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Calm Eclipse  作者: 天谷吉希
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三話『申し訳ないですが』

 『北西都』周辺の村の中では、キヌ村は比較的に大きな規模を誇っている。人口は千人を超え、村の防護柵も他の村々と比べると造りは強固だ。単純に頑丈なだけの外柵ではなく、怪物の嫌う成分を含んだ木材を利用したり、自然の勾配を巧みに織り交ぜた外柵の建造法は、なるほど都市よりも人手や費用に劣る集落では共通してみられる人々の創意工夫らしかった。

 オレの乗った牛車は、昨日の夕刻、キヌ村に到着後、速やかに一時解散となった。

 昨日は特に牛の消耗が激しく、僅かでも早く、そして長く休息を与えたかったらしい。

 元よりキヌ村では一晩停泊する予定であったので、乗客達にも大した問題は生じず、三人の客は思い思いに村に散って行き、一晩を過ごした。食事処や宿泊施設に事欠かなかったのは、流石は牛車の宿泊中継地と言ったところか。先に立ち寄ったエソ村とは比較にならない設備の充実具合で、この分ならば人が集まって来るのも当然に思えた。

 しかし、若手の討伐士ソーサラーに過ぎないオレは金銭面で決して裕福とは言えず、むしろ生活は切迫している。施設が充実していても、オレの食事は簡素で質素、宿舎は黴臭いボロ小屋だ。木板に布を張っただけの硬い寝具では寝つきも悪く、眠りの浅い夜を過ごす破目になった。

 早朝、重い頭を揺すって宿屋から出たのは、まだ陽も昇らぬ時間帯だった。

 牛車の出立は早朝ではあるが、流石にオレの起床時間は早過ぎる。行く宛てに困って訪れた牛舎だが、未だに牛車引きの男も出て来ておらず、牛でさえ眠りに就いていた。

 そんな時間帯にも拘わらず、オレより先に起床して村の中を歩き回る男がいた。

 この村の外柵巡回を生業とする衛士の男性だ。

「カブトクヌイの木は、この辺りの山では十歩歩けば見つかると言うくらいには数が多いからなぁ。但し、カブトクヌイの臭いを嫌がるのは”パンラット”なんかの小型怪物リタルナだけだ。ま、中型以上の知能のある怪物は大人数の人間の臭いを警戒して滅多な事じゃ近付いて来ないから、役割は十分に果たせてるんだけどな」

「それで門付近にはカブトクヌイの木が植えてあるんですね」

 若い頃から村の衛士を務めているという彼は、村に古くから伝わる怪物対策にも精通しており、彼の知識はオレのような若い討伐士には非常に有益なものだった。

 都市では怪物除けの香など販売されているが、自然で獲れる植物で十分に代用可能だと彼は語るのだ。無論、効果や持続時間などの折衝から、市販の香が重用される場面は多くあるのだろうが、知識として有して損はない。

「気をつけにゃならんのは、壁から離れた平原なんかだと、カブトクヌイの臭いを人間がいる証拠みたいに覚えた、頭の良い怪物もいるって事だな。使い道を間違うと、怪物を引き寄せる破目にもなる。牛車が匂い

の少ないシジの木で出来てるのも、そのためだ」

 その後も男の講釈に耳を傾けていると、時間は速やかに経過していき、気付けば村内にはちらほらと村人の姿が散見されるようになった。依然として日出の時刻には遠いが、桶を持って村の中央に向かって歩いているのは、一日の生活用水を井戸に汲み上げに行っているからだ。水道設備の普及し始めた『北西都』内ではあまりお目に掛かれない光景だった。

「本当に困るのは、怪物同士の喧嘩だ。中型や大型の怪物に追われた小型の怪物は、生き延びる為ならどんな無茶でもしやがる。一度なんて、中型の怪物に追われた”シャオマー”の群れが、外柵を突き破って村に入って来やがったからなぁ」

