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Calm Eclipse  作者: 天谷吉希
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一話『ワタシは凡人なので』


 ふとした拍子に過去に想いを馳せてみれば、世界を震撼させたあの重大事件が発生してから、既に四年近い歳月が経過している事に気付く。

 山すら跨ぐ超弩級の怪物リタルナの存在が明らかになり、『北西都』ランダイと『西都』イーウェの征伐屋フォームが共同で討伐遠征を行った事件だ。正確には、『西都』から高名な討伐士ソーサラーが幾人も出向し、その後、『北西都』が半壊した日である。

 あれから四年、事件について詳細を想起すれば未だに背筋に冷たいものが走る。街は随分と復興し、今や街中に刻まれた事件の爪痕など殆ど消されているので、かつての暴虐の記憶も忘却されようとしているが、実際には身の毛もよだつ凄惨な事件であったのだ。

 記憶の中で惨状を鮮明に思い浮かべられる限り、件の怪物リタルナについて、また彼の事件について恐怖が薄れる事はあるまい。しかし、現状では何らかの拍子に頼らねば記憶の表層に浮上して来ないのも事実である。詳細も恐怖も忘れはしないが、こうして記憶は次第に薄れていくのだろうと実感した。

 当時は世界中が恐怖に慄いた重大事だが、今や巷で最も気にされる話題と言えば、近日中に『北西都』を訪問する予定の有名な討伐士ソーサラーの歓迎式典についてだ。強かと言えば聞こえは良いが、実質的には暢気なだけだろうと思う。次は何時、凶暴で強大な怪物が街に侵攻して来るか知れないと言うのに、全く危機感が足りないのではないかと呆れる程である。

 とは言え、純粋に強かとみても良い。『北西都』を囲う街壁の外には常に無数の小型から中型の怪物が蔓延っており、いつ何時、壁を越えて民間人を襲うとも知れないのだ。だからと言って常に気を張り、全く息抜きも出来ずに生涯を終えられるはずもない。何処かで休息は必要なのだから、数年単位でしか発生しない重要事に対し、ここぞとばかりに楽しもうとするのは決して楽観が根幹にあるばかりではないだろう。

 何れにせよ、『北西都』の復興は軒並み終了しており、後は人々の不安の種が取り除かれ、そして怪物に対して従来以上の対抗力を身に付ける事が出来れば、社会は一つ成長し、強固になっていく。少なくとも、従来通りではなく、一歩踏み込んだ成長を人々が見せてくれる事を心より祈るばかりである。

 何故オレがこのタイミングで過去の事件に想いを馳せたかと言えば、我ながら実に下らない感傷に浸ってしまったからである。

 オレの所属する征伐屋フォームの本拠地の一室で、オレは一人の少女と対峙していた。互いに名も知らず、存在すらも初めて認知し合った者同士だ。未だ言葉すら交わした経験はなく、彼女がオレの居る事務室に入室し、椅子に座するまでの間に、オレは過去の感傷に意識を浸食されたのだった。

 対面の椅子に座する少女は、歯に衣着せずに表現するならば、有り触れた村娘だった。衣服は古く擦り切れてみすぼらしく、乱雑に切り落とした金髪は洒落っ気とは程遠い。頬は痩せこけ、鼻は低い。少なくとも、彼女の容姿に見惚れてオレが呆けていた訳ではなかった。

 ただ一点、蒼く大きな彼女の瞳だけは、記憶の彼方で間近に目撃した二つの輝きと類似した輝きを放っていた。要は過去にはオレの友人であった一人の少女と、現在のオレの前に座る少女は面影だけはどことなく似ているように思えて、ふと過去を想起してみたのである。

 よくよく少女の顔を確認すれば、全く以て見覚えもなければ知人に似た容姿もしていないのだが。力強い眼光だけが、微かに過去の記憶と重なっていた。

 それがオレの心の脆弱な部分を刺激して、僅かばかり困惑したのである。

「どうしました?」

 オレに瞳を正面から覗き込まれて気にでも障ったのか、少女は苛立出し気に口を開いた。掠れた声音は、やはりオレの記憶とは重ならない。眉をひそめて鋭く細められた瞳も、もはや全くの別物であった。

