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Calm Eclipse  作者: 天谷吉希
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二話『力不足です』

 馬車は安定し、牛車は安全で、羊車は速い。

 一般に車を牽引する三種の動物は、討伐士ソーサラーの間では、そう評価されている。

 馬車は安定している。牛車より速く、羊車よりも安全性が高い。何より絶対数が多く、供給が最も安定しており、料金も比較的に割安である。

 牛車は安全だ。馬車より遅く、羊車より絶対数が少ないが、三種の牽引車の中で最も怪物(リタルナに襲われ難く、最も手綱が握り易い。

 羊車は速い。馬車より怪物に襲われ易く、牛車より牽引可能重量は少ないが、とにかく速い。速度だけなら随一である。

 牽引動物にもそれぞれ一長一短あるものだから、移動量の多い討伐士は三種の牽引車を時と場合で乗り分ける。街中の安全な土地の移動では馬車を使い、壁外の危険な道程では牛車に乗り、急ぎの用ならば羊車を繰る。時々の懐事情も大きく関わってくるだろう。

 但し、極一部の上位に君臨する討伐士は、馬でも牛でも羊でもなく、動物か怪物かも曖昧な生物に車を牽引させたりするが、それは本当に全体の極一部。征伐屋フォーム一家で一匹飼い慣らしているかどうか、という珍しさだ。彼の天才討伐士アルゴス氏でさえ、個人の私物としては保有していない程なのである。

 そんな一部の例外を別にすれば、多くの討伐士の場合、街壁を出て近隣町村に出向するには牛車を選択するのが大半だ。無数の怪物の蔓延る壁外を渡るのに、馬車では襲われる危険性が高すぎる。羊車は速いが、余程の急用でもない限り、怪物に襲われる危険や横転して立ち往生する危険も高い。結果として、壁外を移動するには牛車が最も適しており、歩みの遅い牛車の欠点を補足する為、時間に余裕を持って移動を開始するのである。

 オレも例に漏れず、未だ陽も昇らぬ暗闇の早朝に牛車の乗合所で出発時間を待つ。

 そして手持無沙汰に飽かせて周囲に目を遣り、改めて牛車の安全性を確信した。乗合所の片隅で鼻輪を杭に繋がれた牛と視線がかち合ったからだ。

 『牛』は巨大な生物だ。体高は悠にオレより頭二つ分は高く、その巨躯は分厚く弛んだ脂肪に覆われている。四本の脚は短く、歩みの鈍さの原因であるが、莫大な体重を支えるのに十分な太さがある。更には先端が鋭く尖り大きく婉曲した二本の角と、人の子程度ならば一呑みに出来そうな巨大な顎と、巨大な顎からすらはみ出す鋭利な牙である。

 今でこそ人に飼い慣らされて大人しいが、本来の性質は凶暴にして獰猛。人は襲わないよう訓練されているが、時には襲ってきた怪物を逆に喰い殺すという。

 仮にオレが怪物ならば、少なくとも牛車は襲わないだろう。

「素晴らしいでしょう。こいつはまだ若いが、こいつの兄弟はあの『心の平行ハーツ・サーテ』にも特注で買われるくらい、両親共に立派なでね。今回の運行は、特に安心で安全な道程になること間違い無しです」

「それは、心強いですねぇ」

 牛車引きの中年男性は、牛の体を撫でつつ自慢気に話した。

 体を撫でられて気持ち良さそうに目を細める牛の姿は、成る程、人に危害を加える心配は無いのだろう。だが、同時に、大人しそうなこの生物で、本当に怪物を遠ざけられるのかと不安にもなる。無論、壁外を渡るのに絶対の安全など保証されないとは解るのだが。

 依然として陽は昇らず、屋外は暗闇に包まれているが、いよいよ数刻後に壁門の開門を控え、遠くの壁上では多くの衛士達がラッパを鳴らして壁門付近をさ迷う怪物を狩り始めた。一度の開門毎に多大な労力が支払われ、その苦労も閉門後数刻内には怪物達によって無に帰す。人の営みを害する怪物の存在は、実に忌むべきものだと実感した。

 ラッパの音を遠く聞き、壁上で忙しなく動く篝火を眺めて出発予定時刻まで暫く待機していると、乗合所には続々と乗客が集まってきた。続々と、とは言うが、乗客はオレを含めて僅か五人しかいない。他の面々は、乗客が越壁申請を終えているかを確認する審査官であったり、乗客が不審物の壁外に持ち出そうとしていないか手荷物を改める監査官だ。

