第二話 愛の葛藤
私の初陣は混乱のままうやむやになった。魔族のリーダー格であるリンがあっさりと捕虜になったからだ。
金髪で赤目になっていることと、頭に小さな角が二本生えていること以外、昔の彼と変わらない端正な容姿だった。年齢も十代半ばくらいに見える。
一方私も銀髪碧眼になっていること以外、前世と変わりはない。高校生になっても小学生に間違えられるほどの忌々しい童顔のままだ。二人の身長差も相変わらず。
「ああ、アリス! 相変わらず小さくて可愛いなぁ。夢にまで見た原寸大ミニアリスだ」
森の岩牢から送られる支離滅裂なラブコールに私は頭を抱えた。
「どうしてよりにもよって魔族に転生しちゃったんですか……」
リンはエキドナが生み出した炎を司る魔人。要するに、魔族の王子になっていた。
考えもしなかった。
だって私が知っているリンは優しくて、頼りがいがあって、武士道精神を地で行く真面目な少年だったから。悪の権化ともいえる魔族とはとても結びつかない。
「仕方ないだろ。適当な体がなかったんだから。まさかアリスが精霊になってるとはな。俺すっごい探したんだぜ。隠れながら人間の土地を歩き回ってさ。どうりで見つからないはずだ」
どうやら私たちは見事にすれ違っていたらしい。
何この徒労感。
リンは必死になって私を探した。
きっと人間になっているだろうから、と人間を痛めつけたくなる破壊衝動を堪え、昼も夜もなく世界を歩きまわった。
しかしどうしても私を見つけられず、自暴自棄になってエキドナの侵略に手を貸すことにしたらしい。もう破壊衝動を抑える気力もなかったという。
「ああ、でもようやく会えた。生まれ変わっても、百年経っても、俺は変わらずお前が好きだ」
岩の隙間から伸ばされる手。
私だって同じ気持ちだった。胸が高鳴る。一度は失った愛が溢れて止まらない。
気が狂いそうなほど嬉しい。
「リン……私も、ずっと――」
私は恐る恐る彼の手に自分のそれを重ねる。
「っ!」
触れた瞬間、凄まじい痛みが指先に走る。二人の手は無惨に焼け焦げていた。
私たちの絶望は相当なものだった。
精霊と魔族は相容れない。お互いに弾きあってしまう。私たちは、水と炎。司る属性すら正反対なのだ。強い力を持つ者同士ならいっそう反発する。
「……耐えられない。目の前にいるのに触れることもできないなんて」
リンがぽつりと呟いた。
私は胸がつかえて何も言えない。
「アリス、頼む。……魔族に堕ちてくれ」
「な!?」
リンは言う。
穢すのは簡単だけど、清めるには膨大な力が必要だと。
ようするに私が魔族になるのは簡単だけど、リンが精霊になるには凄まじいエネルギーを消費する。
精霊王の力を奪い尽くしてもまだ足りないくらいほどの霊力を使うのだ。ほとんど不可能に近い。
でも私が魔族になればずっと一緒にいられる。永遠に近い時を二人で過ごせる。
彼が囁く夢のような言葉。
なるほど、思わずよろめいてしまいそうなほど魔族の言葉は甘美だった。
「そんなこと、できません……」
「どうして!?」
私は答える。
ラビエス様や森のみんなを裏切ることはできない。魔族になってしまえば精霊は敵。どんなに自分を戒めても破壊衝動を抑えられる保証はない。
受けた恩を仇で返し、いつか私のせいで森が滅びる日が来るかもしれない。
そんなこと絶対にしたくない。
リンは叫んだ。
「そんな良い子ぶるなよ! 俺はこの世の全てより迷わずお前を選ぶ! アリスは俺のことが一番じゃないのか!? こんな世界のことなんかどうでもいいだろ!?」
その身勝手な言葉が決め手だった。
私は目を閉じ、長い恋に別れを告げた。
涙をこらえて笑う。
「やっぱり今世では結ばれないみたいですね。残念です。せめてリンが殺されないように掛け合ってくるので、大人しくしていて下さい。大丈夫。ラビエス様はお優しい方だから、きっと……」
多分、種族がいけなかった。
和を尊ぶ精霊と、欲望に正直な魔族。
お互い生まれ変わったときに、理性と感情の一方に針が振り切れてしまった。
私はリンのことだけを考えられないし、リンは私のことしか考えられない。
人間の私だったら泣いて喜ぶような言葉でも、精霊の私は受け入れられなくなっていた。
私は冷たい。こんなに想ってくれる人を選べない。例え触れあえなくとも、せめて牢の外と中で言葉を交わせればそれでいい。リンの身勝手さを責めながら、愛しい人を閉じ込める自分の傲慢を許そうとしている。
一晩経つと岩牢は無惨に破壊され、リンの姿はどこにもなかった。
百年にわたる想いごと木端微塵に砕かれた気がして、私はラビエス様の膝元で三日三晩泣き明かした。
ところが。
二人の再会から二百年。
リンは何度も何度も精霊の森に攻め入ってくる。
ある時は一人でふらりと、ある時は仲間を多く引き連れて。
何年も間を開けたと思ったら、ひと月に何度も来るときもある。
いつの間にか森の目と鼻の先に城まで建設していた。
どうしても別れたくない。お前のいない人生なんて耐えられない。結婚してくれ云々。
「また来たのか、あのストーカー野郎」
「しつこい男は嫌われるっつーの!」
「うわぁ、槍で刺されて喜んでるよ……気持ち悪い」
私は上位精霊になり、他の精霊ともだいぶ仲良くなった。みんな私を責めず、どちらかと言えば同情的だ。
リン率いる魔族勢が来ると、必ず私が矢面に立って戦っていたからだと思う。