「いえ、失礼。エリス・ディスコルディアさんでお間違いありませんね」

「そうですけど、私は新人研修があると聞いて伺ったんですが、担当のロレンスさんはどこに?」

 彼女の口調は強く、そして冷たい。

 彼女の言う通り、彼女は今日、新人討伐士に行われる研修の為に訪れているのだ。そんな期待と不安に満ち溢れた状態にも拘らず、通された先でオレのような冴えない若者に会わされ、不躾に顔を観察などされれば不愉快にもなるだろう。但し人間関係を構築する上では、非常に危ういと思った。

「ロレンスさんは急に討伐遠征の依頼が飛び込んで、現在は街に居ません。代わりに本日はワタシが担当します。パーシアスです。どうぞ、よろしくお願いします」

「そうですか。エリス・ディスコルディアです。よろしくお願いします」

 改めて自己紹介を終え、手元の資料に目を通す。そこに記載されているのは、彼女がこれまで歩んだ人生の大まかな記録と、先日実施された採用試験の成績だ。

 彼女の出生が何処であろうと関係はないが、どうやら『北西都』出身ではないようだった。どちらかと言えば『西都』に近い山間民族の出身であり、態々『北西都』に来て討伐士を志すのは珍しいと思った。特に女性ならば『西都』の方が暮らしやすいだろうに。

 採用試験の成績を見れば、比較的に身体機能は高い事が窺い知れる。瞬発力に関しては新人とは思えぬ成績を残しており、持久力も目を見張るものがある。武器の扱いは慣れていないようだが、新人ならば平均程度と言える。彼女が山間民族の出である事を鑑みれば、多くは山林での生活で培ったものだと分かる。

 反対に一般教養は欠けているらしい。読み書き計算程度は熟すが、知識量などは低い。特に集団行動は評価が低く、遠征には矯正してから望まなければ致命的とすら判断されていた。

 総合評価は新人としては平均よりやや下程度か。戦力としては有望だが、仲間としては不適格。研修でも集団行動を重点的に教育するよう指示されている。

「ディスコルディアさんは、前回の研修でどこまで話が進みました? 手元の資料では討伐士としての業務までは一通り説明済みと記載されていますが」

「そう書いているなら、そこまで聞いたんだと思いますよ。確か、依頼書や契約書など、記入する書類が多い的な、そんな話をした覚えがありますけど」

 では、研修の進度は順当だと言う事だろうか。今回が二回目の研修らしいので、大きな誤差が生じないのは当然だろうか。オレ自身は新人の教育係りに就いた経験が皆無なので、よく分からない。

 業務についての話が終わっているならば、次は出向先で出会った現地人への対応だ。人の社会で暮らす以上、人間関係から逃れて過ごす事は出来ないのだが、彼女に関しては最も苦手な分野なのだろうと思った。

「ロレンスさんにも訊ねましたが、実際の所、この研修に意味なんてあるんですか? 私的にはさっさと戦闘訓練や演習をしたいんですが」

「あぁ……」

「討伐士の仕事は、怪物を駆除する事でしょう? なんで態々、面倒事を増やして時間を取らなきゃいけないんですか」

 彼女の場合は、不得手ではなく、忌避らしかった。

「前回、教わりませんでしたか? 討伐士の業務は怪物を駆除する事ではありませんよ」

 一般人や新人が頻繁に陥る勘違いだ。

「……違うんですか」

 討伐士が怪物に襲われた危険地帯に颯爽と現れ、脅威を除いて去っていく正義の味方か何かと勘違いしているのだ。

 もしも彼女等の思うような討伐士しかいない征伐屋フォームならば、一体どのようにして構成員達は金を稼いで飯を食っているのだろうか。彼女自身、その考え方で一体どのようにして先の生活を続けていくつもりなのだろうか。

「討伐士の業務は、怪物を駆除する事ではありません。怪物を駆除して依頼者から返戻金を頂く事です」

「何か違うんですか」

「無償で怪物の駆除をしたいなら、征伐屋フォームに属したりせず一人で怪物征伐の旅にでも出て、聖人君子とでも呼ばれていればいいんですよ。討伐士の業務は飽く迄も怪物の駆除を行う対価として、金銭を受け取る事です。つまり怪物の発見、報告、駆除依頼を送付してくる依頼者は顧客です。お客様への対応マニュアルを身に付けないまま、現場に職員を派遣する訳にはいきませんから、研修は徹底的に行われるのですよ。お客様に失礼を働いて征伐屋の評判が下がれば、結果的には業績が低下しますから。お分かり頂けましたか」