 未だ陽も昇らない時分からご苦労な事だが、オレを含めた全ての乗客は、彼等の指示に従い越壁の許可証を提示し、手荷物を差し出して中身を開示した。勿論、多くの善良な市民がそうであるように、妙な物品を持ち歩く人物は見付からず、刀剣やナイフを持ち歩くオレも、討伐士の一人と証明すれば、何ら問題には発展しなかった。

 そうして滞りなく審査は進み、五人の乗客が牛車に乗り込む頃、慌てた様子で一人の旅人が乗合所に飛び込んで来た。飛び込みの乗車、或いは遅刻だろうか。

 『北西都』ランダイに在住する人々は、街壁から出る為には申請書を提出し、許可証を発行して貰わねばならない。だが、反対に外から『北西都』に入場している者には滞在許可証が交付されており、外部から訪れている商人や旅人などは、牛車の出発時刻ギリギリになってからでも壁越えの意思表示が出来るのである。他の乗客や監査官には余り良い顔をされないが、急用に追われる例もあるのだから、一概に責める事は出来まい。

 先に審査を終えた乗客達は牛車の中で最後の乗客の審査を待ち、牛車引きの男は牛に水を与えて出発の刻を待った。

 飛び込みで来た旅人は、何やら監査官に注意を受けていた。微かに聞き取れる単語を拾い集めれば、どうやら護身用に所持していたナイフを見咎められたらしい。結局、二人の間でどう折り合いを付けたかは不明だが、旅人は牛車に乗車して静かに席に着いた。

 寒くもなく、雨も降っていないのに、旅人は外套で全身を隠して更には頭巾を目深に被って素顔も見えない。姿格好は怪しい限りだが、監査官の審査を潜って乗車した彼、若しくは彼女を見咎められる人物は車内にはいなかった。

 乗客皆が乗車した事を確認し、牛車引きの男が注意点を述べる。

 走行中はみだりに席を立たない事。許可なく窓や扉を開けない事。車内で非常事態が発生した際は、窓を叩いて彼に伝える事などだ。忠告を破れば、音や匂いに反応した怪物に目を付けられる恐れがあり、乗客全員の命に関わると念を押された。

 説明が終わるとほぼ同時に、壁門の方向から甲高い鐘の音が響き渡る。開門の準備を終え、正にこれより門が開かれようとしているのだ。

「それでは出発します。最初の目的地、エソ村まで休憩はありませんので、ご了承ください」

 そう締めくくり、牛車引きの男は客室を後にした。

 すぐさま車体が大きく揺れて、牛車が発車した事を悟る。一般客に過ぎないオレは、いつも牛車の中に籠っていて実感が湧かないが、オレ達はこれから無数の怪物が蔓延る壁外に出立しようとしているのだ。いつ命を落とすか知れない危険地帯である。

 とは言え、オレが気張ったところで怪物の数が減る訳でもなければ、強襲してきた怪物に対抗できる訳でもない。道中の安全を心の中で願いつつ、背凭れに体を預けて暫しの休息とする事にした。

 閉ざされた雨戸からは外の様子は窺えないが、待機時間を考えると既に外は陽も昇り始めて、多少は明るさを湛えている頃だろう。夜行性の怪物が活動を止め、未だ昼行性の怪物は活動を始めていない。最も開門に適した時間の一つだ。

 ほんの僅かな時間、牛車に揺られていると、窓の隙間から甲高い鐘の音が漏れ聴こえる。開門時とは異なる拍子で打ち鳴らされる鐘は、閉門を報せる合図である。気付かぬうちに壁門を通過していた事を知り、多少だが緊張感を覚える。

 牛車の薄い壁の向こうには、怪物の闊歩する平原が広がっているのだ。巨大な街壁の庇護から逃れる不安は、何度味わっても馴れぬものだった。

 しかし、これから怪物の駆除をしようとする討伐士が、怪物に怖れを抱いていては話にならない。一つ小さく息を吐き、心を落ち着ける。

 そして、これから向かう村でオレが達成すべき依頼が記載された資料を取り出して、業務内容を再確認する。

 依頼主はヒルデ山の中腹にある農村。何て事は無い、ただの討伐依頼である。

 ヒルデ山には、基本的に人には害を与えない、若しくは肉体の強度が弱く村人でも容易く対処可能な怪物が多い。だからこそ、ヒルデ山に居着く人々は農耕によって生計を立てる事が出来ている。