「天敵から逃げる場面では、カブトクヌイの臭いを嫌う余裕が無いと言う事ですか」

「そういう事だ。怪物同士の狩り合いなんざ人間には関与のしようがないが、運悪く人里の近くでひと悶着あると、とばっちりを喰らい兼ねない。……頑丈な巨壁でも、運が悪けりゃ四年前のアレだからな。完全で安全な壁なんて無いって事だ」

「……」

 人の生き死には、薄氷の上を歩くような不安定に晒されている。どれだけ細心の注意を払おうとも、何時崩落するかも知れない。とは言え、それが完全に運任せであるのは辛い実情である。無論、最大限の対抗策は練っているのだが、最終的な部分が運次第ならば、危険性は全く減少していないに等しいのだ。

 そして運が悪い、の一言で多くの人々の死を結論付けてしまうのも、悲しい事だと思った。

「牛車で平原を渡るなんてのも、必ずしも安全じゃない。ま、今更言うまでもないか」

「えぇ、心しておきます」

 微かに白む空を認めて、男は外柵の巡回に戻って行った。

 近くの鶏舎では雄鶏が大音声で鳴き声を上げた。

 その鳴き声で牛も目覚めたらしく、豪快な鼻息が聴こえてくる。

 朝が訪れようとしていた。

 牛舎に併設された宿舎から牛車引きの男が姿を現したのは間も無くの事だ。

 自身の身支度もそこそこに、牛に水をやり、餌をやる。彼等の勤勉な態度によってオレ達は比較的安全な牛車での移動が可能になっているのだから、頭が下がる思いだった。

「パーシアスさん、でしたか。お早いですね」

 牛には人の胴体程もある肉塊を与えた直後、牛車引きの男は固焼きした燕麦を齧り始めた。勿論、拠点の街に戻れば多少は豪勢な食事を摂るのだろうが、目の当たりにすると恐ろしいものがある。自らの命や生活の全てを支える相棒への献身だとしても、とてもオレには真似できそうになかった。

「昨日の道程が余程恐ろしかったのか、寝つきが悪いもので。……失礼ですが、お名前をお伺いしても?」

「アルカスと申します。こいつは、ムトゥです」

蛮勇ムトゥ、ですか」

「豪快な名でしょう。そうでもなければ、平原は渡れませんからな」

「確かに。彼の勇敢な走りには、本当に助けられました」

 率直な感想を述べると、アルカス氏は相棒のムトゥの身体を撫でて嬉しそうに笑った。

「ここから南に”岩窟公テスタロト”はやって来ませんから、心配するのは別の怪物です。スードル河から出て来た”濁流公サロス”や、ガルガンタ渓谷の”風雲公ムルムル”は『牛』を警戒こそすれ、空腹ならば恐れず襲ってきます」

「見つからない事を祈るばかりです。しかし、いざという時は頼りにしていますよ」

 ムトゥに視線を投げかけると、静かに肉塊を齧るばかりで反応は無い。それでも、彼の立派な体躯は随分と頼り甲斐がある。昨日は彼の走りに助けられたのも事実なのだ。

「パーシアスさんは、ヒルデ山には怪物駆除のお仕事で? あの山には大した怪物は居ないと記憶していますが」

「流れ者が入り込んだらしいです。ワタシ一人で対処可能な程度ですので、運行には影響ないと思います」

「では、帰りも当方をご利用頂けますかな」

「それだけ速やかに依頼を終える事を願っていますよ」

 実際、アルカス氏の御する牛車に再び命を預けるのは、好ましいと思えた。エソ村周辺を徘徊していた”岩窟公テスタロト”には臭いを覚えられたかも知れないが、数日後の『北西都』行きの便が運行する頃には件の個体は平原を離れている可能性が高い。そして、別の個体に狙われたとなれば、ムトゥの脚で十分に逃げ切れるのだ。また、アルカス氏とも良好な関係を築けつつある今、この便は頻繁に利用していきたい牛車の一つだった。