 一息に言い切ってしまえば、目前の彼女は得心がいかないとばかりに眉を寄せて黙り込んだ。そのような態度を依頼者に向けないようにする為の研修なのだ。やはり彼女に関しては他の新人よりも研修期間を長く見積もる必要がありそうだった。

「お分かり頂けたなら、本日分の研修に……。いえ、討伐士の業務を正確にご理解頂けていないようですので、前回の復習から始めましょう」

 そう言えば、彼女は露骨に顔を顰めた。彼女は根本的に座学が苦手なようだ。

 一般的に誤解されがちだが、討伐士は黙々と怪物を虐殺していれば金銭が得られるような、乱暴者の就く職業では決してない。

 彼女にも説明した通り、依頼者との顧客関係を維持する為には最低限でも礼儀作法は必要とされる。また現場には討伐士は身一つで向かう機会も珍しくなく、現場では不測の事態が発生する事も珍しくない。そして想定外の事態に陥った時、討伐士は個人の知識と頭脳だけで切り抜けねばならない。更に依頼主との値段交渉を自身で行うなど、業務内容は商人とそう大きくは変わらない。何も考えず、怪物を駆除するだけが討伐士ではないのだ。

 座学が苦手などと我が儘は赦されない。

「例えばですが、私が研修の内容を半分程度しか理解できない状態で研修期間を終えた場合でも、実際に怪物討伐の為に街外に遠征に向かう時は、交渉事に慣れた他の討伐士と二人で組んで行動すれば問題無いんじゃないですか」

「……そうかも知れませんね。戦闘以外の部分で大きな欠陥がある新人と組んでくれる物好きがいれば、の話ですが。仮にワタシがそんな討伐士に話を持ち込まれても拒否しますね。危険な怪物と相対する現場に向かうのに、中途半端な技能しかない討伐士に隣に居られると、むしろ不安になりますから」

 彼女は視線を細めてオレの顔を睨み付けるようにして、気も無く「なるほど」と呟いた。そして既にこちらに興味も示さず、机に肘を突いて資料に目を通し始めた。

 それ以降はオレが何を話し掛けても、「えぇ」とか「そうですね」などと返すばかりである。特に確認する必要もないが、どうやら彼女は心底、オレを嘗めているらしかった。

 オレは討伐士としては二流どころか三流程度の若者なので、評価自体は間違っていないのだろう。だが、一応はオレが討伐士としては先輩で、そして立場上もオレが指導員である。敬えとは言わないが、最低限の礼儀は見せなければ討伐士は続けられないだろう。その点もオレは説明したはずだが、全く理解して貰えていないようだった。

「あまり態度が悪いと、討伐士に不適格と判断して上に報告しますので、話くらいは聞いてくださいね」

 オレの独断で報告を上げても、何の意味も成さないのだが、それは黙っておく。

「あなたは丁寧な口調で物腰が柔らかそうな割に、実は短気ですよね」

「仕事熱心なだけです」

 願わくば、次回からは再びロレンスさんが彼女の担当に復帰して欲しいものだ。

 今回は何故かオレに担当が回ってきたが、本来ならばオレに指導員など務まらないのだ。

 オレだって、未だ二年目に突入したばかりの新米なのだから。

「先ずは挨拶の仕方から覚えていきましょうか。挨拶は対人関係全ての始まりです。ここだけで今回は終わると思ってください」

 立ち上がり、彼女にも起立を促すと、不承不承とばかりに立ち上がる。そして嫌悪感丸出しで首肯した。

 問題児だな、と心の中だけで小さく溜め息を吐く嵌めになった。


 * * *


「ワタシが討伐士ソーサラーを志した理由、ですか」

 第二回の研修を終えた征伐屋フォーム本部の一室で、オレは少しばかり頭を捻った。思えば、現在までに討伐士を志望した理由などついぞ尋ねられた経験がなく、この質問に何と返せば良いのか自分でも理解していなかった。

「えぇ。討伐士は確かに怪物リタルナ征伐の花形とも言える職業ですが、常に危険と隣合わせ。飛び抜けた才能でもない限り、報酬も噂ほどは高くないと聞きます。パーシアスさん的には、もっと安全で割の良い職業を選択肢に入れる程度の事が出来たはずですよね」