 だが、比較的危険度の低い怪物が住み着くヒルデ山にも、何らかの拍子に危険度の高い怪物が迷い混む事がある。それが今回の事案の発端であり、その危険な怪物を討伐するのがオレの仕事だった。

 無論、危険な怪物とは言っても、オレのような木っ端討伐士でも単独で対処可能と判断される程度の弱小怪物に過ぎない。件の農村で対抗出来ないのは、飽くまで件の怪物に対する専門的な知識の不足と装備の不足であり、所詮、オレは怪物に対する専門知識の一点のみで優位に立っているに過ぎない。

 その専門知識がオレの商売道具なのだから、オレは生計を立てられるのだが。

 標的となる怪物は、本来的にはヒルデ山に生息しない種だが、周辺一帯で言えば個体数が多く、『北西都』では代表的な怪物の一種だ。新人の討伐訓練の相手としても用いられる他、大型の怪物を誘導する為の囮にするなど、研修を終えた新人討伐士には馴染みの深い怪物となる。斯く言うオレも、数ヶ月前まで同じ種で戦闘訓練を受けていたのだから。

 数ヶ月前に受けていた戦闘訓練を頭の中で反復し、討伐方法を確認するが、特に大きな問題は思い付かなかった。精々が、指導教官のいない本番である為、失敗すれば直接命に関わるという心配だけだろうか。だが、件の怪物に限らず、更に貧弱な怪物相手でも失敗すれば命は無い。死の危険が常に隣り合わせである状況は、今回限りではない。やはり、特に大きな問題点は見当たらなかった。

 以上の判断は、オレの上司にあたるアルゴスさんに話を持ち掛けられた段階から、幾度となく思考した結論だ。アルゴスさんに言わせれば、オレことパーシアスは『件の怪物の単独討伐に至るに十分な訓練を積んでおり、個人の技量を以て必ずや村を危険から遠ざけると信頼するに値する』らしい。所詮は新人の練習相手に過ぎない怪物には、世界的にも稀有な才能と技量を有するアルゴスさんが時間を割いて討伐する価値はない。だからと言って未だ実戦経験を積む段階で足踏みしているオレなんぞに依頼を割り振るには、少々以上に大袈裟な言い回しであると思う。

 要約すれば、この程度ならパーシアスくんでも駆除出来るはずだよ、というだけの話だ。実際、オレもそう思う。

 だが、討伐自体に問題が無いのはアルゴスさんの御墨付きとしても、その他の部分でも気を抜けない。

 例えば、標的である怪物の発見に無駄な時間を要して契約期間中に討伐完了出来なかったり、契約内容の些細な文言を逆手に取って依頼主が報酬の支払いを渋ったりと言う問題は、例え細心の注意を払っていたとしても発生しかねない。少なくとも契約内容に不備が見当たらない事は事前に何度も確認しているが、それでも酷い難癖を付けて支払いを渋る曲者は一定数存在する。殆ど運任せにも近い話だが、オレの心労を減らす為にも、善良な依頼主である事を祈る他無い。

 等と、いつも変わらず不安定な未来を憂いていると、車体が一際大きく揺れ、その揺れが継続して収まらない。先程までは特段、揺れも気にならない快適な走行だったが、現在はお世辞にも快適とは言い難い。悪路走行というには左右よりも上下への揺れが大きい。感覚では、どうやら悪路に突入したのではなく、牛車が速度を上げたのが揺れの原因らしかった。

「……(少々厄介な怪物に見付かりました。襲われる心配はありませんが、牛が興奮するので少し急いで振り切ります。揺れますが、ご容赦願います)」

 御者台と客室を繋ぐパイプから、牛車引きの男の囁き声が聴こえる。どうやら、乗客から見えない車の外では、牛と怪物の睨み合いが始まったらしい。如何なる怪物に目を付けられたか知らないが、牛に絶大な信頼を置く男に『少々厄介』と言わしめる怪物である。これが牛車でなければ、一堪りもなかった可能性もあった。

 客室に異様な緊張感が漂い、想像以上に長引く牛車の揺れが乗客達の気分を害した。

 地元の村に帰る途中なのだろう、老婆などは顔を真っ青にして夫か息子と思われる男の名前を何度も呟いている。すぐ近くの席に座る青年が老婆の背中を擦って、大丈夫だと言い聞かせるが、気休めにもならない。