彼の凶悪な炎を防げる水属性の精霊は、今や私以外にいない。
皮肉なことにリンの襲来がこの森での私の地位を確固たるものにしていた。
だけど私は喜んだりしない。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、かつて愛した男に一切手加減できなくなっていた。リンの方はまだ余裕がありそうなので余計に腹が立つ。
「新婚旅行はキラン山の火口に行こう。情熱的な赤が煮立っていてすっごく綺麗なんだ」
「そんな熱いところに行ったら、私蒸発しちゃうんですけど!」
「だから丈夫な魔族になろうぜ。ちょっとおふくろの血を舐めるだけでいい。全然苦くないってさ。むしろ気持ち良くなって、空を自由に飛べる気分になるらしい」
「何その危ない薬みたいなの! 絶対にイヤです!」
リンのじゃれつくような攻撃を私は必死でいなす。
その衝撃で大地が軽くえぐれた。
一応戦争という体を取っているが、ほとんど私とリンの私闘になっている。下手に動くと巻き添えを食うことを、この二百年でみんな理解しているのだ。
「やっちゃえ、アリス! 一突きだ!」
本来心優しいはずの精霊たちから物騒な声援が飛ぶ。一方野蛮なはずの魔族たちはわりと静かに観戦している。
気づいてリン。後ろに控えてるあなたの部下たち、多分ドン引きしてる。ほら、右腕っぽい牛さんなんて、こめかみ押さえて頭痛を堪えてますよ。
大体一昼夜で戦いは終わる。
私の霊力が尽きかけた頃、リンが刀を納めるのだ。私も精霊なので攻撃を受けない限り反撃はしない。よって幕を引くのはいつもリンだ。
「あー、楽しかった。また近いうちに攫いに来るからな。浮気するなよー」
「早く帰って下さい! 馬鹿王子!」
私は肩で息をして、リンたちが去った後、聖なる塩を乱暴に撒いて戦場を清める。
全く……自分だけ楽しそうにしてずるい。
『お疲れ様、アリス』
戦争の報告の為、私はラビエス様の元を訪れた。
彼はいつも優しい言葉で私を労ってくれる。
煌々と輝く巨大樹に私は頭を下げた。
「またお騒がせしてごめんなさい……」
『ふふ、構わないよ。彼が来るとアリスも嬉しそうだもの。肌が艶々している』
「そ、そんなことは」
否定しかけて尻すぼみになる。我が主に嘘はつけない。
「その……会えるのは、嬉しいんです。元気そうで良かったって思っちゃう……」
悔しいことに、リンのことを憎み切れない。
顔を見れば迷惑だと思うのに、日が経てば戦場でもいいから会いたくなる。
未練がましいのは私も同じだ。
『もう少し優しくしてあげればいいのに』
「そんな! リンは敵ですから!」
『いいえ。気づいているでしょう、アリス。彼は彼なりの方法できみを守っているのだと』
ラビエス様の言葉に私は黙るしかない。
分かっている。
リンが攻めてくるようになってから、他の魔族がこの森に手を出したことはない。きっと彼が仲間を牽制してくれているのだと思う。
私との戦闘だってそう。本当は一瞬で圧倒できるくらいの力を持っているくせに、リンは私を傷つけないように手加減している。
一種のパフォーマンスだ。
一応戦ってますよ、仲悪いですよ、裏切ってませんよ、と互いの仲間に思わせるための茶番劇。
バレバレでしょうけど。
他の精霊の土地は悲惨なことになっている、と風の精霊に伝え聞いている。
彼のおかげでこの森の平和は保たれているといっても過言ではない。本当は感謝しなきゃいけないんだけど……。
私は怖かった。
もしも素直になったら、リンに攫われることを良しとしてしまいそう。
だからいつも冷たく追い返してしまう。
本当は、本当はもう少しだけ、前世の頃のように仲良くしたいと思うけど。
なんにせよ、リンの気持ちは嬉しい。
戦いの中で力をぶつけ合い、お互いの気持ちを確認しているような気がする。
いつの間にか私はその行為に幸せを感じていた。
今は彼の中にある破壊衝動よりも、私への愛情の方が勝っているのだと確認できるから。
優しいラビエス様にお仕えし、愛しいリンと逢瀬というには激しすぎる戦いを繰り広げる。
今世も十分幸せだ。
それ以上望んだら罰が当たると思っているのに、「ずっとこのままでいられればいいのに」とつい自分勝手なことを考えてしまう。
私の中にもまだ人間の欲深さが残っている。
「でも、どんなことがあっても私は絶対に魔族にはなりません。愛よりも忠誠心を選んだんです。ずっとラビエス様のおそばにいます。私の命はラビエス様のものですから」
『……ありがとう、アリス。とても嬉しいよ』
優しい霊気が私の頭を撫でてくれた。温かくて心が潤っていくのが分かる。
『ああ、ごめん。眠くなってきた……』
巨大樹の枝が背伸びをするようにしなやかに揺れた。
私は薄い胸を張って答える。
「はい。あとのことは私に任せて、ゆっくりお休みください」
ありがとう、と瞬いてラビエス様は眠りについた。
輝く葉の明度が低くなる。
「…………」
少し心配だった。
最近、ラビエス様が眠る時間が長くなっている。
昔はよく人の形になって姿を現してくれたのに、今は声を聴く機会も少ない。
「大丈夫……ですよね」
樹齢一万年を超える霊樹だ。力の衰えは感じない。むしろ高まっている気さえする。
何か異変があれば、相談して下さるはずだ。
森の清涼な香りを吸い込み、私は不安を押し殺した。