 次第に明るさを増していく空と、人の気配の多くなっていく村内。牛車の出発時刻も近付いてきていた。

 牛が朝食を終えるのと殆ど同時に、牛舎には昨日と同じ『北西都』からの乗客である青年が入ってくる。彼とは碌に会話も交わしていないが、彼が危険を承知の上で牛車に乗り込むのは、クレタ町に急ぎの用があるのだと予想出来た。単純に彼が鉱山やヒルデ山に急用は無いと言う勘に過ぎないが、都会生活に慣れた様子からして、強ち間違ってもいないだろう。

 牛舎に集合した彼の表情は、相も変わらず暗く落ち込んでいた。怪物に着け狙われる緊張感に精神が参ってしまうのは、仕方の無い事ではある。しかし、彼の場合は壁外の移動に慣れていないのもあるだろう。街中での暮らしに慣れた市民には、怪物を間近に感じる壁外での活動は想像以上に精神を圧迫される。

 ”岩窟公テスタロト”などという一般人にまで危険性の知れ渡った怪物に着け狙われたともなれば、彼の心労は計り知れない。

 残念ながら、オレには彼の心労を取り除く術が無いのが実情だが。

「……もう一人はどうした?」

 青年がアルカス氏に問い質したように、牛舎にはアルカス氏を含めて三人しか集っていなかった。

 外套で全身を隠し、頭巾で顔を隠した旅人風の客がいないのだ。

「困りましたね。もう出発の時間なのですが」

「この村に一日滞在する判断をしたのでは?」

「ありえますね。一言くらいは伝えて頂きたいものですが……。出発しましょうか」

 遅刻の可能性も十分に考えられたが、こちらは彼の寝坊を待ってやる筋合いも特にない。

 『北西都』を経つ時も、彼は出発時刻いっぱいで牛車に飛び乗ってきた。だが、今回は出発時刻になっても姿が見えないのだから、仕方が無いので経つしかない。

 しかし、アルカス氏の判断に否を唱えたのは、何故か茶髪の青年だった。

「奴が乗らないなら、俺も乗りたくない。もう少しだけ待ってやってくれ」

 そう繰り返すのだ。

 正直に言えば、オレは彼の都合になど興味はなく、旅人の都合にも付き合う気はない。

 しかし、アルカス氏からすれば一人分の乗車賃が儲かるかどうか、という瀬戸際である。道程ではある程度の融通は利かせられるのだから、その範囲内でならば最終的な判断はアルカス氏に任せる事にした。無論、オレが目的地に到着が著しく遅れるならば、黙っている心算はないが。

 オレの意図はアルカス氏に伝わったらしく、彼は結局、僅かな時間だけ遅刻客の到来を待つ決断を下した。

「あの方の宿泊先はご存じ無いでしょうか」

 アルカス氏はオレと青年に問い掛けたが、揃って首を横に振った。

 偶然同乗しただけの他人の行動など、一々把握していないのだ。アルカス氏も当然ながら把握しておらず、牛舎内に三つの吐息が零れた。

 気になるのは、何故青年が旅人の動向次第で乗車するか否かを決断するのかだ。件の人物の宿泊先すら把握していないのだから、友人や同僚の類でもあるまい。昨日の牛車内の雰囲気からしても、互いに初対面で間違いないはずだった。

 そうなると、エソ村からキヌ村に向かう道中で二人が密に交わした会話に、彼が旅人に肩入れする理由がありそうだが、現段階では知り得ない。訊ねても良いが、赤の他人の都合を不用意に詮索するのも憚られた。

「クレタ町への到着時刻が遅れない限界は、どれくらいでしょう」

「二刻と言った所ですか。誤差の範囲で済ませられるのは、そこまでです」

「では、申し訳ないですが、それ以上は……」

「わかっています。申し訳ありません、こちらの都合に合わせて頂いて」

 と、一応の確認をしていると、牛舎のドアが乱暴に開かれた。

 入って来たのは、外套で全身を隠し、頭巾で表情を隠した素性どころか性別すら不明な、旅人風の人物である。相も変わらず表情は見えないが、肩で荒く息をしている事から、随分と急いでやって来たと分かる。どうやら、本当にただの遅刻だったようだ。

