとすれば、追い付くには骨が折れそうだった。先行した彼女が早い段階で怪物の足を止めてくれると助かるのだが、あまり研修すら受けていない新人に期待するのも信頼に欠けた。
現在ヒルデ山で猛威を振るう流れ者の怪物は、依頼主から齎された情報によれば”オンプ”と呼ばれる中型の怪物だ。中型怪物の中では比較的小柄な怪物で凡そ牛と同程度、体高がオレより頭二つ高い程度の体躯の怪物だ。
雑食で大喰らい。常に空腹に苛まれて山中を徘徊し、樹木と鉱物以外ならば何でも口にすると言われる程に食い意地が張る。基本的には臆病だが、空腹が酷くなると明らかな格上にも果敢に襲い掛かる頭の悪さも兼ね備えている。
ヒルデ山に流入する怪物としては、非常に危険性が高い怪物だった。
その生態を利用する討伐士にとって駆除は難しくなく、だからこそ上司のアルゴスさんもオレなんかに依頼を回してくれたのだ。だが、現在は少し状況が悪かった。精々が村人を救うのが関の山だろうと予想している。
足跡は一定間隔で続いており、追随するのは容易い。
ふと、ここに至り足跡に重なる血痕の量が次第に増加している事実に気付く。初めは目を凝らして発見していたような赤い液体が、今や一条の線として伸びている。水分を多分に含んだ苔類の上でも明確に残る程の出血量だ、非常に危機的な状況と言える。
攫われたのは村の少女のはずだ。流血が続くと生命維持の限界は近くなる。少しでも早く傷の手当をする必要があった。
しかし、進行方向を見上げても、依然として怪物や先行した後輩の姿はない。音なども特に聞こえず、距離が縮まっているかも怪しい。山歩きに慣れた彼女だから、驚く程の速さで山を駆け上っている可能性もあるのだ。それでも、いつかは追い付くと信じて進むことしかできないのだが。
巨木の隙間を縫って足跡は続く。傾斜は緩やかで、平地と同じとはいかないがオレでも大きな問題はなく山を登れている。地面を覆う苔や羊歯が鬱陶しい程度のものだ。
時折、羊歯に隠れた岩に躓き、苔に足を取られて足が止まる。付近に巨木が密集していなければ、何度転んだかわからない。また、緑の幕のように巨木から下がる無数の蔦にも幾度となく助けられた。
息が上がる。近頃は平地での依頼を受任する機会が多かったので、感覚が鈍っているのかも知れない。オレのような木っ端討伐士が得手不得手を作っていては、ただでさえ少ない依頼件数が更に減少してしまう。猛烈に反省した。
苔むした巨岩を乗り越え、一際巨大に成長した広葉樹を迂回する。”オンプ”の奴も、態々このような足場の悪い場所ばかり通る必要はないだろうに。
暫く山を登り続けると、いつの間にか足下が霞んで見えていた。西の鉱山の陰に陽が沈み、辺りが暗くなり始めたのだ。本格的に夜の帳が下りるのは未だ先だが、村へ戻る時間も含めて考えると時間の猶予は間近に迫ってきたのも確かだ。陽が沈み暗くなれば、この足場の悪い山中は碌に身動きできなくなる。
だからと言って、今以上に駆ける速度も上がらないのだ。今回はいつにも増して切迫感のある業務内容だった。
思わず悪態が漏れる。
そんな折、進行を妨げるような倒木が目前に出現する。左右の巨木に寄り添う形で滑落を免れ、全体が厚い苔に覆われて所々からは他の樹木の新芽が生えていた。
怪物の足跡は、付近の露出した樹の根を伝い、倒木を登って向こう側に消えている。人間の少女一人を攫っておきながら、随分と行動的で無茶な走りをするものだ。
疲労の溜まった身体で倒木をよじ登り、枯枝を支えに不安定な足場で立ち上がり、驚愕する。
微かな風に乗り、オレの鼻孔を強烈な獣臭さが襲う。
