七話『山に入るのですから』
目が覚めたのは、背中に強烈な痛みが走ったからだ。殆ど悲鳴を上げるようにして飛び起きた。その動きで背中の皮が突っ張って、更に苦痛で呻く破目になった。
「センパイ、出発ですよ、起きてください」
掠れ声に呼ばれて顔を上げると、くすんだ金髪の少女が直ぐ間近で見下ろしていた。彼女がオレの肩を揺すぶった事で、背中が痛んだのだろう。
どうやら椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。長椅子ではないので横にもなれず、背凭れもないので体を預ける物もない。妙な姿勢で眠ってしまったからか、首の筋が微かに痛い気もするが、背中の痛みと比べると大したものではなかった。
一応、彼女はオレの傷を知っているはずなので多少は気遣いを見せて欲しいものだが、悪いのは居眠りしてしまったオレなので苦言は呑み込む。
羊舎の外に視線を向ければ、そこには既に羊車が出発可能な状態で待機しており、羊車引きの男は御者台から早く乗れと鋭い表情を向けていた。また、壁の方向からは甲高いラッパの音色が響いており、開門時間が間近に迫っているのだと分かる。
「大丈夫ですか」
「すみません、少し寝不足気味でして」
立ち上がり、自身の頬を両手で張って喝を入れる。寝起きの力加減も儘ならない状態で思い切り張った為、意外と大きな音がして、覚醒も促される。
新人の義務である研修すら放棄するような協調性の皆無な後輩だ。彼女に体の心配などされては、討伐士として致命的だと思った。
幸いにも足下に無造作に置いていた鞄が盗られるという被害もなく、速やかに羊車に乗り込む事ができた。もしもオレが事前にこの便に乗る旨を伝えていなければ、或いは彼女に起こされなければ、オレを置いて羊車が出発していた可能性もある。そう考えると、少しだけ彼女に恩を感じた。
乾いた鐘の音が車内まで微かに届き、羊車の揺れから発車した事が分かる。牛車よりも速い乗り物であるから、揺れは比較的大きく、決して乗り心地は良くない。
羊は牛と同等の体躯を有する巨大な動物だ。但し、牛とは異なり草食の動物であり、牛のような力強さはない。また、実は巨体を構成する大半の要素が膨れ上がった体毛で、実際の姿は貧相と言う程ではないが細く頼りない。
代わりに足が速い。怪物と闘うのではなく、逃走する道を選んだからだ。長距離巡行ですら牛の全力疾走を超える速度で走破するという。流石に”岩窟公”から足だけで逃げ切る速さはないと言うが、特に足の速い個体は一時的だが対等の速度で走った記録はあるらしい。
だが、草食動物であるが故に怪物に襲われ易い。早々、超小型の怪物に襲撃されはしないが、平原で最も被害件数が多いのは、馬、牛、羊の三種の車の中では間違いなく羊である。
その危険性と秤に掛けて尚、羊車の速度は魅力の一つで利用者は常に存在する。
勿論、常用するには危険性が高過ぎるが、今回のオレ達のような事情があれば羊車は利用され易い。
それでも、今回の便にはオレ達二人以外の乗客の姿はなかったが。
「センパイ的に、怪物に襲われる可能性はあると思いますか」
正面の座席に腰掛けた彼女は、何やら小さな麻袋を手の中で弄んでいる。彼女に限って怪物に襲われる不安に苛まれるなど有り得ないので、単純に暇を持て余しているのだろう。
「正直わかりません。一日に何度も別の車で襲われるなんて、勘弁してほしいとは思いますが」
「っていうか、ヒルデ山まではどれくらいで到着するんですか」
「良い機会なので、きちんと説明しておきましょうか」
ヒルデ山はペクトゥス山脈に連なる山の一つだ。フロンス平原の南東の終着点から始まる連峰の三つ目の山で、スードル河の本流を遡れば、クレタ町から程近い。
