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Calm Eclipse  作者: 天谷吉希
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五話『大人しくしてください』

 * * *


 草原の暴君”岩窟公テスタロト”。フロンス平原北部の岩山に生息する怪物で、岩山の岩盤に穴を掘って巣を作る事から岩窟公と呼ばれる。本来は岩山や、その周辺に生息する種であり、平原に出現する個体は獲物を求めて狩りに訪れているに過ぎない。

 つまりフロンス平原を闊歩する”岩窟公テスタロト”の絶対数は非常に少なく、草原の移動中に目を付けられるのは非常に運が悪いと言われている。この牛車はつい昨日にも”岩窟公テスタロト”につけ狙われたばかりであり、一度の航行中に二度も追跡されるとなると、運が悪いどころの騒ぎではない。

 だが、現在牛車の背後の草原に紛れて這い寄る”岩窟公テスタロト”と、昨日の個体が同一だとすれば、運が悪いなどと表現せずに済む。何てことはない。昨日、撒いたと思っていた”岩窟公テスタロト”は、依然として執拗にこの牛車をつけ狙っていたのだ。

 フロンス平原北部の岩山に生息する”岩窟公テスタロト”は、キヌ村より南には下って来ないと言うのが定説ではあったが、その件については運が悪かったのだろう。実際にこの眼で奴が出現した瞬間を目撃しているのだから、言い訳のしようがない。

「さて、どうしましょうかね」

 予想外な光景に思考が停止してしまっていたが、暢気に構えていては襲われて喰われて終わるだけだ。

 早急に可能な限り、抵抗せねばならない。

 息を深く吐き出して、心を落ち着かせる。

 ”岩窟公テスタロト”は蜥蜴にも似た外見の怪物リタルナだ。無論、蜥蜴に類似しているのは、フロンス平原の背丈の高い草木から頭部を突き出せる程の巨躯についてではない。

 頭部から尾までの扁平の胴体を、四本の短い脚で運ぶ姿が蜥蜴を彷彿させるのである。

 岩山で暮らす”岩窟公テスタロト”は、擬態の為か全身に無数の突起物が生えており、その姿は遠目でみれば正に岩石そのものだ。また、岩盤に穴を掘って生活する習性上、目の上に生えた短い角や前後の脚に生えた爪は非常に硬い。爪に至っては鉄板すら切り裂いた事例が確認されている程だ。

 そんな全身が凶器で構成されているような怪物が、巨大な重量を武器に頭突きしたり、意外と俊敏な動きで引っ搔いてくるのだ。少なくとも、平凡以下の討伐士ソーサラーに過ぎないオレでは、正面から奴を打破する事はできない。

 では頭脳で罠に嵌められるかと言えば、それも困難だろう。

 ”岩窟公テスタロト”は警戒心が強く、頭が良く、そして執念深い。

 事前に入念な下準備をした上で罠を張るならば兎も角、現在の何ら用意の無い状態で奴を欺く方法は考え付かない。

 結論だけ先行して出すならば、オレでは対処不可能だった。

 現状、この牛車が襲撃されずに走行しているのは、一重に”岩窟公テスタロト”の異様な警戒心のお蔭だ。奴は昨日も牛車の様子を窺い続けていたにも拘わらず、未だに此方の様子を窺っているらしいのだ。

 他の怪物ならばオレと視線がかち合った時点で襲い掛かられても不思議ではなかった。

 この幸運が逃げない内に、出来る対策は僅かでも打っておきたい。

 仮に”岩窟公テスタロト”が此方に対して危険がないと気付いて襲ってきたとすれば、対応出来る戦力は極僅かだ。

 木っ端冒険者でしかないオレと、車の牽引が仕事のムトゥ。そして、つい数日前に討伐士になったばかりの少女、エリス・ディスコルディア。

 こんな特殊な状況でもなければ、対”岩窟公テスタロト”の場面においてオレが戦力に数えられる事はない。それくらい、奴は怪物として強力で、オレは討伐士として貧弱だった。

 ムトゥは現在の最大戦力と言って良いだろう。戦闘向きの動物でないとは言え、中型の怪物程の体躯を持つ生物だ。少なく見積もっても、オレでは全く歯が立たない程度には頑丈だ。”岩窟公テスタロト”には対抗出来ないだろうが、仮に対峙すればオレよりは長持ちするだろう。

 エリス・ディスコルディアについては未知数な部分が多い。オレの記憶では、彼女は今期の新人の中では一歩抜きん出た身体能力の持ち主だと評価されていたはずだ。先程の”パンラット”撃退の場面を思い返しても、オレよりも身軽な動きをしていたように思う。だが、どれだけ高く見積もってもムトゥにすら及ばないだろう。