倒木の上から見下ろす先に、怪物が居たのだ。
茶色の体毛に覆われ、丸々した胴体に短い四肢。頭部や耳も丸いのだが、やけに長い鼻と前脚の鋭い爪だけが、丸さで統一された外形を崩していた。楕円形の尾は毛をこれでもかと逆立たせ、目前に迫った脅威に対して精一杯の威嚇をしている。鋭い歯列を剥き出しにして、その喉奥から絶え間なく唸り声を響かせる。ある種、巨大な野犬のようでもあった。
”オンプ”だ。倒木を跨いだ先の地面は雨水による浸食を受けていたのか、深い窪地になっていた。前方と左右の壁には土が浸食されて剥き出した巨岩が聳えているが、深緑の苔に被覆された滑りの良い岩石は、怪物の登石を阻む。巨岩の表面には幾筋もの傷跡が残り、”オンプ”が試行錯誤した名残と推察できるが、結果は未だ窪地に彼が残留している事実から分かる通り。
怪物が窪地から抜け出すには、爪の通り易い倒木を登る以外に方法は無い。だが、その倒木の方向には彼をここまで追い込んだ当人が武器を片手に構えており、不用意な逃亡策を阻害していた。怪物は警戒して安易に動く事もできず、体毛を逆立て尾を膨らませて威嚇するばかりだった。
エリス・ディスコルディア。彼女の背後には血塗れの少女が一人倒れていて、彼女も安易にその場を動けないでいた。
どれくらいの時間、そうしていたのかは知らないが、一人と一頭は互いに睨みあったまま動かない。
よくよく観察してみれば、怪物の足下には多量に流れ出た血液が水溜りを形成していて、体毛の一部は血濡れているのが見える。彼女が短剣で斬りつけたのだろうか。だから、怪物も下手に彼女を襲えないのだろう。
倒木の上から状況を把握して、どう動くべきか悩む。彼女の助力に回るべきだが、不用意に窪地に飛び込むと怪物を刺激し兼ねない。暴れ出した怪物が村人を無為に傷付けてしまうのだけは避けたかった。しかしながら、彼女が事態を収拾するまで見物に興じる訳にもいくまい。
一層のこと、怪物の死角にでも回って、上方から奇襲でもかけてしまおうかと半ば本気で考えた時、彼女と目が合った。”オンプ”から顔を背けられないので、横目で辛うじて此方を向いた程度だが、彼女がオレの存在に気付いたのは確かだった。
直後のことだ。
「センパイ、その子を村に連れ帰ってくださいっ」
掠れ声で唐突に叫び、短剣を片手に中型の怪物に挑み掛かった。
突然の彼女の暴挙に面食らったのはオレだけではない。じっと機会を窺っていた”オンプ”もまた、驚愕に身体を硬直させる。
ほんの瞬きの間の空白だが、その隙にも彼女は持ち前の新人らしからぬ瞬発力を十全に発揮し、怪物の足下まで駆け寄った。前脚の間に滑り込み、すれ違い様に脚の付け根辺りに刃を走らせる。
刃の当て方が悪い。妙な体勢で武器を振るったのも原因だろう。斬り付けは浅く、怪物の胴に小さな傷程度は付けただろうが、それで怪物が怯むこともなかった。それでも立ち上がり様に一閃、腹部を短剣で撫で斬ると、獣は高い鳴声で窪地内に轟かせた。巧みに既に負っていた傷口を抉ったのだ。
今の一瞬で怪物が負った傷など微々たるものだ。掠り傷と言うにも烏滸がましい。
しかし、僅かでも負傷し痛みを与えられた怪物は、自身の股下を潜って背後に回った小さな人間を追い回し始めた。
これで、倒木の間近で意識を失った村人の少女は、完全に怪物の注意から逃れた訳だ。
本当に新人らしからぬ度胸の持ち主だと素直に感心する。
倒木から滑り降り、見知らぬ少女に駆け寄る。赤黒い液体に塗れた少女は、存外穏やかな呼吸で眠っていた。だが、衣服の一部は破れ、その下の肌には小さな裂傷が幾つもある。穏やかな寝顔であることが、むしろ不安を搔き立てた。