 これはオレが彼女に個人的に課してみた、ちょっとした課題だった。彼女の対人スキルは、最低と言っても良い程に酷いものだ。口調こそ丁寧だが、敬語にも所々で粗が目立つ。研修の冒頭にも説明した通り、討伐士は依頼主との会話や交渉技能も必要になる職業だ。少なくとも、現状の彼女では話にならない。

 だから、今回分の研修は終えたのだが、オレは彼女に初対面の相手と会話を継続させる練習を課してみた。その相手として真っ先に挙げるべきは、いくら無礼を働いても征伐屋の評価が低下しないオレであって、彼女は会話のネタとして現在の職に志望した動機を訊ねてきたのである。

 ただ、練習相手であるオレの方が早速会話に詰まってしまい、彼女は溜め息交じりに質問の意図を追加した。

「あの、これはもしかして、会話をする気の無い相手にも積極的に話し掛けましょう的な、意地悪な課題ですか。それとも質問の内容が既に落第点だから呆れて物も言えないとか」

「いや、失礼。聞いていた話よりも常識的な会話なので、少し面食らったと言いますか。思っていたよりも要領は良い方なんだな、と」

「パーシアスさんは大人しそうな外見の割に、人に喧嘩売るのが得意ですね」

 軽口はこの辺りにして、少しだけ真面目に志望動機を考えてみる。一度なってしまえば、志す以前の理由など有ろうが無かろうが関係無いから、改めて後付けしようと苦心すると困惑する。

「討伐士になった理由ですが、若気の至りと言ったところですか。ワタシは自分に才能が無い事くらいは気付いてましたが、生活費を稼ぎつつ、人々の安全にも繋がる献身的な職業は征伐屋以外にないですから」

「……まぁ、別に私はパーシアスさんの本心が知りたい訳じゃないんで、どうでも良いんですけどね。その理由なら、街壁の衛士にでもなれば良かったんじゃないですか? そっちの方が安定していて、安全ですよ」

「そうですね。しかし、怪物討伐ならば、花形は討伐士ですから」

「へー……」

 これはオレが悪かったと少し反省する。だが、多くの討伐士が、討伐士を志した理由など考えた事もないだろうから、質問の方も少し悪かったと思う。勿論、指導員として、オレがこんな態度で良いはずがないのだが。

「ずっと聞きたかったんですけど、どうしてパーシアスさんは私に対して敬語で話すんですか? パーシアスさんの方が、年長で先輩ですよね」

「これに関しては、癖、としか言えませんね、ワタシの身近にはワタシより目上の方ばかりがいらっしゃいますから。常に口調を統一していると、いざという時に詰まる事もありません」

 これはよくある質問なので、今まで通りに返答する。特に面白味もない答えだとは自覚しているが、癖に深い理由を用意している者もおるまい。

 すると彼女は首だけで微かに頷くのみで、それ以上の反応がない。何か起きたのかと暫し観察してみるが、彼女は苛立ちを隠しもせず身体を揺するのである。どうやら、現在の会話の練習を切り上げたくて仕方が無いらしい。

 今度は此方が隠しもせず溜め息を漏らす番だった。

「今日はもう終わりにしましょうか。集中も切れたようですし」

 オレがそう切り出すと、彼女は間髪入れずに立ち上がり帰宅の準備を終えた。元より荷物の多くない彼女だが、余程この空間が嫌だったらしい。

 名前以外の情報を何も知らない冴えない男と狭い部屋に二人きりという状況は、確かに彼女のような少女には辛いものがあったかも知れない。とは言え、やはり対話者に向かって嫌悪感を露わにするのは、人間関係を構築する上では足枷になるだろう。

 彼女の場合は先ず、会話の訓練よりも感情を表情に出さない訓練から始めるべきだったろうか。

「次回の研修は、二日後の同じ時間ですので遅刻しないように。それと今日の復習は重点的に行っておいてください。次回からの担当はロレンスさんに戻ると思いますから。午後からの実技講習にも必ず参加してください」

