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Calm Eclipse  作者: 天谷吉希
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四話『妙な感じがするので』

 明らかに反応が遅れていたと自覚する。本来ならば怪物の襲撃に即座に対応出来るよう備えておくべきだったのだ。オレの業務は牛車の護衛ではないが、自らの身を預けた牛車を怪物リタルナから護るのは、武器の携行を赦された者として当然の義務だった。

 慌てて座席の足下に置いた愛剣を掴んで立ち上がる。

 御者台の直ぐ後方に設けられたドアに手を掛ける頃には、パイプからはアルカス氏の悲鳴に混じって、甲高く耳障りな、金属を擦り合わせるような音が聴こえてきていた。

 ”パンラット”の鳴き声だ。一匹二匹ではない。鳴き声だけでも十匹を悠に超える数だと分かる。

 一瞬だけ躊躇したのは、開いたドアから超小型の怪物が雪崩れ込んで来る可能性を考えたからだ。しかし、御者台の彼を危険の只中に放置する危険性を考えた結果、すぐさま迷いは捨て去った。

 勢い良くドアを押し開ける。それだけでドアに軽い物体が幾つもぶつかった感触が返ってきた。

「……」

 思わず息を呑んだ。

 キヌ村からクレタ町に続く、フロンス平原に伸びた一筋の轍。牛車は平原のど真ん中を走行していた。

 牛車の両側面には背の高い草が生えている。地面より一段高い牛車からならば草原の向こうの山まで見渡せるが、もしも地面に降り立てば、オレでは大量の草に埋もれて視界は潰されるだろう。それくらい、フロンス平原に自生する雑草は背が高く、鬱蒼としていた。

 だが、オレが驚愕したのは平原の通常の姿に対してではない。

 フロンス平原は現在、普通ではなかった。正確には牛車の周囲の限られた範囲だけなのだろうが、少なくとも、一目で確認できる範囲内は本来のフロンス平原の姿ではない。

 進行方向の轍を埋め尽くし、周辺の草原を踏み倒す無数の黒い影がある。

 ”パンラット”だ。一つ一つは人の頭部より一回り大きい程度で、丸々として毛むくじゃらな輪郭は毛髪に覆われた人の頭のようでもある。それに四本の短い脚が生え、短く小さな尾が生え、体毛の隙間から小さな口が覗く。全く危険な生物には映らないが、列記とした人に害成す怪物の一種である。

 怪物は周囲一帯を覆いつくす程に居た。十や二十どころか、百や二百も超えるだろう。

 ”パンラット”は群れを形成し行動する怪物だが、一つの群れは凡そ十匹程度で構成されると言われている。ならば現在、牛車の周囲には二十をも超える数の群れが集合している事になる。

 罷り間違っても、こんな状態が平常なはずがない。

「うわぁ!」

 牛車の中から青年の悲鳴が響き、我に帰る。

 開いたドアの隙間から、一匹が内部に這い上がろうとしているのだ。慌てて小さな体を蹴り付けると、想像以上に軽い感触が足に返り、容易く茂みの奥に飛んでいった。

 やはり、一匹一匹はとても弱々しい。牛車を囲うこれらの怪物は、”パンラット”で間違いない。

 なぜ牛車が襲われるのか。その疑問は後回しにして、先ずは現状を打破せねばならない。今は未だムトゥは歩みを続けているが、このままでは何時、牛車の車輪が破壊されるか分からない。それに、御者台のアルカス氏も助け出さねばならない。特にアルカス氏は悲鳴を上げる程に危険な状況な追い込まれている。助けは急を要するはずだ。

 客室から御者台へ直接繋がる扉はなく、一度客室から出なければ、御者台には入れない。その為に客室のドアを開けたのだが、今から牛車を止めて御者台に歩いて向かう訳にはいきそうもない。走行中の牛車の上で、何とか移動せねばならないのだ。

 牛車の動きは、人の駆け足よりも遅い程度だ。走行中の牛車から落下しても、それ自体は命には関わらないだろう。だが、大量の”パンラット”に覆われた地面に落ちれば、流石に只では済みそうにない。

 のんびりと安全な方法を考えたり、機会を窺ったりする余裕もなかった。

 牛車の屋根の縁に掴まり、思い切って身体を外に投げ出す。跳び掛かってきた”パンラット”は、身体を捻るだけで簡単に払えた。

 足を使ってドアを閉める。どさくさ紛れに一匹が中に入ったように見えたが、一匹程度ならば素手の一般人でも対処は難しくないはずだった。

 屋根伝いに手で掴まって移動する。幸い、屋根の上にまで”パンラット”は登っていないらしく、指を噛まれる事もない。ドアから御者台までは大して離れておらず、多少の揺れを除けば殆ど邪魔などないようなもので、御者台の窓に足をかけるのは容易だった。