怪我の状態を確認し早急に処置を施したいが、この場では無理だ。すぐ背後には怪物がいる。
振り向いて確認すると、丁度”オンプ”が高い声で威嚇声を上げた。
ディスコルディアさんは凄まじい速度で怪物の周囲を走り回り、跳び回っていた。怪物の振り下ろす腕を潜り抜け、噛みつきは横に転がって躱す。時には怪物の身体すら足場にして逃げ回るほどで、なるほど、この姿を見れば多くの上司が即戦力として彼女を征伐屋に引き入れたがるだろう。彼女を推薦したアルゴスさんの観察眼は流石と言うべきか。
惜しむらくは彼女は刃物の扱いに不慣れだった。
怪物の懐の中に飛び込む度胸と、一撃で致命傷にもなり得る暴威を冷静に躱し続ける圧倒的な速度。それらに恵まれていながら、彼女の振るう刃は幾ら怪物の身体に突き立てても、戦況を買える程の傷を与えられない。刃渡りの短い得物だからという理由だけではない。どう見ても、彼女は短剣を上手く使い熟せていなかった。
加勢に向かいたかった。彼女は今でこそ圧倒的な速度で怪物を翻弄しているが、あれだけ派手に動き回っていれば体力もじきに尽きる。聞いた話では彼女は持久力に関しても高い評価を得ていたはずだが、あの細い体に無尽蔵の体力が詰まってはいまい。
無論、ここで彼女の助太刀に入るような愚行は犯さない。
優先順位を違えてはならない。今この状況で最も優先して救われねばならないのは、意識不明になっている村人の少女だ。依頼対象であり、危険の最大の要因である”オンプ”を最優先で駆除すべきという考え方もできるが、それは最低限、善良な村娘を安全地帯に移した後に行うべきだ。
何はともあれ、この少女を窪地から引き上げる所からだ。
ここから離れるには、倒木を再び登らねばならない。倒木のあちら側とは異なり、手前には都合良く巨木の根が張ってはいない。浸食された大地から覗く岩の重なりを上手く伝って這い上がる必要があった。疲労の溜まった身体で、岩登りとは身に応える。
少女を両手で抱えてしまっては岩は登れず、すっかり背負うには背中の傷が痛む。結果、肩に担ぎ上げて何とか運ぶことに成功する。
片手では苔で滑る岩場で体重を支え辛いが、一歩一歩を慎重に踏めば問題は無い。
岩に手を掛け、足を掛けて身体を持ち上げる。二人分の重量は釣り合いを取るのが困難だったが、壁に凭れて登れば、落としはしない。
背後では戦闘音が一層苛烈さを極め、ついにはディスコルディアさんも避けきれない一撃を食らってしまったのか呻き声など聞こえてくる。
焦燥感に襲われ不意に掴んだ岩の表面はやけに滑り、危うく手放しそうになる。ぎりぎりで別の突起を掴んで落下を防ぐが、僅かでも気を抜けばいつ滑り落ちるかわかったものではない。
状況はオレを急かすが、気が急いても危険が増すばかりだ。もどかしいが慎重になるしかなかった。
惨めなものだった。
行動は新人にすら出遅れて、その新人に素直に感心などしてしまった。果てには彼女を囮にして、自分は逃げ出そうと必死なのだから、目も当てられない。そんな彼女に対し、先刻まで偉そうに新人研修を受けろと口を酸っぱくして注意していたのだから、愚かしいにも程がある。
彼女の決死の行動に助けられているオレは、昨年、全日程の研修を受講した経験した討伐士なのだ。
だから、せめて肩に担いだ村人だけは、オレの手で確実に村まで運ぼうと思った。
窪地を這いあがり、山の斜面と同じ高さまで登った頃には、オレの体力など殆ど残っていなかった。脚は震えて、右手は満足に拳も握れないまでに疲弊している。それでも、振り絞った体力で何とか倒木の上まで移動して、何とか窪地から脱出できた。