 そして彼女の場合、一つ大きな問題を抱えている。

「センパイ、つかぬ事をお聞きしますが、テスタロトって何ですか。怪物の事ですよね」

 これには流石のオレも呆れ果てた。思わず目を丸くして彼女の瞳を覗き込むと、彼女はあからさまに苛立たし気に瞳を細めた。

「まだ研修も終わってないんですから、知らなくても仕方なくないですか」

「いや、研修終えてないなら街を出るなっていう話なんですが」

 返す言葉も無いからか、彼女は目を逸らした。

「それと、”岩窟公テスタロト”は有名な怪物の一種で、知識として持っていて当然ですよ」

「私はこの辺りの生まれじゃないですから」

 彼女は不機嫌を隠しもせずに、今度は一人で御者台の方に歩いて行った。もうオレと会話を続ける気はないらしい。

 彼女エリス・ディスコルディアの欠点は、常識力の無さだ。同時に協調性の無さも挙げられる。

 僅かでも関わったオレの評価としては、彼女は決して頭の出来が悪い訳ではない。ただ、学ぶ気力が無いから常識に欠け、馴れ合う気がないから協調性に欠ける。丁寧に学び直せば、平均並みの新人程度には直ぐに追い付くだろう。

 だが、彼女自身にその心算が無く、また今はそんな時間もなかった。

 だから本来ならば、新人研修を終えなければ現場に出るべきではないのだ。

 今から作戦を話し合おうという状況で、不機嫌を理由に立ち去るなど、本当の意味で話にならない。

 余りに嘗められきった態度に多少腹は立つが、思い返すとオレが間違っていたのだろうと思い直す。そもそも、研修すら終えていない新人の手を借りようというのが間違っているのだ。実力が不足しているのだから使えるものは何でも使うべきではあるが、彼女に懇切丁寧に研修を施す時間は今はない。

 ムトゥが歩みから走りに移行した現在、牛車の速度は人の駆け足と全力疾走の中間程度に上がっていた。無論、速度で”岩窟公テスタロト”を振り払う事は出来ない。

 次々に流れていく草原の景色を眺めながら、思考を巡らせてみる。

 オレの”岩窟公テスタロト”に関する知識は大して多くない。一討伐士として平原の暴君の危険性や、ある程度の習性は頭に入れてあるが、換言すればその程度だ。体のどの部位の皮膚が脆弱で貫き易いとか、走る速度は最大でどの程度とか、そう言った詳細については分からない。

 征伐屋フォームに入団して一年経つが、その期間内に実際にオレが”岩窟公テスタロト”を討伐する為に情報を集めた事がないからだ。『北西都』を拠点に活動する以上、何れは”岩窟公テスタロト”の征伐遠征に参加する機会にも恵まれるだろうと思っていたが、先に向うから此方を襲って来るとは。

「さて……」

 無事に次の目的地クレタ町に到着可能だろうか。

 空を見上げてみて、中天に僅かに届かない位置にまで昇った陽を見付け、考えてみる。

 辺りには緑一色の草原が広がり、遠方には微かに山々が確認できる。

「……あぁ、なるほど」

 先ずはアルカス氏に話を伺おうか。

 少しは光明が見えたかも知れない。

 屋根を歩いて御者台の上に向かえば、ムトゥが巨体を豪快に揺らして疾駆する姿が確認できる。彼には昨日も負担を掛け、命を救ってもらったばかりだと言うのに、再び彼の走りに頼るのだから申し訳ない。無事に生き残った暁には、上手い肉を腹一杯食して貰いたいものだ。

 貧乏なオレでは、用意してやれないが。

 御者台の右側の窓にはディスコルディアさんが張り付いて、中のアルカス氏と会話しているようだった。狭い御者台の窓は同様に小さいので、オレは反対側の左の窓から顔を覗かせる。

 屋根にぶら下がり、窓に高さを合わせるのだ。

「あと二刻ですね。それが分かれば十分です」

 御者台の窓から顔だけを中に入れると、ちょうどそんな会話が聴こえてきた。

 先に御者台に居た二人の会話が終わった所らしい。対面の窓から顔を覗かせる少女は、オレを認めると微かに口角を上げて、すぐさま屋根の上に這い上がって行った。

 理由は知らないが、彼女はどうやらオレに対抗心らしきものを抱いているらしい。

「あぁ、パーシアスさん。まずい事になりましたね」

 そう言って頭を掻くアルカス氏は、顔の所々に小さな傷を幾つか拵えており、先刻の”パンラット”の被害であると分かる。だが彼自身は特に気にした様子もなく、大した被害では無かったらしい。よく見れば、衣服も至る所に引っ掻き傷が付いているが、肌を傷付ける程ではないようだ。

「全くです。今回もムトゥが逃げ切ってくれれば良いのですが」

「あと二刻もあればクレタ町です。心配する必要はないでしょう」

 先に御車台に来た彼女も、クレタ町への到着時刻を訊ねに来ていたらしい。

 牛車の勝利条件はクレタ町に到着する事だ。必ずしも背後に迫る怪物を撃退しなくとも良いのだ。

 仮に襲い掛かられれば追い払う術も無い為、完全に奴の気分次第。運次第になってしまうが、此方から駆除しに出向く訳にもいかない。今はムトゥの走りに頼る以外に出来る事がない。

「では、頼みます」

 楽観的な物言いをするアルカス氏だったが、その実、緊張した面持ちでオレの呼び掛けに神妙に頷いた。

 御者台を後にして、再び屋根に上がる。

 今更な考えだが、フロンス平原を渡る為にこれだけ当然のように牛車の外に出ている乗客も居ないだろう。普通は乗客が外部に出ると臭いが広がって、草原の中に潜んでいる他の怪物を引き寄せてしまう。その為、牛車では移動中、窓すら閉め切って臭いが漏れないように気を使う。