「……申し訳ない」

 小さく囁くように、そして掠れて聞き取り辛い声音で謝罪の言葉が述べられる。

 結果として遅れた時間はほんの僅かだが、遅刻は遅刻だった。

 アルカス氏は呆れたように、そしてオレは無関心に、結果として謝罪を受け入れた。茶髪の青年だけは見るからに嬉しそうに、そして安堵した様子で旅人を迎え入れた。やはり二人の関係性は不明だった。

 ひと悶着はあったが、彼の参上により牛車の乗客は全員が集合した事になる。

 キヌ村から新たに搭乗する客もいないようなので、牛車は速やかに発車の準備を整える。

 『北西都』を含め、巨大な街壁に囲われた都市では、壁門を開放するにも入念な準備が必要とされる。莫大な人口を保有する都市周辺には自然と怪物も集い、開門するには先ず周囲一帯の怪物を残らず駆除せねばならないのだ。

 無論、怪物の駆除は容易ではなく、相応の危険も付き纏う。開門は日に何度も行われはしない。

 しかし、巨大な街壁に守られない村々では同様の手続きは必要とされない。いつでも開放が自由とはいかないが、怪物が比較的に大人しい明け方や日没頃ならば、周辺の安全確認さえ行えば殆ど時間も掛けずに開門出来るのである。

 巨大で頑強な壁を拵えられない村などの集落では、怪物を物理的に跳ね返す壁ではなく、本能的に近付けない外柵を設置している為、根本的に周辺に近付く怪物が少ないからだ。多少村から離れれば怪物は大量に蔓延っているが、外柵の設置目的は飽く迄も怪物の村への侵入を阻む事にある。村から出た通行人の安否を考える必要もなく、付近に怪物が居らず、村に怪物が侵入する可能性が無いのならば、開門は可能となる。

 最低限、周囲の安全確認は手続き上、必ず行われるが、多くの場合、視認可能な範囲に怪物の姿は発見されず、村の門は時間差無く開かれる。

 今回もアルカス氏の要請により、門兵は村唯一の出入り口周辺の安全を確認し、開門と相成った。

 キヌ村の門を越えれば、先ずは僅かな傾斜のある広場を通過する。草木の生えない痩せた土地は村を囲う外柵の外側を一周している。

 キヌ村の外柵は二重構造だ。一の外柵が村を囲い、痩せた土地を挟んで二の外柵が設置されている。これは万が一でも、二の外柵を越えた怪物が現れた場合に一の外柵を越えられる前に発見し仕留める為の構造で、以前村が怪物に襲われた時も大半をこの範囲内で仕留める事で村内への被害を抑えられたと言う。

 そして二の外柵を囲うように幅広い外堀が掘られている。

 この四重構造とも言える分厚い防護機構により、頑丈な壁の無い村落は、人々を怪物から遠ざける事に成功しているのである。

 と言う知識はキヌ村の衛士を担う男性から今朝教わったもので、オレは実際にこの眼で構造を目撃した訳ではない。

 門を潜り、二つの外柵を通過して、堀を越える橋を渡る。この過程は出立の際、牛車の中からは見えないからだ。牛車から複数の人間の臭いが漏れれば、平原では怪物を誘き寄せ易い。その為、壁外を渡る車は窓を閉めるのが常識とされているのだ。

 だが、外の様子を予め説明されていれば、想像も容易い。牛車の小刻みな揺れは荒い砂利道を通過した証左で、規則正しい振動は橋の木目を通行した結果だ。不規則に、そして一度の揺れが特に大きいのは平原の轍を通行しているからだ。

 但し、周囲の様子を詳細まで窺い知る術はない。道中、例え怪物に囲まれていても、車内の乗客は暢気に座して待つ他無い。

 牛車は不規則に揺れていた。既にキヌ村の外堀は通過して、平原に差し掛かっている。

 ここから南にいくらか進めば、平原の先に町がある。クレタ町だ。

 『北西都』南部に広がるフロンス平原は、南東はペクトゥス山脈、東はスードル河を境に途切れている。

 クレタ町は山脈から下るスードル河の支流に栄える町だ。平原、山脈、河の全ての境であり、全てに属さない土地に位置する。多種多様な自然の恩恵を得られる一方、多様な怪物への対処が必要とされる町であり、純粋な防衛機構の充実のみならば『北西都』傘下の町村で最上級の評価を得ている。