 やがて時間の感覚すら忘れる張り詰めた時間が経過した頃、牛車は再び大きく車体を揺らした。速度を落としたのだ。

「間もなく、エソ村に到着します」

 例の怪物がどうしたかなど、尋ねる必要もない。速度を落としたのが、答えである。

 車内にはあからさまに大きな吐息などが何度も零れ、喫緊の危機が去った事を皆で共有していた。

 街壁の外は怪物どもの巣窟であると、改めて実感する。牛が牽く車ですら、この危うさだ。街の付近の弱小怪物を一匹相手取るだけで精一杯のオレでは、この広い草原を歩く事すら出来まい。我が身の矮小さを痛感するばかりだ。


 * * *


 エソ村における怪物リタルナ対策は、『北西都』程に巨大で頑強な街壁に頼ったものではない。土塁、有刺鉄線、木杭、堀を組み合わせた簡易な外柵である。人口は数百人程度の小さな村で、彼等住人の手ずから作り上げた防護柵は、車を牽引する牛の突撃一つで破れそうな程に頼りない外観だった。

 しかし、実際には質素で隙だらけに映る外柵も、天然の土地の勾配を巧みに織り交ぜる事で、怪物は容易く近づけぬよう工夫されており、外観以上の防護機能を発揮しているのである。また、一部の怪物は煩わしい有刺鉄線を嫌う習性があり、別の怪物は木杭に用いられるカブトクヌイの発する成分を嫌うなど、非常に理にかなった構造になっているらしい。

 この外柵は定期的に手入れをされつつも、数十年にわたり村人を怪物の脅威から守護し続けている。

 外壁周囲の哨戒を生業とする村人の衛士に話を聞きつつ、都市外では都市外なりの工夫が生活を支えているのだと感心する。莫大な資本に任せた人海戦術で、頑強な壁を頻繁に補強する『北西都』には無い発展の方向性である。

 見習うべき点は、幾らでも思い付いた。

「それにしても、不幸だったなぁ、おたくら。まさか”岩窟公テスタロト”に目ぇ付けられるとは」

 村門上部の櫓から、牛車に付き添いで待合所まで来た衛士だった。牛すら逃げ出す怪物が村の近辺で出没した情報を得たのだ。詳細な情報を牛車引きの男から聞き出していたらしい。

「……まったくです。逃げ切れた事が、奇跡としか言えません」

「それもこれも、あの若い牛が良い脚しとるからよ」

 村人と共に今回の功労者である『牛』に視線を向ければ、彼は水樽に頭部を突っ込んで大量に水分を補給していた。牛には滅多に見られない程、長距離を走った結果である。お陰様で怪物の脅威は振り払えたが、牛は体力を使い果たしたらしく、暫しの休息を要していた。とは言え、彼の疾駆のお蔭でエソ村には予定時刻よりも随分早く到着したので、休憩時間は十分に摂れる予定だ。

 以降の道程でも、彼の走りに期待する場面には遭遇するだろうから、今はゆっくりと回復して貰いたいところだった。

 外柵の巡回に戻るという衛士を見送って、七人もの人間の命を救った英雄の下に近付く。

 呼吸を荒くし、巨体を上下させる彼は、素人目にも多大な疲労に襲われている事が窺い知れた。

「予定通りに出発できそうですか」

 牛の巨体の向こう側では、牛車引きの男が、牛の餌を用意していた。大の大人の胴体程の大きさもある肉の塊だ。疲労回復を見込んでの事か、男は生肉に砂糖を塗し掛けている。

「問題無いでしょう。走った分だけ早く到着しましたから、休憩時間も十分にあります」

 砂糖付きの生肉をナイフで切り分けては、牛の口の中に放り込んでいく。鋭い牙を大きな顎で豪快に動かして咀嚼する様は、疲労を感じさせながらも力強く映る。回復までの時間が確保出来るなら、再び彼の立派な走りに期待出来そうだった。

「ただ……お客さんの何人かは、今日はもう乗車を見合わせるそうです。牛車自体が岩窟公テスタロトに目を付けられた可能性がありますからな、正常な判断でしょう。今日のところは村で一泊して、別の牛車に乗り直す事になるでしょう」

「当然と言えば当然ですか。怪物の襲撃に慣れてなければ、並みの心労ではありませんから」

 水をよく飲み、肉をよく食らう。力強い走りを見せてくれた彼も、肉体に限らず、精神的にも疲労は感じているらしい。凶悪な怪物に長時間も追われ続けたのだから仕方あるまい。それでも、まだまだ車を牽引して貰わねばならないのだが。

