第四話 精霊王の慈愛
リンはぽつりぽつりと語り出した。
二百年前、森の岩牢に捕えられた夜、リンの元にラビエス様が姿を現したところから。
ラビエス様は予言した。
そう遠くない未来、科学技術を発達させた人間が大地を汚し、精霊を滅ぼす。
その後は人間と魔族の一騎打ち、すなわち人魔戦争が起こるだろう。
最後に生き残るのはおそらく人間。
しかし長い戦いが世界に荒廃を呼び、自然の循環を破壊、やがて人間たちも滅びの道をたどる。
「今のうちに俺たち魔族に愚かな人間を滅ぼせって勧めてるのか?」
リンが鼻で笑うと、ラビエス様は首を振ったという。
『まさか。きみは魔族だけど人間の心を持っている。アリスもそうだ。この百年の間、彼女がどれだけきみを一途に思い続けていたか僕はよく知っているよ。その尊さに僕は心を動かされた。だからこそ、人間が生き残るべきだと思うんだ』
ラビエス様はリンに願った。
『僕は人の子が持つ愛の奇跡を信じる。彼らがもたらすのは汚染や破壊だけじゃない。だから僕は、進化することをやめてしまった精霊や魔族ではなく、新しいものを生み出し続ける人間に未来をあげたい。彼らが生き残るための可能性の種を残したいんだ。……僕はひどい王様だね。僕を慕ってくれる今の精霊たちを裏切って、人間の肩を持つのだから』
リンは真剣な表情で私に告げる。
「ラビエスの願いは一つ。精霊たちを人間に転生させ、彼らの霊力で世界の荒廃を少しでも食い止めることだ。あいつはそれを成し遂げるために力を蓄え、人間たちの手が及ぶ前に精霊たちの魂を逃がして転生させた。……力を使い果たし、間もなくあいつの魂は消滅するだろう。もう間に合わない」
確かに霊力を持つ人間は自然と心を通わせ、奇跡を起こすことができる。
元精霊の魂を持つ人間なら、その力はさらに顕著に現れるだろう。
ラビエス様は自分を犠牲にして、精霊の魂と人間の未来を守ろうとしている。
本当に、どこまでお優しいのですか?
「ラビエス様、どうしてそんな大切なこと、私に教えてくれなかったんですか……どうしてリンなんかに」
「おい。……それは俺なら奴の願いを叶えられたからだ。二百年森に他の魔族や人間を近づけさせないほしい、僕の代わりに森を守ってほしいと頼まれた。力を蓄えるのに集中したかったらしい」
私は自分の鈍感さと無力を恥じた。
「何もできなかった自分が、悔しい……っ」
私の瞳から大粒の涙がこぼれていった。
みんなを転生させ、森にたった一人残って死を待つ王様の胸中を思うと、悲しみで身が蝕まれていった。
私は知っている。
一人で消えていく恐怖を。
あのとき私を救ってくれたのはラビエス様だった。
「私がおそばにいたら、きっと一人にはさせなかったのに……」
「だからラビエスは俺に、全てが終わるまでお前を閉じ込めておくように言ってきたんだ。アリスがあの場に残っていたら人間と戦って死ぬか、ラビエスと心中するかのどっちかだろうから。俺もあいつもそれは望まない。だから手を組むことにした」
浅はかで愚かな自分が浮き彫りになり、ますます涙が止まらない。
私は自分が思っていたよりもずっと幸せに生きていたんだ。
ラビエス様にも、リンにも、こんなにも大切にされて。
何も返せないのが申し訳なくて、私の方こそ消えてしまいたくなる。
「ごめんなさい、ラビエス様……ごめんなさい……っ」
泣きじゃくる私をリンは苦しげに見下ろす。
「俺の前で他の男のために泣くなんて……ひどい女だ、お前は」
「だ、だって……」
リンは儚い微笑を浮かべた。
「俺は小さい男だな。生まれ変わっても、三百年経っても、変わらずお前が好きだけど、今は見苦しく嫉妬することしかできない。この体じゃ涙を拭いてやることもできないんだ。ラビエスに勝てる気がしねぇよ」
だから、とリンは懐から小瓶を取り出した。
「ここにラビエスから預かった霊薬がある。協力の見返りに作ってもらったものだ。これを飲めば俺とお前は一度死に、今度は人間に転生できる」
「人間に……?」
激しい嫌悪が身を焦がした。
ラビエス様と森の命を奪う人間になるなんて絶対嫌だ。
そう思った。でも。
「それを飲めば、リンに触れることができるんですか? 好きでいても許される? それがラビエス様の願いですか?」
すがるような問いにリンは強く頷く。
「ああ、そうだ。同じタイミングで飲めば、同じ時代に生まれることができると聞いている。ただ、記憶が残るかは分からない。どちらかが覚えていればいいけど、最悪二人とも前世のことなんか忘れて、出会うこともなく一生を終えるかもしれない」
どうする、と赤い目が私に問いかけた。
私は目の前にいる彼と、偉大な王様のことを想い、目を閉じる。
今のこの世界で、私にできることはもはや一つもない。
汚染されていく世界では長く生きられないだろう。
できることと言えば、せいぜい残った力で人間に復讐するくらいだ。
そんなことは誰も喜ばない。
ラビエス様が信じてくれた愛を私は貫くべきなのだ。
何よりリンの想いに応えたい。
愛しい人に触れたいと、私は心から渇望した。
私は涙を拭いて立ち上がる。
「リンは……それでいいんですか? 私とここで死んでしまっても?」
リンは私の手から鎖を外し、鷹揚に答える。
「ああ、もちろん。むしろ本望だ。……ずぅっと昔に言わなかったか? 俺はアリスを置いてどこかに行ったりしない。今度こそ絶対に約束を守るよ」
リンの力強い言葉が胸にしみ込んでいく。
心が満たされてとても温かい。
魔族に生まれ変わっていても、やっぱり彼は優しくて頼もしい私の大好きな人だ。
私は確信した。
「絶対にまた会えます。私は信じていますから。リンが私の運命の人だって」
リンはとびきりの笑顔を見せた。
「ああ。俺も信じてる。アリス、来世で結婚してくれ!」
私は何度も頷く。
「今世で幸せにできなくてごめんな。こんな終わり方で、ごめん」
「いいえ、私は誰よりも幸せです。こちらこそごめんなさい」
私は久しぶりに、本当に三百年ぶりに、素直になることにした。
「今までもこれからも、ずっとずっと、私はリンのことが大好きです」
彼と微笑み合った瞬間は、痺れるほど幸せなひとときだった。
リンは霊薬の小瓶を開け、そっと口に含む。
そして腰を屈めて私の唇に重ね、甘い液体を流し込んだ。
激しい痛みに苛まれながらも嬉しくて仕方がなかった。
切なさと森の香りで胸がいっぱいになる。
この世界で最初で最後のキスは、唇に激しいやけどの痕を残した。