 防衛力での評価ではない事が実情を物語っているが、北から西をフロンス平原、東をスードル河、南をペクトゥス山脈、上流のガルガンタ渓谷と言った脅威に晒されていては致し方ない。

 その中で『北西都』東部貿易の中継地として発展し、今や『北西都』傘下町村の要所の一つとして認知され、成長ぶりは強かだった。

 クレタ町の防衛機構で特筆すべきは、壁上に設置した固定型の弩弓だ。

 弩弓を扱う衛士の練度も高く、クレタ町に近付く怪物は多くが壁上からの狙撃により命を散らして逝く。これは地上のみならず、空中から飛行型の怪物に襲撃されたり、人には近付き難い川中から襲い来る怪物に対抗する為に発展した技術と言われ、クレタ町特有の防衛方法だ。

 『北西都』含め、大都市や近隣町村でもクレタ町の弩弓に倣い、壁上からの攻撃で怪物を駆除する意見は古くからあったらしい。しかし、多くの町村では弩弓を設置する為の壁がそもそも建造できず、『北西都』では既存の街壁が余りに巨大過ぎる為、弩弓の設置を見送っていると言う。

 技術力の進歩次第では大都市でも壁上に兵器が設けられる可能性はあるが、現在では見通しが立っていない。大都市に先んじて強力な防衛装置を発明したクレタ町の功績は、世界的にも稀有だ。

 また、嘘か誠か、噂では件の町では近年、新たな兵器が開発されており、近い将来、町中に設置される予定だと言う。

 噂の真偽を確かめる為にも、クレタ町に足を踏み入れるのは少々楽しみでもあった。

 クレタ町は陸上貿易で栄えた町だ。辺境の珍しい物品等も市場には出回っている。

 オレの滞在予定時間は酷く短いが、壁門付近に並ぶ出店では時に掘り出し物も見付かると言うのだから、期待せずには居られなかった。

 と、未だ数える程しか踏み入った事のないクレタ町の光景を思い出していた、そんな折。

「(おいおい、嘘だろ)」

 御者台と客室を繋ぐパイプからアルカス氏の呟きが聴こえてくる。

 その声は乗客に話し掛けるような声音ではなく、思わず漏れ出たという類の呟きだった。

 非常に珍しい事態だ。

 通常、壁外を渡る牛車引きの男は、牛車台では余計な声を上げない。御者の声に反応して怪物が襲って来る可能性や、自らの話し声が原因で怪物の襲撃の音を聞き逃す可能性が生まれるからだ。アルカス氏も例に漏れず、昨日の”岩窟公テスタロト”の襲撃の一件も含めて、壁外での彼は極めて事務的な声以外を発していないのだ。

 今の一言を除けば。

「(なんで、”パンラット”が牛車を……)」

 そこでアルカス氏は思い出したように口を噤んだ様子だったが、彼の短い呟きだけでも十分に異常性は伝わってきた。

 ”パンラット”はフロンス平原を中心に『北西都』周辺に無数に巣食う小型の怪物だ。小型の怪物の中でも、超小型。人の頭部程度の体躯しか持たず、怪物としては非常に貧弱で、討伐士の間では「怪物の餌」とも形容される。個体では脅威には成り得ず、しかし圧倒的な個体数により討伐士や衛士から嫌われる怪物だ。

 無論、”パンラット”が数体や十数体寄り集まったところで、牛に勝てるはずもない。生物としての強度は明確に牛が勝っており、牛車に乗っていれば、小型怪物など先ず脅威になり得ない。