 窓ガラスが割れているのは、”パンラット”が突き破ったのだろう。周囲の様子を確認する為に御者台の窓にはガラスが張られているのだが、安全性は低いらしかった。

 一息に飛び込もうとしたが、侵入させた脛の辺りに痛みが走る。噛まれたのだ。急いで引き戻せば、噛み付いた個体は離れたようだが、一度、屋根の上に登り態勢を立て直した方が良さそうだ。

 だが、御者台からアルカス氏の一際大きな悲鳴が聴こえてきて、考えを改める。

 一匹や二匹の”パンラット”ならば、常に危険に身を置く牛車引きの彼の敵ではなかったろう。だが、今の御者台には十匹を超える数の怪物が雪崩れ込んでいるはずだ。

 一匹毎の噛みつきや引っ掻きは大した傷にならなくとも、積み重ねれば重傷になり得る。もしかすると、今のアルカス氏には暢気に待っている余裕はないのかも知れない。

 とは思うが、冷静に対策を考えると、結局は屋根に上って窓から入るのが最適だろう。

 牛車の揺れに多少手間取りながらも、屋根に這い上がる。

 上から見下ろし、黒い体毛の怪物に包囲された光景に改めて衝撃を受けるが、兎に角アルカス氏の救助が最優先だ。

 腰に差した愛剣の柄に手を掛けるが、これから狭い御者台に乗り込む事を考えて手を離す。予備のナイフは鞄と纏めて客室に置いて来てしまったので、御者台では素手で対処する事になりそうだ。オレの腕でも超小型の怪物程度ならば特に問題は無いが、自らの準備の悪さに呆れるばかりだ。

 自省は一先ず後に回し、出来る事を確かめていく。アルカス氏の救助と、牛車を取り囲む”パンラット”の撃退だ。その何れもが、時間的猶予はない。

 特にアルカス氏の救助は一秒でも早く成功させねばならない。

 とにかく、御者台に飛び込んで”パンラット”を窓から放り出すだけでも良いのだ。

 早速実行に移そうと御者台の上に移動した所で、突如として客室のドアが乱暴に開かれた。

 そして屋根に手を掛けて人影が姿を現す。旅人風の乗客だった。足を使ってドアを閉める様は、先程のオレの動きと同じだ。だが、その軽快な身の熟しはオレよりも余程迅速で堂に入っている。分厚い外套で身を包み、頭巾で顔を隠した動き難そうな恰好でありながら、屋根を伝って御者台に向かってにじり寄る動きは中々に速い。跳ねて身体に纏わり付く”パンラット”も容易く払い除け、御者台の横に辿り着くのもあっという間だった。

 オレの時とは異なり、身体を揺すって勢いをつけて一息に御者台に入り込んでいく。オレが安定した屋根の上から行おうとした事を、屋根の縁に手を掛けただけで実行してしまったのだ。

 しかし、流石に全く問題無く突撃とはいかなかったらしく、身体を窓の縁に軽く引っ掛けながらの侵入となってしまっていた。そして、窓ガラスの破片も幾らか残っていたことから、頭巾の端が切れてしまったらしい。

 頭巾が捲れ上がり、顔が顕わになる。

 低い鼻に痩せこけた頬と、くすんだ金髪。青く大きな瞳。

 それは、つい先日見たばかりの顔で、つい先日知り合ったばかりの顔だった。

「ディスコルディアさん?」

 見間違いではない。

 目会ってはいないが、彼女は確かにエリス・ディスコルディアだった。知り合ったばかりの間柄ではあるが、先日の研修では同室で何刻もの間二人で会話をしていたのだ。顔くらいなら覚えている。

 オレが呆気に取られている間にも、御者台に飛び込んだ彼女は相応の働きをしていた。一匹、二匹と窓から”パンラット”が投げ捨てられていく。その何れもが体に切り傷が付けられており、少量だが赤い血の筋を引いて地面に落下していく。