 しかし、フロンス平原でも屈指の強力な怪物につけ狙われている現状、横取りしようとする怪物も現れないだろう。討伐士の研修でも平原では臭いと音に気を払うよう入念に教わるのだから、随分と新鮮な事をしている気分だった。

 オレの他、屋根の上には新人討伐士の彼女が居る。牛車の後部に腰掛けて背後を警戒しているらしい。

「センパイ的には二刻も逃げ切れると思いますか」

 背後を向いたままで声を掛けられる。

「半々と言ったところだと思っています」

「そうですか。それにしても、なぜ私達を襲うんですかね」

 短剣を弄びながら、そんな質問をされて面食らう。今日日珍しい問いだからだ。

「怪物が人を襲うのは空腹、若しくは縄張りの主張の為です。”岩窟公テスタロト”の場合、縄張りは岩山にありますので、食糧としてワタシ達を狙っているのでしょう」

 新人研修でも当然に教わる内容だ。

「いえ、そうでなく」

 彼女は短剣の切っ先で草原のあちらこちらを指示しながら、続ける。

「さっきまでのタズジ……こっちでは”パンラット”でしたか。アレを追い掛ければ良かったんじゃないですか。それなら、一々私達を観察しなくても、簡単に獲れるのに」

「あぁ……確かに」

「っていうか、テスタロトは昨日からこの牛車を狙っていたらしいですね。だったら、むしろ、さっきまで”パンラット”を追い掛けていた事がおかしいんですかね」

 言われてみれば妙な心地になってくる。彼女の言う内容一つ一つが、確かに理解出来るのだ。

 結局は、いくら頭の良いとされる”岩窟公テスタロト”でも、人間のように合理性・・・まで考えて行動はしていないが故の結果なのだろう。好奇心に突き動かされるままに牛車を追い、空腹という本能に従って”パンラット”を追い、その先で再び見付けた更に大きな獲物に狙いを変更する。

 だが、不合理という思考を通して考えると、何故か非常に収まりが悪くなる。

「私的には、テスタロトも何か深い理由があって行動している、という説を押したいですね」

「ディスコルディアさんは詩人を目指していらっしゃるのですか」

「テスタロトは背後から来るとは限りませんから、左右の警戒をお願いしますね、センパイ」

 そこで会話は打ち切られて、オレは素直に牛車の左右を警戒する。背の高い植物に囲まれた轍である。前後左右以上に左右の見通しは悪く、茂みを掻き分けて怪物が襲い掛かって来る可能性は十分に考えられた。

 速度の上がった牛車の屋根は揺れが酷く、立っているのも一苦労だ。しかし、座ってしまうと左右への警戒は困難になる為、少しでも姿が目立たなくするよう、中腰で構えているしかなかった。

 そもそもオレなんぞが”岩窟公テスタロト”の襲撃を警戒して、何が変わると言う訳でもないのだが、車内で大人しく座っているのも気が引けた。

 後輩が一丁前に見張りなどしているせいで、互いに引き際を失ったのもある。

 いずれにせよ、今から客室に戻っても遅い段階まで来ていた。

 そうして一刻ほど経過した頃だろうか。状況に僅かだが変化が訪れる。

「アレがクレタ町ですか」

 小さく呟かれた言葉に惹かれて視線を牛車の前方に移すと、依然として遠く離れてはいるが、確かにクレタ町の外観が視界に入り込んだ。

 クレタ町の町壁は、大都市と比較すると高さは劣るが、それでも人の背丈の二倍から三倍はある大きな壁だ。構造は大都市の物にも負けない強固で頑丈なものであり、多様な怪物の被害を受けるクレタ町を守り続けている。

 入り組んだ轍は先を見通せないが、この先に向かえば、あの壁の麓に辿り着く。そして壁門が開かれ、門を潜る事が出来たならば、一先ずの危険は遠ざかる事になる。

 だが、あと一度はあと僅かと感じた距離が、ふとした拍子に遠退いてしまう事もあるらしい。

 鼓膜を突き破らんばかりの咆哮は、ほんの一刻前に聞いたものと同様だ。

 但し、前回よりも尚巨大な音声で体が揺さぶられる。

 声の主までの距離が近いからだ。

「うしろっ」

 掠れ声に呼ばれ、牛車の後方に視線を向け、息が詰まる。

 ”岩窟公テスタロト”だ。

 馬車、牛車、羊車が歩き、牽引される車の車輪が転がり、草原を一筋に削り取り、作り出された車轍。巨大な牛が何度も往復し、二頭牽きの馬車も何度も往復する道は、相応に広い幅員がある。

 その轍を、”岩窟公テスタロト”は窮屈そうに前進していた。窮屈そうに、とは言っても、体を小さく丸めて進行するなどの殊勝な心掛けは怪物には見られない。左右に形成された緑の壁を前足で豪快に踏み倒しながら、暴れるようにして前進するのである。

 正面から眺めると、まるで角張った頭から直接前脚が生えたかのような、奇怪な形状の生物だった。生きた状態の”岩窟公テスタロト”を間近で見るのは初めての経験だが、想像を遥かに超えて恐怖心が煽られる。

