第一話 忠誠のはじまり
今から三百年前以上前のこと。
私とリンと、それから高校のクラスメイト数十名は異世界へ迷い込んでしまった。
原因は分からない。
気づいたときには肉体はなく、魂だけの状態で見知らぬ世界を浮遊していた。
私は焦っていた。
このまま魂だけの状態ではいられない。早く肉体を得ないと、魂が摩耗して『私』が消滅してしまう。そのことだけは本能的に理解していた。
母親のお腹にいる胎児か生まれたばかりで自我のない赤ん坊、もしくは死んで魂の抜けた亡骸。
そのいずれかの肉体に入らなければならない。
結果だけ言えば、私はどの選択も取らなかった。
見知らぬ子どもの体を乗っ取る勇気はなく、かといって都合の良い死体を見つけることもできなかったのだ。
突風に煽られて他のクラスメイトとはぐれてしまい、私は一人、宵闇に煌々と浮かび上がる不思議な森に迷い込んだ。
小さな光の粒たちは私が近づくと逃げていく。私の周りだけ暗い闇が漂っていた。
魂は擦り切れ、もう限界だった。寒い。意識がゆっくりと薄らいでいく。
ああ、リンに会いたいな。
本当に大好きだった。
赤い糸で結ばれた恋人なんて今どき小学生だって鼻で笑うだろうけど、私はリンが運命の人だと信じて疑わなかった。
中学の入学式で初めて目が合った瞬間、恋に落ちていた。
二年間何もできずにうじうじしていたのに、三年生になっていきなりリンから告白されたときはとても信じられなかった。だって今まで喋ったこともなかったのに。
後でお互い入学式で一目惚れしていたのだと知って、おかしくて笑いが止まらなかった。
それから二年間、本当に夢みたいな日々だった。
高校も一緒、文理選択も一緒、大学だって同じところに行きたくて、私は早くから受験勉強に取り組んでいた。リンとは学力にも身長にもかなり差があって、私はあらゆる面で背伸びをしていたものだ。
――「そんなに頑張らなくてもいい。俺はアリスを置いてどこかに行ったりしない」
いつだったかそんなことを言われた。
言葉自体は嬉しかったけど、漠然とした不安は消えない。だって私とリンじゃ正直釣り合っていなかったから。
「嘘つきです……リンの馬鹿」
どこにも行かないって言ったのに。
リンに会いたい。一目でいいから会って話したかった。
ずっと一緒が良かった。一人きりで消えるのは嫌だ。怖い。
感情が涙の雫となって魂の外に逃げていく。
『泣かないで』
そのとき、消えかけている私を優しい光が包み込んだ。
ボロボロの魂に力が注入され、私は蛹を脱ぎ捨てるように生まれ変わった。
森の精霊王ラビエス様の力によって水の下位精霊に転生した瞬間だった。
『きみはアリスって言うんだね。もう大丈夫だよ、アリス。きみは決して一人じゃない。僕がそばにいる』
ラビエス様は巨大樹に宿る大精霊だ。
年端もいかない少年のように幼い声だけど、樹齢一万年に届くほどの偉大な精霊王である。
優れた叡智ではるか先を見通し、雄大な霊気で森の生命に活力を与え、慈愛に満ちた言葉で何千もの精霊の心を支えた。
そんな優しき王様は哀れな私に精霊の体と居場所をくれた。
『早く愛する人が見つかるといいね。きっと彼もきみを待ってる』
私はその言葉をいただいた瞬間、心からの忠誠をラビエス様に誓った。
私はラビエス様からこの不思議な世界のことを学んだ。
この世界には三つの勢力が存在する。
まずは精霊。
自然物質に宿る神秘的な生命体である。
霊力により奇跡を起こせるが、清い場所でしか生きられないため体は弱い。
基本的に穏やかな性格で、侵略欲はなく自らの土地を守れれば十分だと思っている。
争いを嫌うゆえ他種族との交流を避け、守りに徹する勢力である。
次は魔族。
破壊衝動を持つ災害のような生き物だ。
彼らは強靭な肉体を誇っているが、知能を持つ者はごくわずか。そのごくわずかの魔人が厄介で、甘い言葉で他種族を堕落させ、仲間に引き入れることもある。
