第三話 魔王子の嫉妬
身じろぎをした瞬間、水が跳ねる音と金属がこすれる音が聞こえた。
私は重たい瞼を持ち上げ、朦朧とした意識のまま体を起こす。
ひどい空気に思わず咳き込んだ。
わずかに床に水が張られているおかげで息はできるけど、胸が苦しくてたまらない。
「おはよう、アリス」
懐かしい声音に視界が鮮明になる。
「リン……?」
「いつかと逆だな。ようこそ、俺の城へ。寝室に案内できなくて残念だ」
鉄格子の向こう側で、リンが弱々しく微笑んでいる。
私は薄暗い牢屋に入れられていた。手を鎖で縛られ、足枷もつけられている。金属が苦手な私は思わず喘いだ。霊力が思うように発揮できない。
徐々に記憶が鮮明になってきた。
戦争が終わった翌日、森の入り口の見回りをしていたら、いきなりリンが現れた。二日連続で襲撃されたことのなかった私はすっかり油断していて、そのまま意識を奪われて攫われてしまったのだ。不覚。
「……私が眠っている間に、何かいかがわしいことをしたんですか?」
肌のいたるところにミミズ腫れのような赤い痕があった。ほとんど痛みはないけれど、ちりちりして不愉快だ。まるでキスマークのようで直視できない。
「それは誤解だ、アリス。合意もなく事に及ぶほど落ちぶれてない」
「どうでしょうか。魔人の言葉ですからね」
「信用ねぇな。攫うときに抱えただけだって。悪かったよ。でも、できるだけ傷つかないようにしたんだぜ。分かるだろ?」
リンは服の袖をまくって見せた。腐った果実のようなひどい傷跡に私は息を飲む。
私を傷つけないためにリンは自分の魔力を限界まで抑えた。そのせいで私の霊力に浸食されてしまったらしい。
「……そこまでして、どうして私を連れてきたんですか?」
「こういうプレイをしてみたかったって言ったら、信じるか?」
「ふざけないで下さい」
「じゃあ嫉妬だ。ラビエスばっかりアリスを独占してずるい」
「何を馬鹿なことを……」
リンは肩をすくめる。
私は強がっていたけれど、彼の真意が分からなくて恐ろしかった。
どうしてですか?
この二百年の戦いで幸福を感じていたのは私だけだったの?
私はまだ茶番劇を終わらせたくなかった。
彼の破壊衝動が目覚めてしまったのだろうか。
これから私は、精霊の森はどうなるのでしょうか?
戸惑う私にリンは予期せぬことを尋ねた。
「なぁアリス。お前は俺と再会してから、人間の国に足を運んだことはあるか?」
「? ……いいえ。だってその必要はありませんから。知り合いももういませんし」
「じゃあ知らないだろ。元人間の俺たちが言うのもおかしいけど、あいつらはすげーよ。たった二百年で精霊の術も魔族の力も取り込んで見違えるほど強くなった。それだけじゃない。異世界人からもたらされた設計図にようやく技術が追いついてきた。今やこの世界の地上最強の種族は人間なんだぜ」
「どういうことです? どうして人間の話なんか……」
リンはゆっくり首を横に振った。
「悪いけど、しばらくここにいてもらう。全て終わったら解放してやるから。ちょっとの間辛抱してくれ。ラブラブだった頃の昔話でもして楽しく過ごそう」
リンは私の呼び止める声を無視して去って行った。
薄暗い牢に残され、私は体を震わせる。
一体何が起きているのだろう。
人間が何かを始めた?