 牛車の屋根の上に立っても尚、殆ど目線の高さが同じだ。それは目前の怪物がつい先程までは身を隠す為に体を低く屈めて周囲から発見されないように注意していた証拠であり、これ程の巨体を持つ怪物が、効率的に狩りを行う知能を持ち合わせている証左だった。

 自身で予測を立てながらも、ぞっとしない。

 黄色の眼球に、縦に一筋に走った瞳孔。上の瞼は角と一体化して上に吊り上がっており、目付きはこれまで出会ったどの生物よりも極悪だった。

 巨体を前方に運ぶ太く短い脚は、意外にも回転が速く、比例して走行速度も速い。四肢の先端には鋭い爪が生えており、一歩一歩が地面を深く抉るものだから、彼の後方には凄まじい量の砂煙が舞っていた。

 しかし、巨体に反して口腔は小さい。飽く迄も巨体と比べての話であり、最大まで開けば恐らく人間の上半身程度ならば一飲みにできる。

 オレも隣の彼女も、同様に動きが止まってしまっていた。

 分かるからだ。迫りくる怪物は圧倒的な強者であり、些細な抵抗をしたところで撃退には繋がらないと。打てる手立てが見付からず、停止するしかなかったのだ。

 決して硬直時間は長くなかった。ほんの数瞬から一秒程度。

 その間にも”岩窟公テスタロト”は牛車に猛烈な速度で接近し、その短い角を車体後部に突き入れようとしていた。

 剣を振り回して抗うだろうか。

 否だ。

 隣で未だに呆然とする少女の身体を半ば突き飛ばすように押し倒し、屋根の上に身を伏せる。

 衝撃に備え、剣を車体に突き立てる。

 直後。


 牛車が、浮いた。


 凄まじい衝撃が牛車を襲う。下から抉り、空に弾き飛ばすような”岩窟公テスタロト”の突進は、あと少しのずれで反転すると言う状態まで車体の後部を突き上げた。辛うじて横転を免れたのは、この牛車の動力源が力強く車体を前方に牽き続けているお蔭だ。

 後方から、地鳴りに似た咆哮が響いた。

 前方から、負けじと重厚な鳴声が聴こえる。

 揺れの収まった牛車の上で立ち上がろうとすれば、隣で蹲った少女が青い瞳を大きく見開いて無意味に口を開閉する光景が視界に映った。恐怖か、はたまたただの驚愕か。何れにしても、彼女の身体の硬直は暫く収まりそうになかった。

 屋根から剣を引き抜き、改めて後方に目を遣れば、怪物の巨大な眼球と視線がかち合った。

 本日二度目の事だ。

 何となくだが、オレの生存本能の如きものが、正に今、目前の怪物に獲物として認定されたのだと訴えている。真っ先にオレの死体が貪られるのだろう。牛車全体という大雑把な獲物から、オレ個人に狙いが絞られたのだ。勿論、オレの後には皆が食われるのだろうが。

 再び突進を仕掛けようとしているらしい。敢えて速度を落として助走の距離を空けているのだ。最高速度に達したあの巨躯は、止める術がない。そして二度目の突撃には、木造の車体では耐えられそうにない。

 では、如何にすれば彼の怪物の動きを止められるだろうか。

 新人研修に組み込まれる怪物対策講座では、怪物に対して汎用的に有効とされる技術や知識が指南される。例えば、強烈な臭いで怪物の注意を引き付ける若しくは攪乱する手段や、強烈な音と光で一瞬の間だけ怪物の意識を刈り取る手段だ。

 何れの技術も怪物には強烈に五感に訴えかける方法が注意を削ぐのに有効だと示している。換言すれば、怪物共の日頃の生活では得られない程の刺激を与えられると、驚愕で身体が硬直してしまうのである。

 討伐士は、いざという時に備えて、その強烈な刺激を与える道具を肌身離さず持ち歩いている。

 甲笛と呼ばれる道具だ。

 その名の通り、思い切り吹けば甲高い音が大音量で響く笛である。

 ”岩窟公テスタロト”が突進の為に重心を低く落とした拍子を見計らい、甲笛を思い切り吹く。

 足下の少女が両耳を塞ぐ。巨大な怪物もまた、音を嫌がるようにして走りの速度を落として頭を振った。

 懸念だったムトゥの走りには一切の影響が出ておらず、一先ず安堵する。やはり、背後から強力で巨大な怪物に追われる状況では、如何に頑強な牛でも、音なんぞを恐れる余裕は無いらしい。その辺りは、小型の脆弱な怪物と差異無いようだ。

「さて、次はどうしましょうか」

 一度目は運良く車体の破壊は免れ、二度目は何とか凌いだ。

 だが、甲笛は同じ怪物には二度連続で通用しない、というのが通説だった。個体毎に警戒心や音への反応など少しずつ違いは出るだろうが、言ってしまえば甲笛もただの音を発しているに過ぎないのだ。頭の良い”岩窟公テスタロト”などは、一度耳にしただけで甲笛には何の害も無いと種が割れてしまっていると考えた方が良い。二度目を使用しても、気にせず突進して来る可能性が高い。

 だからと言って、光や臭いを発するような道具には持ち合わせがない。

 背後、牛車からすれば進行方向にはクレタ町の町壁が見えている。壁門付近には一刻も掛からずに到着するだろう。壁上の衛士の姿が見えれば、流石の”岩窟公テスタロト”も撤退するはずだ。