「出発までは今しばらく時間が掛かります。あなたも、今のうちに休憩しておくと良いでしょう」

 牛車引きの男に促され、牛舎を後にする。ここエソ村を経てば、次のキヌ村に到着するまで牛車は止まらないのだ。牛は当然にしても、人間も食事や手洗いは出発前に済ませておく必要があった。

 とは言え、時刻は依然として昼前だ。朝食を摂ってから大した時間も経過していない。空腹感はなかった。

 余った時間の消化に困り、牛舎の隣に建設されている牛車の乗合所に入る。そこには、たった二人の乗客しておらず、オレを除けば三人の乗客が、本日中の牛車での移動を断念した事が分かる。ここに残った二人の乗客も、オレのように時間に追われて立ち止まれないか、或いは怪物の脅威を理解出来ない命知らずかのどちらかだ。

 一人は、先刻、怪物に着け狙われた牛車の中で、恐怖に震える老婆に励ましの声を掛けていた青年だ。年齢はオレより十は上回っていそうで、怪物の脅威を理解していないという事もあるまい。余程、重要な約束に追われているのだろう。出来る事ならば牛車に乗りたくないと考えているのか、表情は暗かった。短く刈り込んだ茶髪を掻き毟る姿は、周囲からは想像も出来ない心労に苛まれている事を悟らせた。

 もう一人は、『北西都』ランダイを経つ寸前の牛車に飛び込みで乗車して来た旅人風の彼または彼女だ。依然として外套で身体と顔を隠しており、表情などの情報は一切読み取れない。重要な予定があるのか、ただの命知らずかすら、分からなかった。

「あ、あんた討伐士ソーサラーだよな?」

 乗合所の古びた木製の長椅子に腰掛ければ、殆ど対面に位置する青年に声を掛けられた。僅かながら声は震えていて、事情は知らないが街外に用事があるなど不憫な事だと思った。

「そうですが」

「もしも牛車が怪物に襲われたら、あんたが撃退出来るよな」

「あぁ……」

 どうやら彼も、重大な思い違いをした一人らしい。

「恐らく、不可能でしょうね。ワタシ一人で対処可能な怪物の種類は限られていますから。牛車を襲うような凶暴な怪物ともなると、ワタシ一人では大した戦力になりませんよ」

「なんで……討伐士だろ?」

「えぇ、すみません、力不足です」

 討伐士は確かに怪物駆除の専門家だろう。討伐士に怪物への対処を期待する彼等一般人の発想は決して間違っていないはずなのだ。ただ、彼等の最大の思い違いは、討伐士が人間を越えた英雄の集まりだと認識してしまっている事だ。違う。そんな討伐士は、世界的に名を馳せる極一部の天才だけだ。

 多くの討伐士は、オレも含めて、怪物駆除の専門家ではあるのだろうが、凡人なのだ。

 一般の認識と実情の齟齬。それを理解出来ない青年は、恨めしそうにオレを睨み付けてから大きく息を吐いて俯いた。期待に沿えず申し訳ないとは思うが、そもそも如何な怪物でも自力で対処出来るならば、移動手段に牛車を選択しない。

 ふと、視線を感じて視線を横にずらせば、乗合所に待機するもう一人の客を目があった。口元まで服の襟で隠し、頭部は変わらず外套で隠されていて表情は見えない。しかし、狭い隙間の影から微かに光るものが見えて、それは確かに瞳だったのだろう。直ぐに視線は逸らされてしまったが、目を細めて此方を睨んでいたのだと思う。

 二人の乗客に責められているようで、非常に居心地が悪くなる。それもこれも、オレが分不相応に討伐士になんぞ成ってしまったのが原因なのだが。

 重苦しい空気に支配された乗合所は、暫しの間沈黙が落ちて、じっと出発の時を待った。

 牛車引きの男が出発の声を掛けに来たのは数刻後の事で、それまでの間、乗合所では全く会話がない。知人でもないのだから当然と言えばそれまでだが、オレにとっては非常に居た堪れない時間だった。

 三人で乗り込んだ牛車は、『北西都』を経った時よりも随分と広く感じた。安全性が高いと言われる牛車でも、実際に危険を間近に感じると乗車は避けたくなるものだった。オレや御者の場合は、危険を覚悟で現在の職業に就いているが、ただの移動の為だけに危険に晒される他の乗客は不運な事だと同情の念を禁じ得ない。