 窓から捨てられた怪物が十二匹を数えると、御者台の揺れが収まる。どうやら、怪物と新人討伐士の戦いは一段落がついたらしい。

 窓から顔だけを覗かせて、エリス・ディスコルディアが此方を見上げている。薄く細められた瞳は、睨んでいる訳ではなさそうだが、オレへの敵意すら感じられた。

「動きが悪いですよ、センパイ」

 薄い唇の端を僅かに釣り上げて、掠れた声音でそう言った。

 敵意と言うより、敵対心だろうか。もしもアルカス氏の救助の的確さを競っているのだとすれば、オレが惨敗なのは言うまでもない。

「何してるんですか、こんな所で」

「怪物退治ですよ。見てわかりません?」

 そう言って彼女は一匹の”パンラット”の死体を窓の外に投げ捨てた。御者台を襲った怪物は十三匹だったようだ。

「……でも、助かりました。一先ずは」

 不本意だが感謝の意を告げると、彼女は勝ち誇ったように口角を上げて笑んだ。オレの経験則では、こういう調子に乗りやすい人種は不用意に褒めると増長するので、言葉は選ぶべきだ。しかし、状況がそうも言ってられない。

 アルカス氏の救助は終えたが、未だ牛車の周囲には無数の”パンラット”が並走しているのだ。決して安全が確保された訳ではない。

「もう少し、手伝って貰えますか」

「えぇ、そのつもりです」

 研修も終えてない新人に手を借りる破目になるとは、我ながら実力が足りないと思う。そして当の新人も手を貸すつもりで居たというのだから、嘗められ切ったものである。

 正当な評価だとは思うが。

 御者台の窓から這い出た彼女は、走行中で揺れる牛車の上にも拘わらず、身軽な動きで屋根に上ってきた。

「お疲れ様です、パーシアスさん」

「えぇ、どうもお疲れ様です。ところでアルカスさんは無事ですか」

「御者の男性の事なら無事ですよ。小さな傷は幾つかありましたが、特に問題は無いと思います」

 彼女エリス・ディスコルディアは、頭巾の紐を短剣で断ち切って屋根の上から投げ捨てた。

 『北西都』を経つ頃、彼女は護身用の短剣の所持について監査官を軽く揉めていた記憶がある。二人の間でどのように折り合いを付けたのかと思っていたが、どうやら彼女が討伐士ソーサラーと明かした事で携行の許可を勝ち取ったらしい。

「ディスコルディアさんは……いえ、後にしましょうか。このままでは、いつ牛車が壊れるかわかりません」

 ”パンラット”の力では移動中の木造の車を破壊出来ないだろう。だが、無数にいる奴等の体が車輪に絡まり、妙な引っ掛かり方をすれば、何処に異常を来すかわからない。

「センパイ的に、解決策は思い付いてるんですか」

「……さて、どうしましょうかね」

 牛車の扉を開いてから、今この瞬間まで無数の怪物の対処法は考え続けていた。にも拘わらず、依然として方法は見付けられないでいる。

「じゃあ、一匹ずつ駆除するしかないですね」

「……」

 有効な一手が分からない以上、それが最善手の可能性は十分にある。いや、それ以外の方法が無いと言うべきか。

 問題は”パンラット”という超小型の怪物は、小さ過ぎるが故に殺すのが面倒臭い。牛車の上からでは地面を走る”パンラット”に剣を届かせるのも困難だ。手間が掛かる事が問題ではなく、時間が掛かる事が問題だ。早急な解決が求められる状況で、解決策自体が時間を要しては解決しない可能性もある。

「そう言えばパーシアスさんは……。あ、やっぱりいいです」

「どうしました」

「いえ、訊くまでもなかったかな、と。照武器インゲニウムなんて持ってないでしょう」

「……」

 確かに持っていないが、言い方というものがある。オレのような木っ端討伐士ソーサラーは所持していなくて当然なのだ。

「言っておきますが、私も持ってませんよ」

「そうですか」

 端から期待してなかったとは、態々言うまい。

 結局、一匹ずつ手ずから殺していくしかないと言う事だ。

「ではお先に」

 そんな簡単な確認を終えると、彼女は牛車の上から飛び降りた。下には地面を埋め尽くす程の”パンラット”が集っているが、僅かの躊躇も見られなかった。

 牛車の走行速度は人の駆け足よりも遅い程度。並走は十分可能であるし、”パンラット”を蹴散らしながらでも決して不可能ではない。多少遅れても追い付くのは難しくない。しかし、剣を振り”パンラット”を殲滅しながら、走り続ける体力があるだろうか。