 ほんの短い時間だ。だが、その短時間の間に何度、牛車が破壊される危険が襲い掛かって来るだろうか。

 牛車は走行中であり、牽引するムトゥは戦力として数える事は出来ない。彼が怪物に挑んで死傷し、牛車が停車してしまうくらいならば、決して速度を緩めず町まで一心に進んでもらった方が良い。

 では、オレが一人で対処可能かと自問すれば、非常に難しいだろうと結論する。

 だが、必ずしも希望が無い訳ではない。オレはつまらない凡骨の討伐士に過ぎず、才能らしい才能など何も持ち合わせておらず、一般的に認知される華やかな征伐屋の姿からは程遠い。

 それでもオレは討伐士だ。

 厳しい試験を通過し、難しい研修を受け、辛い訓練を何度も繰り返して、一家の一員として活動する事を正式に認められた者の一人なのだ。駆除など出来ようはずもないが、多少の足止め程度なら不可能と決め付ける理由がない。

 覚悟を決め直し、正面から”岩窟公テスタロト”を見据えれば、何てことはない。奴も今までに駆除してきた怪物と大差ない。異なるのは、身体の大きさと凶暴さ、そして此方の準備が十分に整っていない事だけだ。

 ”岩窟公テスタロト”は甲笛の音を嫌がり一度速度を落としていたが、草むらで牛車の姿が見えなくなる前に早くも気を取り直していた。だが、甲笛の音が余程嫌いだったのか、警戒した様子で距離を保ったまま襲って来ない。だからと言って、二度目を鳴らして効果があるとは限らないので、やはり奴に対して甲笛は使えないと思って行動すべきだろう。

 そうなると、オレの頼りは、この何の変哲もない剣一本だけになる。思えば、討伐士になって以来の一年間、大抵は剣一つ身一つで切り抜ける場面が多く、今回もその一例に過ぎないのだろう。

 怪物が咆哮を上げた。巨大な叫びは腹の奥に重く響き、それが恐怖心に錯覚されて委縮しそうになるが、剣を握って立ち上がり、牛車の後部で怪物を見据えてやる。

 ”岩窟公テスタロト”が重心を低く落とし、四肢をばたつかせて迫りくる。

 巨体は瞬く間に速度を最大まで上げ、頭部を地面に擦れる程に低く下げて衝突に備えている。先程と同様、下から突き上げる頭突きを食らわせようとしているのだ。

 考えている暇などなかった。

 対応策を考えた末の行動ではない。ただ、選択肢が制限され、他に出来る事がなかったからに過ぎない。

 気付けば、オレは剣を振り上げて牛車から跳び上がっていた。

 身体を包む浮遊感に冷や汗を掻きながら、そこで漸く自分の行動を理解した。

 回避しようとか、他にこうすれば良かったとか、そんな建設的な思考を巡らせる余裕は無いのに、馬鹿な事をしたなぁ、と他人事のように思う余裕はあった。

 思考だけが加速していく世界で、恐らく様々な光景を眺めたのだろう。しかし、余りにも必死な状況で、結果として憶えている事実は非常に少ない。

 運が良かっただけだ。

 オレは無我夢中で剣を振り下ろし、”岩窟公テスタロト”は矮小なヒトに注意を惹かれて顔を上げた。

 だから運良く、振り下ろした切っ先は”岩窟公テスタロト”の鼻先を掠め、下顎の柔らかい部分を浅く斬りつけた。

 着地に失敗して地面を無様に転がりながら、痛みに呻く怪物を見上げ、頬が僅かに上がるのを自覚する。

 転がる速度が落ちると即行で立ち上がり、牛車に向けて全力で疾走する。

 牛車から飛び降りはしたが、捨て身の行動など取る気はない。例え無様を晒そうとも、生きたいのだ。

 後方に置き去りにした怪物が、再び足音を響かせるのが聴こえてくる。草原の暴君と呼ばれる”岩窟公テスタロト”だ。痛みへの耐性など殆ど無く、だからこそ微かな掠り傷程度でも驚愕で動きを止めたのだろう。だが、掠り傷程度で硬直する時間など僅かなものだった。

 幸い、オレの速度でも牛車に追い付くのは容易く、側面の取っ掛りを掴んで這い上がる。だが、牛車の速度が遅いと言うのは、決して有り難い事実ではなかったのだと思い直す。

 ”岩窟公テスタロト”にとっても、牛車に再び追いつくなど容易い事なのだから。

 オレが牛車の屋根に手を届かせたと同時に背後の足音が更に大きく、そして感覚が狭まる。慌てて確認すれば、巨体が速度を上げて牛車を破壊しようと迫っていた。

「センパイっ」

 上から声が降ってきて、反応するより先に”岩窟公テスタロト”の頭は車体後部に激突し、強烈に突き上げた。

 今度は車体は大きく揺れるばかりで、宙に浮く程の事態には見舞われなかった。

 牛車後部の壁が弾け飛んだからだ。

 木製の壁は粉々に砕けて宙高く飛んでいく。衝撃で車体は左右に激しく揺れ、両側の草の壁にぶつかって正道に戻る。支えの不安定になった屋根は傾き、側面の壁も幾らか板が剥がれかける。