ペクトゥス山脈の入り口となる二つの山にも正式な名称があったはずだが憶えていない。兎に角、その二つの山の間を通過すれば、その先の山がヒルデ山なのである。
経路としては、クレタ町の南門から出て、スードル河の支流に沿って河の本流に合流し、更に本流を遡ればペクトゥス山脈の入り口に辿り着く。二つの山の間を流れるスードル河の傍は通行不可能なので、西側の山の中腹を横断して、山間を抜ける。すると間もなく、ヒルデ山の麓である。
牛車ならば多少の時間は要するが、羊車ならば数刻程度で到着する予定だ。
「つまり、そんな短い運行の間に襲われたら、とても運が悪いということですね」
「一概には言えませんよ。スードル河には陸に上がって狩りをする怪物が生息していますから」
ペクトゥス山脈の入り口付近の山には、余り強力な怪物は生息していないので、山道に入りさえすれば危険は殆ど遠ざかったと言えるが。
無論、決して安心はできない。
「ヒルデ山の向こうには鉱山があります。この便の終着点です。鉱山の向こうには、幾つかの集落が散在していますが、鉱山から山二つ越えた先に人は住んでいません」
「……へぇ」
山脈の東にはスードル河が流れ、河沿いの山々は河の浸食により切り立った崖と化しており、崖には大型の怪物が巣食っている。山脈の南側は深い深い森林が広がる。一説によると、森には未だ見ぬ民族が点在するらしいが、誰も真偽を確かめた記録はない。
兎角、現状の『北西都』では、鉱山までの開発が限界だった。そして、人の手の入らない領域では怪物達の群雄割拠が継続されていて、時折、鉱山の向こうから怪物が流れ出てくるのである。
今回の依頼も、そんな流れ者のうち一頭の駆除が求められていた。
「山脈の向こうには海が広がっていると聞いた事があるんですけど」
「少し間違った情報ですね。正確には、山脈の向こうには密林があって、その向こうに海が広がっています。一応、鉱山の奥に高山があるのですが、その山の頂上付近からなら遠方に海が確認できます」
ちなみに戦闘訓練の一環で鉱山を登るので、その際、密林と海を肉眼で目視できる。
しかし内陸の『北西都』出身のオレは海を遥か遠方に眺めるだけで興奮したものだが、彼女は海に大した魅力を感じていないらしい。彼女も山間の民族出身のはずだが、『西都』に近い南西の村から来ているので、もしかすると『西都』の向こう側にも行った経験があるのかも知れない。
「っていうか、センパイもよく飽きずに私に講習なんて施そうとしますよね」
「この機会にでも説明しないと、ディスコルディアさんは人の話を聞かないでしょう」
「やっぱり、あなたはお節介焼きですね」
「何度も繰り返しますが、研修は必要ですよ」
決して要らぬ知識を押し付けようとしている訳ではない。
だが、話を聞かないなら、せめて見て覚える程度の事はして欲しいと思う。そうでなければ、本当に通用しなくなる。
彼女にとっては、それがもう、お節介なのだろうが。
「ところでディスコルディアさん、買い食いはできましたか」
「え、あ、はい」
そう歯切れ悪く答えて、彼女は目を細めた。それは彼女が機嫌を損ねたからなのか、言葉の選択を悩んでいるからなのかは分からない。しかし、落ち着き無く手にした小袋を外套の懐にしまう素振りなどから、やはり機嫌を損ねたのだろう。
超小型の怪物一匹の駆除金額など僅かなものでしかないため、碌な食い物が買えなかった姿が容易に想像つく。
目的の村に到着したら、彼女にも少し携行食を分けてあげようと思った。未だ田舎から出て来たばかりの彼女は金銭的に厳しい生活を送っているはずで、寮の食堂が使えなければ食事にも困るはずだ。
『北西都』に連れ帰るまでは、面倒を見るのもオレの役目なのだろうから。