「……悩んでいる暇は無いですね」

 手間が掛かるなら、少しでも早く取り掛かれば良いのだ。

 剣を引き抜いて屋根から飛び降りる。

 何も考えずに飛んだは良いが、下を確認して少々困る。地面を埋め尽くす程の怪物のせいで、着地点が見付からないのだ。とは言え、”パンラット”ならば踏み殺す程度はわけない。

 肉を潰し骨を砕く嫌な感触と共に、二匹の怪物を殺して着地する。本来ならば自ら転んで衝撃を殺すような高さからの落下だったが、この状況で地面を転がるのは危険が増すだけだ。衝撃は怪物の死体と膝の屈伸で逃がして、すぐさま走り出す。

 走ろうにも、上げた足の下ろし場所すら無い。一歩一歩が足場を確保する為に、”パンラット”を蹴散らしながらになる。普通の駆け足以上に体力を使う為、余り時間は掛けられそうにない。

 また、足元だけではなく、飛び跳ねて体当たりをしてくる怪物も剣で斬り落とさねばならない。但し、必ずしも致命傷を与える必要は無く、牛車の追跡が不可能になる程度の傷を負わせていけば自然と数は減っていくはずである。

 しかし、百を超え、二百にも届こうかという数で迫る怪物の群れだ。明確に数が減少している実感は湧かない。無論、何もしていない状態に比べれば、減っていないはずはない。それでも、地面を埋め尽くす”パンラット”が二、三匹減ったとしても、草原の草陰から新たに寄って来た個体に隙間を埋められるせいで目に見える成果が得られないのだ。

 終わりの分からない戦闘と言うのは、想像以上に精神を疲労させる。

 牛車の死角に入り込んで分かり辛いが、同様に”パンラット”を相手取っている彼女に視線を向けてみれば、相も変わらず瞳を細めた仏頂面で感情は伝わって来ない。だが、決して上機嫌でない事だけは伝わってくる。

 辛い状況だが、戦闘自体に命の危険が無い事だけは救いだろうか。体力と時間に限りはあるが、”パンラット”の噛みつきや引っ掻きを食らった所で、一撃で命を落としはしない。通常の討伐士の業務では命の危機は当然に付き纏うものだから、今回は随分と特殊な戦闘だった。

 討伐士の業務ではない、という点でもだ。

 誰からも報酬の支払われない今のこれは、ただの生存競争だった。

 次第に作業と化してきた怪物を振り払う動作の中、油断だけはしないように注意を払いつつ、思考を巡らせてみる。

 現状を生存競争とオレは表現したが、本来ならば有り得ない形なのだ。小型怪物の中でも特に貧弱な種である”パンラット”は、臆病でもあるから人を襲わない。特に牛車など、彼等の敵う相手ではないと彼等自身理解しているので近寄りもしないのである。

 また、”パンラット”の群れは精々が十匹前後で構成されており、百を超える個体が寄り集まる事例など聞いた事すらない。そして、そんな数の”パンラット”が集合してさえ、武器を持った人間には敵わず、手間取りつつも蹴散らされているのが実情だ。

 要は人間と”パンラット”では、直接的に争った所で生存に関して競争になっていない。だから”パンラット” は数を増やし、臆病に隠れ住む事で種を繁栄させているのだ。彼等の今の行動は決して勇猛などではなく、無謀な自殺行為に過ぎない。

 臆病で貧弱な”パンラット”が、進んで牛車を襲う訳がないのだ。

「……」

 違和感があった。

 聞き覚えがあるのだ。

 ”パンラット”が牛車を襲った例ではない。

 弱く臆病な超小型の怪物が、自らの意思に反して危険を冒す、という事態そのものにだ。

 『小型の怪物は、生き延びる為ならどんな無茶でもしやがる』

 そう言ったのは、早朝に出会ったキヌ村の衛士だ。

 彼は怪物同士の争いにより、追われた小型の怪物が村の外柵を乗り越えて来たという話を聞かせてくれた。喫緊の課題を解決する為ならば、カブトクヌイの臭いを嫌う怪物も、いざとなれば臭いなど気にせず背後の脅威から逃亡すると言う事例である。

 それは例えば、”パンラット”が勝てるはずもないのに”牛”に群がるなどと言う暴挙に出る可能性も示唆しているのではないだろうか。無論、牛に近付いていく事自体が自殺行為ではあるが、牛よりも危険な怪物に背後を追われているのならば、牛の方が増しだと判断する可能性もあるのだ。