空は夕刻の薄暗さに浸かっていた。もう間もなく、ヒルデ山に夜闇が訪れる。
ここからでは、窪地の底がもう見通せなかった。真っ黒な影が二つ、忙しなく蠢く姿は判別できるが、詳細は視認不可だ。動き回れているのだから、命はあるのだろう。それだけが気休めにはなった。
「ディスコルディアさん、早く逃げてくださいっ」
オレの声は十分、彼女の耳に届いたはずだった。にも拘らず返答がないのは、最早彼女に口を開く余裕が無いからだ。
折角助け出した村娘を放ってでも、彼女の加勢に行くべきだろうか。オレの体力も既に残っていないが、”オンプ”相手ならば、彼女が逃げ出すまでの時間稼ぎ程度ならできるはずだ。
一方で、意識不明の村人を山中に放置するのも危うい。オレが躊躇して村娘に視線を戻した瞬間。
「先に、行ってください」
消え入りそうな声が、窪地の底から耳に届いた。
そこで何か、思考を巡らせていた様々な問題が莫迦らしく感じられた。
何故オレが助ける相手に優先順位を付けるなどと、傲慢無礼に討伐士を続けているのだろうか。
気付けば、腰の剣を引き抜いて倒木を滑り降りていた。
自ら動き出していながら着地も上手く決められないくらい、身体は疲労感に苛まれている。体重を支えられず、窪地に一度倒れ込んだ。
相も変わらず、莫迦な事をしている自覚がある。
だが、それがどうしたと思う。
村人だろうが、討伐士だろうが、怪物に襲われていれば助けに入る。それは討伐士である以前に、人として当然の行いのはずなのだ。あれこれ理由をつけて、どちらかを見捨てて良い言い訳にはならないはずだった。
近くに転がってしまった剣を再度掴み、立ち上がる。足は重く、剣を握る右手にも力は入らないが、怪物に背を向ける理由はない。窪地は決して広くなく、僅かでも足が動くなら十分に剣は届く。
駆け出して、十歩も進まない内に怪物が目前に迫る。奴の注意は未だ俊敏に動く彼女に惹き付けられたままなので、横合いから剣戟を食らわすのは難しくなかった。
柔らかな体毛に衝撃を奪われる感触があった。それを力任せに押し込んで、刃を厚い表皮に届かせる。
一息に刃を引き抜けば、肉と脂肪を裂く重く滑らかな感触が掌に伝わる。更には肉の奥で骨にも切っ先が届いたのか、硬い物を削る嫌な感触が剣柄を震わせた。最後に弾力のある筋のような物を断ち切ったのは、怪物の太い血管だったらしい。夥しい量の生臭く熱い液体が、オレの全身に噴き付けられた。
”オンプ”が一際大きく鳴いた。
振り向き様に太い前脚が襲い来る。が、全力で後方に跳べば、短い脚は空を切るのみだった。
代わりにオレは無様に転んだが、こちらから更に転がってやれば、勢いを利用して速やかに立ち上がれる。すると目前には無防備に前脚を振り上げた怪物が突っ立っていて、その首筋に先程と同様の力任せの一撃を叩き込めた。
剣を振り抜いた隙を狙って、怪物の腕が今度こそオレの身体を弾き飛ばす。
流石の”オンプ”も出血が激しく、体力に限界が近付いていたのだろう。直撃を受けたはずだが、オレの身体は精々が後方に二、三度転がる程度の衝撃しか喰らわなかった。勿論、それだけの衝撃を受ければ苦痛で立ち上がれなくなり、怪物の眼前に無防備な姿を晒すことにはなるが。
「——!」
そこでエリス・ディスコルディアが立ちふさがる。
折角オレが戦闘に介入したのだから、隙をついて逃げればよいものを、何故か彼女がオレを助けようとしている。