彼女との会話は途切れてしまって、そこから数刻の間、車体の軋みの音だけが車内に響く。
平原を抜けて山道に入ると、路上の状態は更に悪くなる。だが、山脈入り口の山は傾斜も緩やかな小高い山であり、その中腹には木々を切り開いて作った山道があるので、道の構造自体に危険はない。結局、危険なのは怪物の存在ばかりだ。
上下左右への揺れの激しい羊車に身を任せていれば、再び瞼が重くなる。オレは自覚している以上に疲労が溜まっているらしかった。牛車が怪物に襲われる危うさに加えて、妙な新人の面倒まで見なければならないのだから仕方が無いのかも知れない。
無論、これ以上、件の後輩に隙を見せたくもないので今度こそは眠気を抑え込む。
時折、車輪が石でも踏み付けたのか車体が大きく跳ねあがり、その振動で腰を座席に打ち付けてしまう。油断していると衝撃と痛みはそれなりに強烈で、眠気を遠ざけるのは困難ではなかった。
正面に腰掛けた彼女も同様の拍子に体が跳ねては座席に体をぶつけ、その度に打撲傷が痛むのか表情を歪めている。残念ながら、オレには対処の仕様が無いので、到着まで我慢してもらう他無かった。
目的地であるヒルデ山の麓の中継所に到着したのは、数刻後のことだ。道中、特に怪物に追われたり襲われたりといった問題も発生せず、円滑に物事は進んだ。
中継所は山中に小屋と厩舎が建設されただけの簡素なものだ。ヒルデ山周辺の村に用事がある者や、村人が町に出向く為に車に乗降のみが目的とされている。風雨を凌ぐ以外の利用はできない程の粗末さであり、食糧などの備蓄も用意されていない。
また、外柵や衛士もなく、運が悪ければ中継所内に怪物が入り込んでいる事もあるという。
今回は中継所に怪物の気配は無く、オレ達を降ろした羊車は速やかに発車して鉱山に向かって行った。ヒルデ山の南側の斜面は大昔の地滑りで大きく削れていて、定期便は地滑りのあった箇所を迂回してヒルデ山の南東に進行する。ヒルデ山の中心線は山頂付近の傾斜が急過ぎるので縦断できず、北側の斜面はヒルデ山の奥で崖に行き着き、通過できない。よって、遠回りでも迂回路を通るしかないのだ。
とは言え、ヒルデ山で下車した我々には関係無く、羊車が去ると早速行動を開始した。
濃厚な緑に覆われた山中だ。呼吸一つでも鼻孔を強烈な青臭さが刺激し、噎せ返りそうになる。それでいて、どこか心地良い。
「此処からだと樹の陰に隠れて見えませんが、山の中腹辺りに村があります」
ヒルデ山には巨木が多い。樹齢は推定百年を超える古木ばかりで、太さ、高さ共に凄まじい。そのような巨木が狭い間隔で屹立していて、『北西都』近郊の細い若木を見て育ったオレは、何度見ても気圧されそうになる。
更には巨木の表皮や地面、突き出た巨岩の表面を覆う濃緑の苔類や羊歯類だ。巨木や茂みよりも、僅かな隙間を所狭しと埋め尽くすそれらの方が、辺りに濃密な緑の気配を撒き散らしているようだった。
しかし隣に視線を遣ってみれば、田舎の山間出身の少女には感慨を抱く対象ではないらしい。眉をひそめて歩き辛そうに地面の苔を踏みしめている。
「っていうか、ずっとヒルデ山の村と呼んでますけど、何ていう名前の村なんですか」
「さあ。ワタシはヒルデ山の村としか聞いた事がないですから」
ヒルデ山に村は一つしかないから、それで十分に判別がつく。思えば依頼書や契約書類にも、「ヒルデ山に存する村落」と表記されていたので、正式な名称が決定していない可能性もある。
「村までは歩いて向かいます」