 そんな弱小の怪物が、牛車を襲っていると言うのだから、異常事態である。

 真っ先に考えられるのは、アルカス氏の勘違いだ。

 ”パンラット”ではなく、”パンラット”に似た外見だが二回り大型の”アルキネ”と見間違ったとか。或いは偶然付近で姿を見せただけの”パンラット”に襲われると早とちりしたか。何れにしても、牛車が超小型怪物に狙われるよりは可能性は高い。

 とは言え、アルカス氏の勘違いや、アルカス氏の言葉が真実だとしても、余り関係は無い。

 何度も繰り返すが、”パンラット”は貧弱な怪物だ。奴等では『牛』を殺す事も出来なければ、傷つける事すら叶わないだろう。何より彼等の小さな体では、硬いシジの木で作られた車の外装を破る事は不可能だ。”パンラット”より多少は大きいが、”アルキネ”と見間違ったとしても、似たようなものだ。

 無論、停車した車ならば時間を掛けて破壊可能だろうが、走行中の牛車に飛び乗り、壁を食い破る程の力は持ち合わせていない。

 アルカス氏も切迫した状況とは判断しておらず、牛の歩みを速めない。同乗している茶髪の青年も、多少落ち着きが無いが大して慌てた様子はない。

 怪物につけ狙われるのは確かに非常事態と言えるが、それが直接的に命を脅かす危険に発展するとは限らないらしい。

 但し、奇妙な状況だとは思う。

 ”パンラット”が牛車を襲う例など、少なくともオレは耳にした事もなければ、想像した事もない。超小型の怪物からすれば、中型以上の体躯を持つ怪物は明確な強者であり、如何に空腹感に支配されていようとも襲撃の対象にはなり得ないはずなのだ。危険を冒して襲撃しても返り討ちに遭う未来は容易く想像でき、利益がない。

 ”パンラット”は小さく弱い怪物だが、代わりに数が多く、臆病で頭の良い怪物だ。無益な危険を冒すとは思えなかった。

 牛車を確実に破壊する方法を何処かで学んだのでなければ。

 現状、確かめる術はなかった。閉め切った窓からは外部の様子も確かめられず、音も聞こえてこない。本当に”パンラット”が居るかすら確認のしようがないのだ。

 パイプを利用してアルカス氏に状況を訊ねるのも危険だ。彼の集中を欠けば、牛車の走行に悪影響を与え兼ねない。

 事態は把握し切れないが、状況が悪化するまでは傍観して問題無いように思う。

 早朝にキヌ村を経ち、現在で凡そクレタ町までの道程の半分と少し経過した辺りだ。余程の非常事態が発生しない限り、この短時間で牛車が破壊されはしないはずだ。壁外では何が起きるか予測できないので楽観視はできないが。

 昨日の怪物に追われた時分に比べれば、車内は非常に穏やかな緊張感に包まれていた。ともすれば、エソ村からキヌ村へ渡った何も無い道々の方が険悪な空気に支配されていた程だ。

 クレタ町に近付けば一先ずの安全は得られるのだから、そう硬くなる必要も無いのかも知れない。

 数刻の間、奇妙な緊張感のまま牛車は進み、クレタ町までは更に数刻という距離まで迫っていた。

 相手が”パンラット”では実際に襲ってくる事もなかった。実は知らぬ間に襲って来ていたとしてもムトゥが静かに撃退していたのかも知れない。怪物に取り囲まれたにしては静かなものだった。

 だが、超小型の怪物が牛車を襲うのは本来、かなりの異常事態であり、その根幹にはオレには想像も付かない原因が潜んでいたらしい。それはオレでは予測も不可能な異例の出来事だが、だとしても、少々楽観し過ぎていたのだろう。

「(何だ、何だ。この数はっ)」

 パイプを通じて御者台からアルカス氏の焦燥に駆られた大声が客室に届き、オレは漸く事態が想像以上に重大で悪い方向に転がっている事を悟った。

 パイプからは、アルカス氏の悲鳴などが断片的に聞こえてくるのだ。

「アルカスさんっ」

 異常事態に見舞われている事など、考えるまでもない。

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