先程までと同様だ。短剣で少しずつ小さな傷を与えて、怪物の注意を惹き付けようとしているのだ。
だが、今の”オンプ”にはオレが直接手傷を負わせている。多少、鬱陶しくしたところで、オレへの敵意を背けるには至らない。
彼女の存在など半ば無視して、怪物はオレに蔽い被さる程間近まで寄って来た。
とんでもない獣臭さに鼻が曲がりそうになる。喉の奥を低い音で鳴らすのは、奴の勝利宣言だろうか。
爪が振り下ろされる。オレの腹部を引き裂く心算だ。
咄嗟に上体を起こして、同時に剣の切っ先を奴の喉元に突き入れる。硬い喉骨に詰まって殆ど刺さらないが、怯ませるには十分。反撃を予期していなかった怪物は、衝撃で前脚を浮かせて身体を仰け反らした。
但し、死力を振り絞っても、それが限界だった。更に切っ先を突き入れたり、剣を横に引いて頸動脈を掻っ切る力も残っていない。それどころか、”オンプ”が首をもたげるだけで、突き刺した剣の柄を手放してしまう程だった。
”オンプ”も足元がふらついていた。全身の傷から地面に水溜りを作る程の血液が滴り落ち、このままならば彼はきっと助からない。にも拘らず、オレに対して再び爪を振り上げるのは、せめて共に死ぬ仲間を作ろうとしているからか。
これには、オレも死を想起した。
しかし、既に暗闇へと変じた窪地にあって、ほんの一瞬だけ眩いばかりの閃光が煌めく。
続いて轟音を伴う紅い光が迸る。
瞬きの間にも満たない明滅に、暗闇の中で姿を浮かび上がらせたのは一人の少女の姿だ。
くすんだ金色の短髪と青い大きな瞳は、赤い閃光に照らされ奇妙な色の輝きを放っていた。
強烈な熱風が頬を撫でる。熱い血液が飛沫をあげ、オレの顔にまで届いた。
彼女エリス・ディスコルディアの所持する照武器の力だ。
”オンプ”の喉元に横合いから突き立てられた短剣は、激烈な爆発を起こし、その太い首の肉を抉った。
爆風に煽られて彼女の軽い身体は後方に跳ね、地面に転がった。
”オンプ”の首に刺さったオレの剣も、爆風で付近の地面に飛ばされた。
怪物の巨体が重い音を窪地に響かせ、地面に崩れ落ちる。自身の身体から流出した血溜まりに沈み、やけに水っぽい音がした。
呼吸の音すら聴こえない。”オンプ”は完全に行動を停止したが、この様子では生命活動も停止したらしい。
つまりは、駆除に成功したのだった。
またしても、彼女に助けられたことになる。
「どうだ、参ったか」
彼女のかすれ声での勝利宣言は、オレに対してだろうか、死んだ怪物に対してだろうか。
疲労で重く、そして震える身体を、震える腕で支えて起き上がる。怪物の流す大量の血液が、オレの身体を濡らしていた。陽の沈んだうす寒い山の奥地で、鉄臭い液体は異様に身体の熱を奪っていく。
暗い窪地では周囲の様子も碌に窺えないが、怪物の巨体は黒い影として辛うじて判別できる。怪物は身動ぎの一つもしない。臭い身体に触れてみても、呼吸による胸の上下は感じられない。
何度確認しても、やはり”オンプ”は死んでいた。
「討伐、完了……」
実感はない。
討伐に掛かる戦闘の大半は新人の彼女が引受け、最期に止めを刺したのも彼女なのだから。オレのした事など、危険に巻き込まれた村娘を多少遠ざけただけである。
しかし、情けないオレの自省は別にしても、やはり新人ながら中型の怪物を一頭打ち取った彼女の功績は素直に讃えるべきだろうと思う。
「大金星です、ディスコルディアさん」
彼女の居どころも不明なので中空に向けて呟いたが、返答はない。
ただ、暗闇の中で彼女が短剣を掲げる気配だけは、微かに感じ取れた。
* * *