欲望に忠実で、傲慢で不浄。自分たち以外の全てを害する最悪の種族である。精霊とはまるで正反対の性質を持っている。
そして、人間。
彼らは弱く寿命も短い。
しかし千年前までは取るに足らないちっぽけな存在だったにもかかわらず、知恵と技術の発達とともに瞬く間に数を増やしている。
今は人間同士の争いに夢中だが、無知と好奇心を武器に精霊の土地を荒らす困った生き物でもある。
『きみを人間にしてあげられたらいいんだけど、今の僕には難しいみたいだ。とても時間がかかってしまう』
「そんな、いいんです。命を救ってもらえただけで十分です!」
『でも、彼と再会しても今の姿のままでは……』
「そういう心配は再会してからすればいいんです。大丈夫です。例え今世で結ばれることはできなくても、一目会えればそれだけで」
私はラビエス様にお仕えしながら、魔族に見つからないようにこっそりと人間の国に足を運んだ。
私たちが生きていた日本と比べたら、かなり文明が遅れているようだった。それでも元クラスメイト達が元気にたくましく生活していて、微笑ましく思ったものだ。何となく面影があるから特定するのは簡単だった。
それにみんな前世の記憶があるらしく、なんだか目立っていた。
こういうの、そう、チートっていうんでしたっけ?
まぁ、幸せそうで何よりだった。
ただ悲しいことに、ほとんどの人間には精霊の姿は見えなかった。霊力が強くなれば具現化することもできたけど、私にはまだ無理だった。長期間森を離れることもできない。
しかし人間の中にも霊力を持った者はいる。巫女さんや神官さんだ。彼らは奇跡の力で日照りの村に雨を降らせたり、不毛な土地に緑を生やしたりして崇められていた。
彼らには私の姿も見えるようだった。私は信用できそうな人に話しかけ、長い時間をかけて何とかみんなの所在を把握していった。
だけど、どうしてもリンを見つけることができなかった。
もしかしたら私と同じで精霊に生まれ変わっているのかも、と風の精霊たちに頼み込んで探してもらったけど、他に人間から精霊に転生した者はいなかった。
あらゆる手を尽くし、私は途方に暮れた。
そうして瞬く間に時が過ぎた。
人間に転生した元クラスメイトたちは寿命を迎え、次々と息を引き取っていった。
私だけがラビエス様の下で霊力を蓄えて成長を続けていく。
「そうか。もうリンには会えないんですね……どこにもいない」
百年が経った頃、私はようやく観念した。
愛を失った胸にぽっかり穴が空く。
脇目もふらず、がむしゃらに研鑽を続けた。立ち止まったらたちまち魔族につけ込まれてしまいそうなほど、私の心は弱り切っていた。
『アリス、自分を大切にして。きみがいなくなったら僕は寂しい』
私の心を守ってくれたのは、やはりラビエス様だった。
愛を失った胸に忠誠心が深く根を張った。
ラビエス様の役に立ちたい。必要とされたい。
その一心から私は力をつけていった。
そして異例の早さで中位精霊になり、初めて魔族との戦争に参加した。
敵は魔女王エキドナの軍勢。
彼女は数多くの強力な魔族を産み、世界を好き勝手に蹂躙していた。
ラビエス様が治める森も度々攻撃を受けていた。特に侵略する理由もないくせに破壊衝動に身を任せ、平穏に暮らす精霊たちを襲いに来るのだ。
許せません!
私は水の槍を生成し、戦いに出た。
何でも今回の戦争には炎を操る強力な魔人が参加するらしい。そいつを撃退してラビエス様に誉めてもらおうと私は張り切っていた。
絶対にラビエス様の手を煩わせない。
灼熱の炎が森を焼こうと牙をむく。私は泣きわめく木霊たちを守って前に出た。
気だるげに刀を振るう魔人に向かって清き一撃を与える。
「悪しき者よ、去りなさい!」
水と炎が激しく互いを相殺し、水蒸気が煙る。
白いもやの中で光る赤い目。
私は息を飲んだ。
「アリス? ……生きていたのか?」
夢を、悪夢を見ているのかと思った。
「リン!?」
まさか前世で愛した男と敵として再会するなんて、思いもよらなかった。