 オレは危うく手を離す所であったが、辛うじて落下は免れた。屋根の上のエリス・ディスコルディアに腕を掴まれ、体重の幾分かを支えられたからだ。

 草原に大きな悲鳴が響く。人の叫びだ。正直に言えば、半ば存在を忘れかけていたのだが、車内に残していた乗客のものだ。壁が砕け、その向こうに凶悪な面構えの巨大な怪物が走っていれば、大抵の生物は恐怖で震えるか叫ぶかするだろう。青年は後者だったらしい。

「重いです、センパイ」

 力強く引かれる腕に合わせて、一気に牛車の屋根に上る。

「……」

 客室で震えているであろう青年の救出に向かおうかと考え、動きを止める。彼の下へ向かったとしても、逃げる先など何処にもありはしないのだ。逃げるのではなく、”岩窟公テスタロト”を遠ざける事。それだけが唯一の活路だろうから。

「センパイ、草臥れた見た目の割に、無茶する人ですね」

「後輩に真似させたくはありませんね」

 ここまで追い込まれた状況でも意外と軽口は叩けるようで、彼女の大きな瞳に見詰められて僅かにだが気が楽になるのを感じる。

「っていうか、次はもう無理でしょうね」

 牛車の後方には、一定の距離を空けて疾駆する怪物がいる。頭突きを食らわせる為に十分な助走距離だ。いつでもあの巨体は再度、牛車に突撃する準備が出来ているようだった。次はいつ奴が突撃してくるか知れず、そして車体の損傷を鑑みれば、次の頭突きで完全に破壊されるのは確実だった。

 先程は不意を突いた攻撃で奴の動きを一時的に止める事に成功したが、同じ手段は二度通用しないと考えた方が良いだろう。地面に降り、草むらに隠れて奇襲を仕掛けるような隙もない。

「もう少しでクレタ町なんですがね……」

 諦観混じりに呟いてみれば、尚更に強く実感する。目的地クレタ町は目前に見えているのだ。ほんの僅かな時間で到着するだろう。しかし、その僅かな時間が、”岩窟公テスタロト”には十分に牛車を破壊する猶予になる。

 オレの呟きを耳にして、彼女は態々背後に迫ったクレタ町の町壁を確認した。既に壁の材質すら目視可能な距離にまで迫っているのだ。ここまで躱し続けて最期を迎えると言うのは、実に悔しいものだ。

「センパイ、討伐士っていうのは、怪物を駆除するのが仕事ではないらしいですね」

 切迫した状況で、そんな事を溢す彼女の姿に思わず思考が停止する。それは確かにオレが先日彼女に教示した事実で、彼女が心底不服そうに反応した現実だ。今、この瞬間にその不満を述べる意味が理解出来なかったのだ。

 視界の端で、怪物が頭部を低く構えた。

「でも、センパイは報酬も発生しないのに、あの怪物に向かって行きました」

 そうしなければ、オレ諸共牛車が破壊され、死を免れないのは明白だったからだ。

「先日から思っていたんですが」

 速度を上げた怪物は、すぐ間近まで迫っていた。鋭くはないが、太く強靭な二本の角を低く下げて、牛車を完膚なきまでに破壊する為だ。今更、オレ達に対抗策は残されていない。後は無様に走って逃げるか、運良く牛車が走行可能な程度の損傷で済む事を祈るだけだ。

「私、討伐士に向いてないと思うんです」

 そのはずなのに、彼女は自身の短剣を逆手に握り締めて牛車の屋根から、一切の躊躇無く飛び降りた。

 慌てて手を伸ばすが、距離を縮める前に彼女の身体は重力に引かれて地面に近付いてしまう。そして地面近くまで頭を低く下げた怪物に、近付いてしまう。

 結果など火を見るよりも明らかだった。

 だが、オレの予想は外される。

 彼女はオレの想定を超えて高い身体能力の持ち主だったらしく、空中で身体を捻ると、上手く落下の方向を変えて地面に着地する。”岩窟公テスタロト”に触れる程近くの地面だ。それも頭部のすぐ真横であり、手を伸ばせば怪物の口端に触れる事すら可能な距離である。

 身体を捻り、体重を載せて短剣を逆手に振るう。無論、彼女の細腕で力任せに振るった刃では、岩の如き硬度の皮膚を有する怪物には傷一つ負わせられない。

 しかし、またしてもオレの予想は外れる。

 彼女の振り上げた短剣の切っ先は、奇しくも彼女の動向を追っていた”岩窟公テスタロト”の眼球に向かっていたのだ。残念ながら、巨躯とは裏腹に俊敏な反応を見せる”岩窟公テスタロト”は更に身体を低く落とし、彼女の切っ先の向かう先を眼球から頑丈な頭頂部に変えてみせた。

 次の瞬間。

 ”岩窟公テスタロト”の頭頂部に触れた短剣の切っ先から火花と共に閃光が迸る。目が眩む程の光ではない。だが、唐突な煌めきは確かにその場に居合わせた誰もの意表を突く事に成功した。