近くに転がってしまった愛剣を拾い、ついでに彼女の手を離れた短剣も回収する。他にも落とし物は無かったかと辺りを確認してみるが、暗闇の中では判然としない。明日にでも再び訪れて、怪物の死骸の回収と共に捜索すると良いだろう。
そう考えて村への帰路を考えていると。
「肩を貸してくれませんか?」
地面に倒れ伏した彼女が、今にも消え入りそうな掠れ声でそう呟いた。
自力で上体も起こせないような状態で他人の肩に支えられ、一体何ができる心算でいるのか分かったものではない。こちらとしては無駄な時間を掛ける気も無いので、何やら小声で言い訳と不満の呟きを無視して彼女の身体を担ぎ上げる。
いくら貧相で彼女の体重が軽いとは言え、疲労困憊した今のオレでは持ち上げるのは中々にしんどい。
更に窪地から抜け出すには、村娘を引き上げたのと同様に岩を登り倒木を登らねばならない。今のオレにできるのか正直言って怪しいが、弱音を吐いても始まらないだろう。
握力も脚力も限界近い。それでも何とか維持で苔むした岩壁にしがみ付く。
先刻と異なり、辺りが全く暗くなったせいで掴むべき取っ掛りすら目視不可な点は予想外ではあった。
「自分で登ります」
自力で立ち上がれもしないどころか、抵抗すら出来ない身体で何を言っているのか理解できない。
「大人しく、してください」
元から大人しいものだが。
岩壁の高さはオレの身長の凡そ倍程度だ。仮に一人で登るのだとすれば、決して苦労する高度ではない。しかし、二人分の体重を支え、左腕も使えないとなれば、途轍もない疲労を味わう破目になる。
やっぱり、オレは無様だった。
怪物を駆除した訳でもないのに、身体は既に襤褸切れのようで、ただ村に帰る為だけに歯を食いしばり命懸けである。でも、その不恰好が実に凡骨らしいと思う。
本当、嫌になる。
返り血に塗れ、汗に塗れ、泥と苔の破片で汚れた状態で必死になって進む。オレの観てきた天才達には、何一つ見受けられなかった姿だ。どこまでも不体裁な行為だと思う。後輩の前で晒す姿ではない。
這い蹲って倒木の上に手を伸ばす。悪いが担いだ彼女を気遣う余裕もなく、乱暴に引き摺るように倒木にしがみ付く。
倒木上から伸びた新芽の間に、先に助け出した村人の少女が横たわっていた。暗闇で安否確認は曖昧だが、一応呼吸はしているので死んではいまい。
横にディスコルディアさんを並べる。
傍にオレも倒れる。もう、上体を支える体力も残っていなかった。
「センパイ、すみません」
「何がです」
「ご迷惑をおかけします」
「誰にです」
乾いた返り血が不愉快だった。同時に苔から染み出る水分が体を冷やして心地良い。山中に下った冷気も心地良さを増幅させた。
これで心情まで爽快であったなら、今回の遠征が悪く無かったと思えただろうか。何れにしても、身体以上に今は心が重かった。理由など、今更語ることでもない。
「私のコレは一日に二度使えます。一度目は特に代償もなく使えますが、二度目の使用で気力を使い切って体力も底を尽きます。今日は二回使ったので、もう暫く動けそうにありません」
そう言って彼女は照武器を掲げた。
アレのお蔭で”オンプ”の息の根は止まり、昼前には”岩窟公”に手傷すら負わせ、オレを含めた複数の人間の命が救われた。実に強力な得物だ。
「……そうですか」
喋るのも億劫だった。
この調子で一体どうやって村まで帰還すれば良いのだろうか。オレやディスコルディアさんは兎も角、一般人の村娘は早急に治療すべきだ。体力が回復する明朝まで待ち続けるわけにもいかない。比較的安全と言われるヒルデ山の山中でも、小型の怪物は存在する。暢気に睡眠も摂れないのだから。