ヒルデ山は『北西都』周辺の土地では最も安全な山の一つだ。理由は明確に判明していないが、何故かこの山には小型の怪物しか生息しておらず、怪物の被害が極めて少ない。中継所に外柵が設置されていないのも根本的に怪物の生息数が少ないのが理由で、仮に小屋の中に怪物が侵入していたとしても、それは大抵の場合が一般人にも対処可能な程度の小型怪物ばかりである。
しかし、南東の鉱山を超えた先には前人未踏の密林が広がり、北には怪物の巣窟スードル河が流れている。立地柄、何らかの手違いで怪物がヒルデ山に迷い込む事例も発生する。今回も密林からの流れ者がヒルデ山で猛威を振るい、村人が被害に耐え兼ね征伐屋に駆除を依頼したのだ。
現在、ヒルデ山には少なくとも一頭の中型怪物が流入しており、そいつは何時、何処から襲って来るか知れない。普段よりも現在のヒルデ山は危険に満ちた状態だ。村に辿り着く前に怪物の方から襲撃して来る可能性もある以上、油断してはならない。無論、通常時でも小型怪物は生息しているのだから、気を抜いて良いはずもないのだが。
「村までの道とか、無いんですか」
地表に露出し、苔むした木の根を踏み越えて彼女がぼやく。水気を多く含んだ苔類は想像以上に滑る。滑落は登山者の天敵だった。
「今の時期は羊歯が地面を覆い隠すので分かり辛いですが、本来なら敷石で順路を示してあります」
他の季節ならば、落葉で地面が覆われ、積雪で地面が覆われる為、敷石が地表に露わになるのはほんの短い期間だけなのが実情だったりする。
しかし、道が舗装されていなくとも、ヒルデ山は決して難しい山ではない。足元に気を付けてさえいれば、比較的容易に中腹までは登って行ける。仮に山中で迷っても、山頂付近まで登っていけば巨木は無くなり、麓の中継所を目視可能だ。
細かく方角を気にしながら進めば、そもそも迷う程の山でもない。
「センパイ、知ってますか。この地面の苔、食べれるんですよ」
「……美味しいんですか」
「いえ、全く。でも水分が多いので非常時には重宝します」
「村で学んだのですか」
「ええ。研修では習いませんでしたか」
どうやら、彼女は自身の有する山の知識で、新人研修に対抗しようとしているらしい。悔しい事に、山に関して言えば彼女の知識には勝てそうになかった。
だが、彼女の欠点はもっと根本的な常識力や協調性の欠如にあるので、山の知識をひけらかされても研修を免除する口実にはなり得ない。
「……あの、センパイ」
「はい?」
彼女から話し掛けておいて、何故か不機嫌そうに眉をひそめる。全く以て意味が分からないが、人がこいう態度を取る時は、自分では言い辛いから相手に察して欲しい時だ。オレと彼女の未だ浅く短い関係性で、内心の読み取りまで求めて欲しくはないのだが。
「なんです、荷物をお持ちしましょうか」
「いえ、結構です」
そう言って、彼女は山の上に顔を向けて進んで行ってしまう。彼女から話し掛けた事実を忘れてしまったのだろうか。呆れてものも言えない。
彼女は先行して登っていく。流石は山間民族の出というべきか、その足取りは迷いなく、そして軽やかだ。苔むした岩場の歩行にオレは訓練中、特に難儀したものだったが、彼女は平地を歩く時と大差ない調子で歩を進める。
一方でオレは、今でも全く足を滑らせずに軽快に歩けるとは言えず、少しずつ彼女に差を開けられていく。時折、気張って背中に追い付かねば、本当に置いて行かれていた可能性すらあった。
一度も後ろを振り向かず、速度を合わせようなどの気遣いが欠片も見られないのは、やはり彼女の問題点だろう。但し、彼女に速度を合わせてもらうなど非常に癪に障るので、今回に関しては有り難いくらいだった。
先行する彼女は相も変わらず軽い足取りで山を登り、追随するオレの呼吸が上がってきた頃、巨木の群れの奥に人工物が見え隠れするようになった。もう直ぐ先に、目的の村が近付いているのだ。