 多くの仮定を重ねた結果の、可能性の一部に過ぎない。

 だが、嫌な予感と言うものは往々にして当たるものだ。

 周囲に視線を走らせてみるが、背の高い草花で遮られて遠くは見渡せない。見える範囲には無数の”パンラット”が駆け回るばかりだ。彼等の動きに注意してみても、オレでは彼等の目的は理解できない。

 しかし、”パンラット”がこうして牛車を襲っている事実が既に異常なのだ。通常の精神状態で行動していない事は確かだ。

「ディスコルディアさん、少しよろしいですか」

 彼女は短剣を素早く振り回して、次々に怪物が動けなくなる程度の傷を付けていく。武器の扱いに慣れていないらしく、刃の当て方が悪く、あの調子では直ぐに短剣が刃毀れしてしまいそうだが、”パンラット”相手には十分な技術だった。

 オレが声を掛けて集中が途切れると、彼女は苛立たし気な視線を向けてきた。眉間に皺を寄せて瞳を細めた表情は先程と同じである為、気のせいかも知れないので、気に留めないでおく。

「何です、疲れましたか」

「いえ、何か妙な感じがするので、少し上から見てみようかと」

 彼女は訝し気に視線を向けてきたが、残念ながらオレも何ら確証は得られていないため説明は出来ない。追及の言葉でも投げ掛ける心算だったのだろう、怪物を蹴散らしながら此方に近付いてきた。

 だが、距離を詰められる前に、牛車の突起に手を掛けて飛び乗る。所詮は勘だが、可能な限り早く確認すべきだと思ったからだ。

 そのまま屋根まで一気に攀じ登り、立ち上がって周囲を見渡す。

 背の高い雑草に覆われた草原とは言え、牛車の上で立ち上がれば、遠くの山々まで見通せるようになる。それでも地面の多くは緑色の草原が広がっており、牛車の間近まで視線を落とせば黒色の”パンラット”の群れが見下ろせるだけだ。仮に草木の影に埋もれた怪物が居ても、これでは見付けようがない。

「……」

 判然としないならば、先程までと同様に目先の怪物を駆除していく他に打開策はない。

 そう判断して、再び地面に飛び降りようとして、硬直する。

 緩やかな曲線を描く一筋の道は、地面から後方を確認するだけならば草の壁に遮られていただろう。だが、草原の背丈よりも上方から見渡すオレには、見えてしまった。

 大きな弧を描いた轍の場所は、緑一色が広がるフロンス平原の中にあって、微かな凹みが影となって確認できる。牛車の進行方向と逆。ゆっくりと流れていく轍の後方だ。

 巨大な頭部だった。角張った骨格や角、幾つもの突起物で歪な輪郭が形成されていた。

 巨大な眼球が忙しなく動き回っていた。黄色の眼球は、縦に裂けたような瞳孔が走っており、それは確かに此方を見た。

 巨大な鼻がひくついた。此方の位置を確かめたに違いない。

「……」

 一瞬の出来事だ。

 オレは衝撃的な光景に体が硬直した。

 牛車が一際大きく揺れて、硬直したオレの体が体勢を崩した。

 怪物リタルナが巨躯の重心を落とす光景を目撃した。

 オレは未だに牛車の下で”パンラット”を狩る新人に声を掛けようとして、遮られる。

 鼓膜が物理的に圧迫されている事を実感する。聞いた事もない巨大な咆哮だ。地鳴りや雷鳴にも似た、腹の奥に強烈に響く重厚な叫びである。

 牛車を取り囲む無数の小型怪物は瞬く間に左右や前方に散り散りになり、草木の隙間に消えていく。

 牛車はいつの間にか速度を上げていた。人間の指示を通す程の時間差は無かったから、ムトゥ自身が本能で危険を悟って走り出したのだろう。

「何ですか、何なんですかっ。今のは、一体」

 牛車の後部に素早くしがみ付いた彼女は、驚愕で青い瞳を大きく見開いて、オレの事を見上げていた。

 手を伸ばし、腕を掴んで力任せに引き上げる。彼女は痛かっただの何だのと抗議の言葉を口にしたが、詳細を聞き取る余裕は無かった。直ぐ間近まで、絶望が這い寄っているのだ。

「センパイ、あれは鳴き声ですよね。……可愛らしい動物の声ではなかったと思いますが」

「……えぇ」

 怪物の殺生を生業とする討伐士や壁外の運輸業者に限らず、一般人にまでその名を知らしめる強力な種だ。愛らしい動物の声で鳴くはずもない。

「あれは、岩窟公”テスタロト”……」

 草原の暴君。フロンス平原北部で猛威を振るう怪物だ。




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