精霊の森は無事だろうか。
「ラビエス様……」
早く帰らなきゃ。きっと心配しているだろう。
私は鎖から逃れる術を懸命に探したが、腕力だけではどうにもならなかった。
水を操ろうとしても、霊力が行き渡らずに小さく波立つだけ。
大した抵抗もできないまま、時間だけが過ぎていった。
一週間が経った頃、リンは疲労の色を滲ませて呟いた。
「アリス、ただでさえ体が弱ってるんだから暴れるなよ。手が痛いだろ?」
「…………」
「ほら、前世の話でもしようぜ。初デートのこと覚えてるか? あの映画面白かったよな。アリスは途中寝てたくせに、ラストでボロボロ泣いちゃって……その後入った喫茶店で、俺は緊張して全然うまく喋れなくて――」
度々様子を見に来るリンを、私はひたすら無視した。
ここから出してくれるまで口を利きません、と子どもみたいな戦法に出たのだ。
「なんといっても中三の県大会だよな。俺が優勝したらキスさせてって冗談っぽく言ったらめちゃくちゃ怒ったくせに、決勝戦直前にはそんなこと忘れて『絶対勝ってください』って……アリスは天然小悪魔だったよな。そのおかげで優勝できたんから、やっぱり愛の力は偉大だ」
愛というより下心でしょう、と私は冷ややかな気分になる。
なおも恥ずかしい話をしようとするリンに対し、私は鎖を破壊しようと、派手な音を立てて壁に手を打ち付けた。私の手首は真っ赤に腫れ上がっていく。
「アリス、やめろ」
「…………」
「それ、嫌がらせか? そんなに俺のことが嫌いになったのかよ?」
私が静かに睨み付けると、リンは苦悩の色を滲ませた。
「俺だって、好きでこんなことをしてるわけじゃない……」
暗い声に私は罪悪感を覚えた。ひどいことをしてるのはリンの方なのに。
「……じゃあ、どうしてですか? リンの方こそ私のこと嫌いになったんじゃないですか。こんなことしておいて、説明もなしなんて納得できません」
久しぶりに口を利くと彼は嬉しそうに眉を持ち上げたが、すぐに顔を曇らせた。
「……説明したら、もっと暴れそうだからなぁ」
がんがんがん、と早い三拍子のリズムで壁に手をぶつけて抗議する。
リンは慌てた。
「ああ、もうやめろって! ……話す、話すからっ!」
「その前にここから出してください」
「後悔するぞ……なんだよ、せっかく久しぶりの二人きりの時間だったのに、もうおしまいか……」
リンは拗ねたように呟いたが、大人しく開錠し、足枷も外してくれた。
「手の方はダメだ。万が一にも逃げられたら困る」
私が低く唸ってもリンは頑として手の鎖は外してくれなかった。
そのまま鎖の端を引かれ、私はリンに続いて牢の外に出た。犬の散歩みたいで屈辱的だったけど、いちいち怒っていたら身が持たない。
水から離れ、体が急激に重くなる。
石造りの城には他の魔族の姿がなかった。もぬけの殻だ。
仮にも王子の城だというのに、随分荒れている気がする。
「寂しい城ですね。部下の人たちはどうしたんです? 牛さんとか」
「ミノ太のことか?」
「そんな名前なんですか? 可哀想に……」
彼は見た目も頭も運動神経も良いのに、残念なところがある。きっと部下の人も苦労しているだろうなと思わず魔族に同情してしまった。
「みんなおふくろの方にやったよ。大変そうだったからな」
私は首を傾げる。
魔女王エキドナが大変?
あの強大な女魔人が?
「ここから外を見てみろ。あんまり呼吸はするなよ」
リンは私をバルコニーへ誘った。
外の光景を目の当たりにし、喉がひくつく。
「ラビエス様っ!」
私はリンの忠告を忘れ、絶叫した。
精霊の森から光が消えている。
巨大樹は黒く朽ち、かつて玉虫色に輝いていた葉は一枚も残っていない。他の木々も伐採され、横倒しになっていた。慟哭に似た地鳴りが空に響いている。
途端に周囲に満ちた不浄な空気を吸い込み、私は苦痛で体を九の字に折った。
「どういうことですか、リン……っ!」
涙目で見上げると、リンは赤い目を伏せた
「あれは人間の仕業だよ。……十年前、この大陸の国はついに統一されて大帝国になったんだ。銃とか大砲とかが発明されて、一気に蹴りがついた。すげー厄介だぜ。肉体が丈夫な魔族でも手こずってるんだから、精霊なんてひとたまりもないだろうな。あいつらは精霊の力の源である自然を汚染して破壊していく」
「どうして? どうして人間が精霊を? 何のために……」
「ただ土地や資源が欲しいだけさ。随分人口が増えたからな。森を切り開いて新しい都を作るみたいだ」
私は信じられない想いで地平の彼方を見つめた。
三百年の時を過ごした私の故郷が消えてなくなる。
「ラビエス様……そんな…………嫌!」
私は体を宙に踊らせようとした。今からでも駆けつけて、私の力で人間を追い払ってやる。
リンが鎖を引き寄せ、私はその場に尻餅をつく。
「ごめん。……でもこれは精霊王の願いでもあるんだ。いずれ人の手によって精霊は根絶やしになる。二百年前、俺にそう言ったのはラビエスだった」
真実を話そう。
リンはそういって灰色の空を睨み付けた。