 更には閃光のみならず、火花が閃光に着火したように爆発を起こす。

 爆発の威力は、爆発を引き起こした張本人である彼女にすら跳ね返ったらしく、彼女の腕は爆風に押されて無防備にも高く跳ねあがってしまっていた。

 爆発の影響は、無論、直撃した”岩窟公テスタロト”も被っている。頭頂部には硬い皮膚を引き裂いて裂傷が刻まれており、赤い液体が幾筋かに別れて頭部を伝い始めた。また、流石の草原の暴君も爆発には耐えられなかったらしく、足を止めて今までに聞いた事も無い情けない叫び声をあげた。

 そして痛みを嫌がるように頭を何度も左右に振る。

 傍らにいた人間の少女の身体は、いとも簡単に弾き飛ばされた。

 錐揉みしながら彼女の痩躯は宙を舞う。爆発の反動で彼女の右腕は上部に跳ねあがっていたから、一切の回避行動も取れずに直撃を食らってしまったのだ。今の彼女には意識が残っているかすら怪しい。少なくとも、空中で体勢を整えようとする動きは見られなかった。

 このままでは力無く地面に落下し、衝撃で彼女にどれだけの被害が発生するか分からない。

 またしても、気付けばオレの身体は無意識のうちに宙に跳んでいた。

 実に莫迦らしいと我ながら思う。

 彼女を助けても一銭の得にもならない。ましてやオレでは助けられるとも限らない。無駄死にするだけかも知れないのだ。何故、自分でも体が死地に向かっているのか分からない。

 幸いにして”岩窟公テスタロト”は足の動きを止めて痛みに呻いていたから、彼女の身体の落下点まで駆け付けるのは容易だった。飛び付くようにして彼女の身体を受け止めて、勢いのままに側面の草むらに衝突して衝撃を殺す。

 痩身の通り、異様に軽い彼女の身体を抱き起してみれば、彼女は力無い瞳で此方を見上げた。体内にどれだけの怪我を負っているか分かったものではないが、死んではいないらしい。

「なんだ……、————」

 囁くような彼女の言葉は、背後で咆哮する怪物にかき消される。先程の情けない叫びとは全く異なる。一層に力強く、感情そのものに任せた怒鳴り声である。

「歩け、そうにないですね。大人しくしてください」

 言うまでもなく、動けそうにもないが。

 少女の異様に軽い体重は抱え上げるのは全く苦でなく、そのまま走り出すのも容易い。普段の全力疾走と同等とは言わないが、牛車に追い付くのは不可能ではない。

 但し、”岩窟公テスタロト”から走って逃げるのは無理だ。

 他の手段を考える為に思考を割く余裕などない。兎に角無我夢中で走り出す。

 牛車の後ろ姿は凄惨なものだった。背面の壁は破壊されて開放されてしまっているから、客室も後ろから丸見えなのだ。客室には茶髪の青年が一人で壁際に座り込んでいて、見るからに情けない表情で震えているものだから、思わず此方の気が抜けてしまいそうなほどだった。

 オレの腕の中に収まる彼女も、その光景には気が抜けたのか、微かに口角が上がったのが見える。

「あぁ……、ない……」

 彼女の掠れて聞き取り辛い呟きに耳を傾け、訊き直そうとして、そんな余裕は無かった事を漸く思い出す。背後から乱暴な足音が近付いてきていた。

 牛車までの距離を半分にも縮めた頃だろうか。背後に迫る巨大な気配がすぐ間近に迫り、もう逃げられそうにないと知る。背中には、怪物の強烈な吐息を感じていた。

 諦観ではなかった。しかし、何故か恐怖は感じていなかった。まるで他人事のように、不幸が起こる事だけを悲しんでいた。心の何処かには、満足感すら抱いていたように思う。

 腕の中の彼女を目会った。彼女は青く大きな瞳を限界まで見開いて、オレの頭越しに後ろの光景を目撃したらしく、穏やかだった表情が見る見る歪んでいく。感情の正体は恐怖だろうか。それとも怒りだろうか、驚愕だろうか。

 何れにしても、オレは素直に走っていてはならないのだろうと悟った。

 思い切り前方に跳ぶ。その後、転倒して取り返しがつかなくなる事も分かっていたが、他に術もなかった。そして、その判断は決して間違っていなかった。

 背中を鋭い風が走り抜ける。それは一拍の間を置いて熱に変わり、受け身も取れずに地面に転がる頃には、その熱の正体は痛みなのだと知覚が追い付く。

 傷自体は大したものではないのだろう。右の肩甲骨から腰の左辺りまで浅い切り傷が走っている事が感じられる。血も流れているのだろうが、痛みに思考が制限されて意識を集中できない。

 仰向けになれば、間近には怒りに震える”岩窟公テスタロト”が居て、牛車は次第に遠ざかっていって、傍らには意識の朦朧とした少女が転がっているのが見える。握っていたはずの愛剣も何処かに落としてしまったらしく、眼前の怪物に抗う術は思い付かなかった。

 怪物の荒い鼻息が頬を擽る。この状況から逃れる術があるのならば、是非ご教授願いたいものだ。

「……」

 怪物の黄色の眼球が蠢き、縦に裂けた瞳孔がオレを睨む。鼻を忙しなくひくつかせるのは、オレの血の臭いを認めたからだろうか。周囲に他の外敵がいない事を確認しているからだろうか。