 見送りに来た村の衛士や、途中下車した客達も、こちらに不安気な視線を送ってくるから、余計に不安が煽られるようだった。

「不安は分かりますが、キヌ村まで着けば今日は安全ですからね、そう怖がる必要もありませんよ」

 乗客と比べて非常に暢気な物言いの牛車引きの男の言葉だが、乗客たちはそれで気を休めてやる余裕もなさそうだった。一応は大人しく乗車はするので、男も加えて何を言う事もなかったが、車内の空気感は非常に重い。特に茶髪の青年は先刻よりも、目に見えて気落ちしていて、掛ける言葉も見当たらない。

 しかし、乗り込んでしまったからには引き返す術もなく、静かに発車した牛車に体を揺すぶられて青年は顔を更に青くした。

 一度怪物に目を付けられた牛車は、再度襲われる危険性が高まると言う。

 理由は単純に、怪物に臭いを覚えられたせいで発見され易くなるからだ。襲ってきた怪物を明確に追い払い、こちらが厄介な獲物だと示威行為でも出来れば襲われ辛くなるというが、残念な事に今回同乗する客達の中に、怪物に一人で対抗可能な戦力は含まれていなかった。

 敢えて言えば、車を牽引する牛が最大戦力ではあるが、現在、牛車を着け狙う怪物”岩窟公テスタロト”に対抗するには心許ない。草原の暴君とも呼ばれる凶悪な怪物である。下手に敵対するより、牛の走りに任せて逃げ切る方が確実性は高い。

 とは言え、”岩窟公テスタロト”の生息域は主に平原北の岩山とその周辺と言われている。エソ村より南側にまで追跡して来る可能性は低いと思われた。これはオレと牛車引きの男、そして村の衛士の共通認識で、以降の運行に於いて奴を恐れる心配は余りない。

 但し、壁外を渡る以上、”岩窟公テスタロト”とは異なる怪物に襲われる可能性も十分にあり、決して油断はできない。ましてや牛車を襲撃する程の強力な怪物ともなれば、オレ程度の討伐士など居ても居なくとも変わりないのだ。

 揺れる牛車の中、三人の乗客は揃って俯き加減で非常に空気が重い。危険と隣り合わせな状況など、牛車に乗り込む前から変わっていないのだから、ここまで不安がる必要もないと思う。無論、言葉で理解する事と、間近で実感する事には大きな隔たりがあるとは分かるのだが。

 そんな状態で暫く揺られていると、耐え兼ねたというように、旅人風の客が茶髪の青年の肩に触れた。『北西都』を経って以来、彼が自発的に動くのは初めての事で少々興味が惹かれた。

 旅人風の彼は、茶髪の青年の耳元に口を近づけると何やら小声で囁いたらしい。狭い車内にも拘らず、オレには聞こえない程の小声である。それもほんの一言二言で、耳を澄ます暇すらなかった。

 それでも、声を聞いた青年はあからさまに安堵の表情を浮かべたから、内容が気になって仕方が無い。恐らく旅人風の彼が、牛車が襲われないという根拠でも述べたのだろうが、それにしては文言が短かった。また、未だ不安気な表情を見せつつも、随分と気は楽になったようで、余程効果的な言葉だったのだろう。

 一体何者かと気になり旅人風の客に視線を送ってみるが、やはり頭巾と外套の僅かな隙間から鋭い視線で返されるばかりだ。

 忙しなく体を揺すり、時には頭を掻き毟って苛立ちを隠しもしなかった青年は、それ以来、表情は暗いままだが思い出したように息を吐いて平静を取り戻していた。傍らから観察すれば、呪いの類でも教わったのではないかと思うような変化である。

 同乗するオレとしても、彼の心が無用に押し潰されるのを望んではいないので有り難い話である。

 幾らか軽くなった車内の空気に、オレも漸く息が出来た思いがした。

 今日これから、何の問題も発生しなければ、牛車は次の目的地キヌ村に到着する。エソ村よりも大規模な村であり、今日はキヌ村の宿舎で夜を明かす事になる。そして明日の明朝にはキヌ村を経ち、昼前にはクレタ町に到着予定で、昼過ぎにはオレの目的地であるヒルデ山の麓を経由して、牛車は終点のコボ鉱山に向かって行く。

 オレ達の本日の道程は飽く迄もキヌ村までだ。一晩も明かせば、茶髪の青年の心労も幾分か回復が見込めるだろう。それもほんの数刻の我慢である。

 オレ個人の問題としては、明日の昼過ぎからが本当の戦いであり、不安は今から募っていくばかりなのだが。



 牛車が無事、怪物に襲われる事なくキヌ村の乗合所に到着したのは、予定通りの夕刻だった。


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