「そうですか。本日は誠にありがとうございました」

 彼女は礼だけは殆ど完璧に熟してから、速やかに退室して行った。今後、オレが彼女と関わる機会など数える程しかないだろうが、僅かでも関与した身としては少々不安になる。討伐士は一般に認識される以上に、恐らく彼女の想像している以上に対人能力や礼儀作法が重んじられる職業なのだ。ともすれば、怪物リタルナを討伐する能力よりも。

 だからこそ、オレのような身体機能の絶望的な男でも入団できたのだから。

 願わくば、彼女の担当であるロレンスさんには、彼女に適切な指導を与えて欲しいものである。

 以降、オレが彼女の成長に下手な口出しする事は憚れるが、折角田舎から討伐士を志して都に出てきた少女である。不適格として早急に退団する憂き目は見て欲しくない。何れにしても、彼女の心の持ちように依るのだが。

 一つ溜め息を吐き、気を取り直す。新人の未来も心配ではあるが、オレの未来もまた不安に満ちている。

 先程まで眼前に座っていた少女に関する書類を片付けて、傍らの鞄から新たな書類を取り出す。

 上層部からオレの下に回された怪物の駆除依頼である。新人の彼女が認識していた通り、たった一件の依頼に対する書類だけでも非常に多くの書類が必要となる。依頼内容だけでも数枚。そして依頼主や、所属する征伐屋との各種契約書。依頼現場へ赴く為に街壁を越える申請書。全て合わせれば小冊子程の厚さになる。これら全てに目を通して不備が無いか確認し、記名して各機関に提出する。言ってはなんだが、非常に手間が掛かる。

 現在、依頼への返答期限も近く、壁越えの申請期限も間近に迫っており、時間的な猶予がない。早急に大量の契約書に記名して提出する必要があり、今回のように事務処理に追われる事は珍しくない。座学が苦手では討伐士が務まらない理由はここにある。

 前日のうちに内容確認は終えてあるので、後は記名して提出して回るだけだ。

 と、そこで数度、ドアが叩かれた。

 珍しい例ではあるが、オレへの訪問客らしい。

 返事をして入室を促すと、入って来たのは一人の男性だった。見知った顔であり、オレの上司に類する男性である。常に爽やかな笑みを浮かべている事で有名な討伐士だ。

「おはようございます、アルゴスさん」

「お疲れ、パーシアスくん」

 オレと同年代の討伐士だが、彼はオレとは異なり討伐士の適性が非常に高い。戦闘面でも、対人面でも。特に怪物駆除に於いては一家でも上位に入る天才ぶりで、オレのような冴えない討伐士が顔と名前を憶えられている事自体が偶然の産物による奇跡としか言いようがなかった。

「今日は、どうされました?」

「んー、新人の彼女、どうだったかなぁと思って。君の反応を見る限り、余り芳しくもなさそうだけれどね。廊下まで溜め息が聴こえてきたよ」

 アルゴスさんの言葉には苦笑で返すが、オレの溜め息が廊下まで響くはずがなかった。聞き取れたのは、超人的な聴力を誇る彼だからだ。彼ならば、オレが行った研修の一部始終を廊下の先から盗み聞きしていたとしても不思議ではない。

「彼女、エリスくん、だったかな。採用試験中も身体能力は図抜けていたんだけれどね。何分、協調性に難があり過ぎる。田舎の村から出て来たばかりで戸惑っているのか、彼女のそもそもの気質なのか……。矯正できれば即戦力として期待できるから、僕の推薦で試験的に採用して貰ったんだけど、さて、どう転ぶかね」

 決して長い付き合いではないオレとアルゴスさんだが、それでも裏表のない彼の内心はよくわかる。彼は件の新人の少女に対し、多大な期待を寄せているらしかった。

 それは彼女に秘められた才能に対してだろうか。それとも、試験的・・・と言ったように、今後の採用方針に大きな影響を与える可能性があるからだろうか。詳細までは読めなかった。

「ワタシは凡人なので偉そうな事は言えませんが、悲観する程ではないと思っています。彼女は、ディスコルディアは出自の影響なのか、確かに協調性は低く、礼儀に欠く点も多く見受けられましたが、決して要領が悪い訳ではありません。入念な指導を施せば、多くの欠点を補える可能性があると、感じました」