早急に体力を回復せねばならない。
無論、地面に転がって焦燥感に追われる現状では回復の見込みがないが。
「……私の単独行動は、勝手でしたか」
ポツリと彼女は呟いた。一人で連係も取らずに走り出し、結果として村人を助け出した行動についてだろう。
「その子は助けましたが、私は動けなくなりました。迷惑でしたか」
「そうですね、迷惑でした」
間髪入れずに断言する。
そもそも彼女が不用意に村に突入しなければ、驚いた”オンプ”が村人を攫って逃げ出すこともなかったかも知れない。村は確かに”オンプ”に襲われ危機的状況に置かれていたが、それでも村の衛士の実力で奴の暴挙を一時的に止めることはできた。オレが村の広場に到着するまでの時間程度ならば十分だ。
そしてオレ一人では討伐の困難な中型の怪物でも、彼女と共同であればその場で討伐できたはずだ。彼女の手を借りずとも、少なくともオレなら村の衛士と協力し、村人を攫われずに”オンプ”を村から追い出せただろう。
そして一度仕切り直せたならば、オレは安全で確実に”オンプ”を駆除できる。新人研修で培った技術と知識が、オレ程度の討伐士を、その次元に引き上げるのだ。
「あなたが余計なことをしなければ、この娘は怪我をしませんでしたよ」
「そうですか」
「ワタシも随分、振り回されました」
「……そうですか」
彼女が会話を断ち切ったのは、またしても不機嫌が原因だろうか。それとも言葉を探しているからだろうか。表情が見えないせいで、彼女の考えは分からない。それでも彼女には、全てを思うままに伝えるべきだと思うのだ。
「ディスコルディアさん、やはり貴女は討伐士に向いていませんよ」
「……」
但し、それは飽く迄も彼女の感情面に基づく判断だ。身体的な制約や才能の有無に関するものではない。彼女が意識して他者と協調すれば、効率的な行動選択が可能になり、十分に才能有る討伐士として認められるようになる余地はある。
「私の適性が低いなら、あなたの適性も低いと思います」
絞り出すように告げた彼女の心情は、如何なるものだろうか。
一度は自ら認めた言葉を改めて他人に指摘された感情とは、如何なるものだろうか。
少なくともオレは、彼女と異なり、本当に自らが討伐士への適性が最低基準であると知っていた。
「知ってるんですよ、そんなこと」
知っているから、無様に這い蹲ってまで、必死に生き永らえようとしているのだ。
天才達が容易に熟してしまう様々が、オレ達凡人には限りなく高い壁となる。ただ世界を生き抜くだけでも困難で、みっともなく不恰好に呼吸するのだ。血の中に倒れ伏して、無様に生きるのだ。
倒木の枯れ枝を掴んで立ち上がる。未だ回復しない体力では足元が覚束無いままだが、意識があるだけで必要なものは揃っていた。
「な、何するんですか」
先ずは村娘を右肩に担ぐ。本来は大した重量ではないはずなのに、押し潰されそうな程の重量に感じる。
全身に力を込め直せば、これまでの無茶が祟ったのか、背中に熱いものが流れるのを感じる。背中の傷が開いたらしい。
次いで左腕でエリス・ディスコルディアの身体を持ち上げる。村娘よりは軽いが、やはり感じる重量は身体を押し潰しそうだ。
二人分の重量を担ぐ上体も、三人分の身体を前へ運ぶ脚も、震えて、重くて嫌になる。こんな状態で夜の山を歩いて村に帰れるだろうか。オレ自身が不安になる。
だが、いつまでも停滞する訳にはいかなかった。
オレはずっとそうしてきた。きっとこれからも、そうするだろう。
これ以上、彼女に差を付けられてはならないから。