空を見上げれば、木々の間から見える陽は、中天から傾き半ば沈みかけていた。本来予定していた到着時刻は大幅に遅れているが、依頼主に指定された時間には何とか間に合いそうだ。
そう思って再び気張って踏み込む足に力を入れた所で、前方を進む彼女の足が止まっている事に気付く。
不思議に思いながらも近付けば、理由はすぐにわかった。
オレ達の進行方向の地面に、正確には地面を覆った苔に、巨大な足跡が残っていた。人の足跡ではない。
人の足を二足揃えたくらいに大きい。体重で肉球の形状が苔に残りつつ、一歩一歩が鋭い爪で苔を深く抉りながらの独特な歩行で、ある種奇妙な形状の傷跡である。
怪物だ。小振りの中型から、比較的巨大な小型怪物程度の足跡と思われる。依頼された駆除対象の怪物の足跡とは断言できないが、可能性は高い。この山に中型程度の怪物は、件の獲物しか居ないはずだからだ。
足跡を目で辿れば、オレ達の右後方から左前方に向かっているらしい。進んで行った先は凡そ村の側面辺りだろうか。その後の動きは此処からでは分からないが、仮に村人が怪物の姿を村から発見したとすれば、かなりの恐怖を味わった事だろう。
「苔が、また水分を含んで膨らもうとしています」
彼女はそう呟いた。謂われてみれば、確かに苔は毛細管現象を利用して、その柔らかな襞の間に水分を蓄え、ほんの微かにだが体積を増やしている。一晩もすれば、爪で抉られた部分を除き、足跡は殆ど消えてしまいそうだ。
「かなり新しい足跡ですね」
発見した足跡の前後の足跡も確認してから、彼女は徐に頷いた。
「一刻も経ってないかも知れません」
嫌な予感がする。怪物が態々人里の方向に向かうなど、考えられる理由は一つだけだ。
「ただ、おかしいです。ここに血がついています」
彼女が指示した先の地面には、確かに赤い液体が付着している。足跡を繋いだ線上に落ちているから、この足跡の主が残していったもので間違いない。
「普通に考えると、狩った獲物の生血でしょうが、既に獲物を捕まえたならば、もっと安全な巣穴などに持ち帰って食べるはず、という事ですか。なぜ村に向かうのか理解できない」
「……負傷した村人が逃げ帰り、その後を追って行った?」
「わかりませんが、急ぎましょう」
彼女も人の生死に関わる問題ともなると、オレの指示でも反抗しないらしい。
怪物は村の北面に向かっているが、オレ達は村の西側にある正面入り口に向かって進む。本当に怪物が村を襲撃したなら、今現在もそいつは村の中、もしくは外柵の周辺にいる可能性が高い。下手に背後から追い込めば、更に村の中に食い込んでしまう恐れがある。村内の状況が知れない以上、不用意な策を巡らせることはできない。
村との距離が更に縮まると、何か違和感が襲ってきた。即座には判断できなかったが、一度足を止めると、自分の足音が消えることで理解する。
村が騒がしいのだ。
怒号や悲鳴のような声が聴こえる。金物を叩き合わせたような音も混じっている。
緊急事態なのは疑いようがなかった。
彼女も殆ど同時に聞き分けたらしい。僅かな躊躇も無く、振り返りもせず走り出す。
一拍遅れたが、オレも村に向けて駆け出す。
緩やかな斜面に滑り易い苔の生えた地面と悪条件が重なり、全力で走れないのがもどかしい。前方を走る彼女は恐らく全速力に近い速さで斜面を駆け上っていくので、少しずつ差が開く。村までの距離が程近いので姿を見失う前には村に到着したが、やはり事前の情報通りに彼女の身体能力は新人離れしているのだと改めて思う。
駆け寄った村の外柵は、他の町や村々と比較しても非常に貧相で頼りない。そもそも村を襲う怪物自体が少ないから、外柵を強靭にする文化が無いのだ。