 と、僅かばかりの世辞を含めつつ、概ね感じたままの評価を伝えておく。すると上司は爽やかな笑みの上に、器用に含みのある笑みを重ねてみせた。我ながら、些細な表情な変化を読み取れるものだと感心する。

「君が言うなら、そうなんだろうね。ロレンスくんは、無礼な娘だと憤っていたけれどね。人を見る目は君の方が上回っている」

「買い被りですよ」

「そうでもないさ」

 アルゴスさんは、オレに否定の言葉を続けさせる気はないらしく、あからさまに視線を窓の外に移した。本部の一階であるこの部屋の窓からは、裏路地の湿った様子が観察できる。時には小動物や、近所の老人が近道に使用する他、人通りなど無いに等しい裏路地である。

 彼の視線に釣られて静かな暗がりに視線を向ければ、半分が開かれた窓の外を一匹の虫が這っていた。

「ところで、パーシアスくんの次の遠征は二日後だったかな。僕が君に振った依頼だったと記憶しているけれど」

「その節はお世話になってます。ワタシでは単独で依頼なんて引き寄せられませんから」

「んー、あまり自分を卑下するものではないと思うよ。名が売れるまでは単独依頼なんて回って来ないのが当然だからね」

「だからこそ、助かってます」

 オレは本心から感謝の意を伝えているのだが、彼は困ったように頬を掻いた。彼からすれば、他人に回す依頼など自ら出向くまでもない小事で、オレになど雑事を押し付けているような感覚なのだろう。

 だが、うだつが上がらないオレみたいな凡人討伐士は、そんな取り溢された小事を拾って積み重ねる他無いのだ。態々指名してオレに依頼を回してもらえるのは、心底有り難い話だった。

「確か、南東のヒルデ山の農村からの依頼だと記憶しているけれど、移動はやはり牛車になるのかい?」

「はい。ワタシでは道中に怪物に襲われても対処できない場合が多いですから。多少費用が嵩んでも、牛車に乗り合わせるしかありません」

「んー、では明日の早朝には出立になるのか。そんな忙しい時期に新人の対応をしてもらって悪かったね。午前中に越壁・・申請をしなければならないだろう? もう出したのかい?」

「ちょうど今、用意している所です」

「そうか。申請は事前に済ませなければ街壁は越えられない。牛車も定員が決まっているから、事前に予約を入れておいた方が確実だ。今更言われるまでもないだろうけれどね。遅刻と契約の無断放棄は信用の失墜に直結している。特に越壁申請には締切もある。午前中に確実に、申請書を提出しておくんだよ」

 そう念入りに確認して、上司はドアのノブに手を掛けた。

「それと、これは僕の勘に過ぎないが、明後日の昼から明々後日の朝の間に天気が崩れるだろうから、防水機能の付いた鞄を使うと良い。あと、悪天候の日は体力を余計に使うからね。食糧も多めに持参すると安全だろう」

「天気が、ですか」

 言われて視線を窓に向けてみるが、隣の建造物の上部から微かに覗く空は青々と晴れ渡っている。彼の予報は俄かには信じ難い。だが、彼は実際に討伐士として幾つもの輝かしい功績を収めてきた男だ。彼の勘、というだけで信頼性は折り紙付きだった。

「心に留めておきます」

「んー、ま、期待しているよ」

 後ろ手に手を振って退室する上司に軽く会釈して見送ってから、再び窓の外に視線を送る。

「……食糧を多めに、ねぇ」

 保存食を余計に購入出来る程、金銭的な余裕はないのだが、上司の天才討伐士からの助言である。反故にする訳にもいくまい。

 遠征に要する各種物品は午後から揃えるとして、先ずは壁越えの申請書作成と、その他契約書への記名である。アルゴスさんの言った通り、事前に申請しなければ街から出られないが、壁から出られなければ依頼を達成するどころか現場に赴く事すら出来ないのである。

 そして、申請の期限はもう直ぐそこまで迫っている。早急に申請する必要があった。

 オレのような木っ端討伐士は、依頼を一度未達になるだけでも、今後の活動に多大な影響を与える程、周囲の信用を落としかねない。そもそも得ている信用が無に等しいからだ。これから積み重ねていかねばならない状態で、土台が崩壊していては信頼も構築しようがない。

 だから、一般的には小さな案件の一つでも、決して無碍には扱えない。

 越壁申請書に丁寧に記名した。

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