 最後に天に向かって咆哮を轟かせたのは、勝利の叫びだ。

 昨日から追い続けた獲物を漸く捕らえたのだ。何より、草原の暴君たる怪物が、捕食の為にこれ程の怪我を負ったのは、恐らく初めての経験だろう。そう思えば、凡人としては少々誇らしくも思う。

 我が儘を言うなら、当然生きてクレタ町まで向かいたかったし、せめて最期に希望を述べるならば、未来あるエリス・ディスコルディアには生きて帰って欲しかったと思う。もうオレには無関係になろうとしているのだが。

 再び、怪物が鳴いた。

 それは聞くからに情けない悲鳴だ。爆発の短剣で傷を負わされた時と同じである。

 だが、今回は当然、身体の動かせない彼女が攻撃を与えたのではない。

 痛む背中を無理矢理意識から追い遣って、上体を起こす。

 ”岩窟公テスタロト”の左前脚の付け根から、赤い液体が噴出していた。頭頂部の裂傷以上に深く大きな傷だ。

 原因は奴の足下の地面に突き刺さる極太の杭だろう。杭の尻には風受けの羽が付けられており、それは巨大な矢のようだった。

「弩弓……」

 クレタ町の壁上に設置された固定弩弓による攻撃らしかった。

 ”岩窟公テスタロト”の魔の手から逃げる道中、弩弓の存在は常に頭の中にはあった。しかし、弩は飽く迄も町を守護する為の兵器であり、平原の怪物を狩る目的で設置された物ではない。だから、威力は凄まじいと噂だが、射程距離はそう長くないと判断して、あまり期待もしていなかったのだが。

 まさか、壁上の衛士の姿も目視不可能な距離から、”岩窟公テスタロト”の皮膚に傷を付ける威力を保って届かせるとは。

 短い風切り音の直後、地面を圧迫する重い音が伝わる。新たな弩が放たれ、怪物の横の地面に突き刺さったのだ。距離が離れているだけに、命中精度は高くないらしい。それでも僅かな誤差で怪物を掠めているのは流石としか言い様がない。

 しかし、その命中精度で”岩窟公テスタロト”が狙われ続けると、傍にいるオレ達まで当たる危険がある。

 成る程、此方から壁上の衛士が目視不可能ならば、衛士からもオレや彼女の姿は目視不可能だろう。”岩窟公テスタロト”の巨躯や、牛車は十分に見えるはずだから、牛車と怪物の間に多少距離が空いた事で狙撃を始めたらしい。

 今度は”岩窟公テスタロト”とは別の脅威により危機的状況に陥ったようだ。だが、下手に動くと極太の矢に体を貫かれ兼ねない。また、依然として目前に佇む怪物の脅威も決して除かれた訳ではない。大人しく地面に伏せておく事しかできない。

 三本、四本と人の腕ほどもある極太の矢が地面に突き刺さる。幸いにもオレや彼女には一本も当たらず、怪物の身体に当たったのも初めの一本のみだ。

 しかし、五本目の矢が左前脚の近くに突き刺さった事が彼の行動を促すに至ったらしい。

 オレを名残惜しそうに睨みつけると太い尾で草むらを強く叩いた。そして低い声で長く唸った後、踵を返して草むらの影に隠れて去って行った。

 意外と呆気ない去り際である。

 地面を微かに震わせる足音が次第に小さく、巨体が遠ざかっていくのを感じて、深く溜め息が漏れる。

「……莫迦なことしたなぁ」

 背中の激痛を再び感じながら、立ち上がる。背中の皮が引き攣ったような感触はあるが、歩けない程ではない。ただ、今の身体ではいくら軽いとは言え、人一人抱えて歩くのは辛い。

「……わるくないです、センパイ。助かりました、ありがとうございます」

 地面で俯せに倒れたまま、掠れ声で感謝の意が述べられる。どうやら、少しは意識が明瞭になってきたようだった。未だに声音は力無いが。

「後輩には真似させたくないと、言ったはずですが」

「……えぇ、わるくなかったです」

 そう繰り返して、彼女は手放さなかった短剣を空に向けて掲げた。

「……まだまだ、……捨てたものじゃないですね、センパイ」

 言葉の意味は伝わらなかったが、彼女はオレに向かって笑んでみせた。それが微かに過去を想起させるから、オレは暫し呆然としてしまう。

 意識を現実に戻したのは風に吹かれて傷が痛んだからだ。あまりの痛みに眦に熱いものが込み上げてきたから、後輩に見せない為に汗を拭き取るふりして拭い去る。

「さて、早く町に行きましょうか。ここでは、いつ他の怪物に襲われるか分かりません」

「……すみませんが、肩を貸していただけると――――」

 などと彼女が余計な事を口走ろうとするから、さっさと彼女の身体を担ぎ上げる。背中の傷は痛んだが、やけに軽い彼女の身体ならば持てない事もなかった。

 付近の草むらに転がっていた愛剣を拾い上げ、歩き出す。

 人の肩に担がれながら彼女は何やら不満を述べるが、全て無視して歩を進める。

 速く歩いて行かなければ、壁門が開いてしまう。

「……センパイ、傷が痛みますか?」

 彼女には、訊きたい事、言わなければならない事、たくさんあった。

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