柵は木製で網目が荒く、高さも人の胸程度だが、荒い柵の隙間や上部には有刺鉄線が通されており、隙間を潜ったり、上を飛び越えるのは難しそうだ。小型の怪物相手には十分な壁の役割を果たすのだろう。
しかし、中型の怪物ならば飛び越えるのも不可能ではなく、鋭い爪があれば柵自体の破壊さえ可能に思える。もしも中型の怪物に襲撃されれば、外柵では防ぎようがない。
とは言え、オレやディスコルディアさんには、潜ったり飛び越えたりできる代物ではない。簡素だが設置されている村門を通過するしかない。
本来ならば村門上部の櫓には衛士が常駐しており、来訪者や帰還した村人を内側から招き入れる。だが村内で騒ぎが発生している現在、村の数少ない衛士は出払っていて内側から開門する係の者が居らず、このままでは入村できない。
「向こうに回れば、怪物が侵入した穴が開いているかも……」
と、先行する彼女に声を掛けたのだが、彼女は全く速度を落とさず村門に飛び掛かる。そして側面を蹴って上に跳ぶ。更に二歩、三歩と垂直の壁を足場に上に駆ける。すると彼女の伸ばした右手は辛うじて門の上辺に届き、彼女はそのままよじ登って村の内側に身を滑り込ませてしまった。
旅装で荷物も背負ったままなのに、中々どうして身軽なものだ。
オレも真似して門を超えられるだろうか、と考えて、すぐさま否定する。失敗して無駄な時間を浪費するくらいならば、確実な手段を選択した方が結果的に早く進める。
小さな村だ。正面から横に回るのも、決して時間は掛からない。
絶え間なく耳に届く悲鳴に逸る気持ちを抑えて、外柵沿いに外周を走る。村に近辺は地面を均しており、ある程度は整備も行っているのか苔や羊歯も碌に生えていない。傾斜を駆け上るよりも余程楽で速い。
外柵の間近では内外問わず樹木が伐採されていた。樹上に登り、柵を飛び越えられない為だろう。
しかし、村内には一定間隔で植樹がなされ、その隙間を埋めるように倉庫や民家が建設されている。外部から人の姿を観察させない工夫だ。人の姿を目撃してしまえば、空腹の怪物が襲う可能性があるからだ。
その工夫のせいで、今はオレが中の様子を把握できない。
村内に怪物が侵入している事は殆ど確定しているので、せめて被害が最小で収まることを祈るばかりだ。あとは、先行した少女が無茶を仕出かさないと良いが。
破壊された外柵の穴を発見するのは容易かった。
有刺鉄線は切り裂かれ、木製の柵は地面に突き刺した杭ごと押し倒されて崩れている。剥き出しの土に残された怪物の足跡は真っ直ぐに村の中心に向かっていて、争った形跡なども見当たらないので、抵抗する間もなく襲撃されたのだろう。
途中を遮るはずの倉庫の衝立は破壊されている。特に守備の手薄な場所から侵入されたらしい。小型の怪物とは異なり、中型の怪物ともなれば知能の高さも脅威になる。数日かけて観察された上で狙われていた可能性も否定できない。不幸だっただけの可能性もある。
何れにしても、人里に侵入してしまった怪物への対処は一つだけだ。撃退または駆除、結果としては武力行使だ。
腰に差した剣を引き抜き、足跡を追う。足跡と重なるように点々と続く赤い液体が気にかかるが、立ち止まって思考する暇はない。
木々と民家の隙間を抜けて村内に入る。狭い村だ。村中央の小さな商家と村長の自宅そして長屋を囲うように民家や倉庫は建設されている為、見通しも良い。
村人が一点に集合して騒々しく、怪物が向かったであろう方向は一目でわかった。村民の数は百人を少し超える程度だが、その大半が集まっている。長屋の入り口付近だ。
オレが剥き身の刀剣を提げて駆け寄る姿は注目を集め、一人の男が此方を指差すと、他の村人も次々に視線を送ってくる。
「あんた、討伐士かっ」
壮年の男性に問われ、首肯する。
「少女が一人、来ませんでしたか」
「依頼対象の怪物を追って向こうに走って行ったんだ」
「依頼主様はいらっしゃいますか」
「俺だ」
今すぐ後を追いたい所だが、一先ず村人に危険は無さそうなので立ち止まって剣を収める。
「村人が一人攫われたんだ、あんたも早く助けに行ってくれ」
その村人が、村の外で怪物に襲われた血痕の主だろうか。辿って来た限りでは致死量には達していないだろうが、早急に救助せねば命に関わるだろう。
「すぐに用意します。その間に、この書類に署名を頂けますか」
契約書の写しと、履行証明書だ。これに署名を貰う事で契約は成立し、討伐士は怪物討伐の義務を負う。そして履行証明書に署名される事で、後々になって依頼主が契約不履行を訴えた時に対抗する武器となる。
言ってしまえば、この書類に署名されていない現在、契約上は未だオレに村人を救い、怪物を駆除する責任はない。無論、一人の人間として攫われた村人は助けたいと思うし、愚かな少女を無事に連れ帰りたいとも思う。
だが、感情面とは別に、オレは命と生活を懸けて討伐士をしているのも事実だ。
「こんな時に何を言っているんだっ」
にも拘らず、二枚の書類は男性の手で払われ、オレの手を離れて地面に落ちる。
こんな経験も一度や二度ではないので、特に感慨も湧かないのだが、面倒な目になったと内心で嘆息する。この手の依頼主は理詰めで説得しても剥きになって否定するばかりで、余計な手間を取るだけに終わる。今の所は素直に引き下がっておく。
「あの娘、いったい何なの。剣を持っていたように思うけど」
傍に居た初老の女性が不安気に訊ねる。彼女の心配か、怪物に襲われた恐怖の表れかはわからない。
「ワタシの同僚です。個人的に今回の件の助力を頼み、同行させました」
すると女性は、あんな小さな娘が、とか、早く行ってあげて、と随分と早口に捲し立てた。初対面で会話すら交わしていないだろうに、心優しい女性だな、と素直に思う。
村人の集団の中には数人、酷く取り乱している者がいる。攫われた村人の親族や友人だろう。
村人の会話を傍で聞く限り、どうやら攫われたのは小さな女の子らしい。取り乱しているのは母親や親せき達だ。父親に至っては自ら追い駆けようとして取り押さえられている程である。
「どうして早く行かない」
依頼主様は酷く頭に血が上った様子で、オレの胸倉など掴んでくる。なるほど、優しい人間ばかりの集まった優しい村だ。
「彼女等を追う準備をしています。攫われた少女は傷を負っているでしょうから止血剤と包帯を。体力の低下も考えられるので栄養剤と綺麗な水を腰袋に詰めています。それと山に入るのですから、携行食と火種ですね。他の荷物は置いて行きますから、村で保管していただけますか」
「そんなもの、助けた後でも――」
と、論理的に話す事の非合理性もはっきりしたので、彼の手を振り払って準備を進める。
此方としても、契約書への署名を見届けずに依頼を先に履行してやろうと言うのだから、随分と良心的だと思う。無論、火に油は注がない。
村人たちに挙って急かされながらも用意を終え、さて追い駆けようという頃、村の農道の端に古びた革袋が落ちているのを見つけた。見覚えのある傷だらけの鞄は、つい先刻まで直ぐ目の前を歩いていたものだ。
拾い上げて先程の女性に手渡し、オレの鞄と共に保管するよう頼んでおく。
「では、戻って来る前に契約書への署名をよろしくお願いします」
それだけ伝えて返事も待たずに走り出す。
村内の地面にも怪物の足跡は明瞭に残されており、進行方向には迷わない。
人を攫った怪物と人間の少女が、どの程度の速度で走り去ったのかは知らないが、追い付くのは決して易しくないだろう。
怪物の巨大な足跡は、ヒルデ山の頂上に向かって真っすぐに伸びていた。