【-惨状-】
*
人間は罪深き者。
全ての人間は死ななければならない。
全ての人間の罪を洗い流せる方法はただ一つ。
この世界から全ての人間が消えること。そうしてようやく、神に許される。
――おもむろに雅の胸倉が掴まれ、続いてディルの顔がグィッと寄って来る。雅が握っていた短剣は二本とも叩き落とされ、続いて男は雅を布団へと押し倒す。
浴衣をはだけさせられ、下着の上からディルの手が雅の胸元へと伸びた。
醒める。
雅は全身全霊の力を込めて、ディルの腕を払い飛ばし、続いて男の下から這い出した。
ディルの口がパクパクと動いている。耳栓をしているので、なにも聞こえない。雅ははだけた浴衣を整えて、それから枕元に置いていたメモに文字を書く。しかし手は震えていて、綺麗な字を書くことはできなかった。
それもこれも、ディルが雅を押し倒して来たからだ。
嬉しいのか怖いのか、よく分からない感情と感覚に苛まれ、心臓は激しく脈打っている。顔も赤く染まり、耳朶まで熱を帯びている。
『耳栓は?』
ディルがメモ用紙を荒々しく雅の手から奪い取り、文字を書く。
『もう外せ。歌は終わった』
歌は終わった?
分からないまま、雅は耳栓を外す。ケッパーの力で三半規管まで根を張っていたはずのそれは、スルッと簡単に取れた。
途端、無音から周囲の様々な音が飛び込んで来て激しい頭痛を伴う。耳鳴りも酷いが、こちらはすぐに治まった。
「おい、クソガキ。テメェはもう醒めたのか? 目が覚めたって話じゃねぇ。ちゃんと自覚を持って動けているのか?」
「ど、どういうことよ! それと、さっきの乱暴がどう関係あるって言うのよ!」
「乱暴に及んでいたのはテメェだ、クソガキが! 部屋の中をよく見ろ!!」
雅は辺りを見渡す。一瞬、夢の中のことかと思い瞼を擦り、頬を抓って、もう一度見回すが、どうやらこれは幻覚などではないらしい。
柱には剣戟によって削れた跡が幾つも残り、畳はほぼ全てが引き裂かれている。そして雅がディルによって押し倒された布団も滅茶苦茶に切り刻まれていた。
「全部、テメェがやったんだ」
「私、が?」
「寝込みを襲うとは良い度胸だな、クソガキ」
「ちょっと待って! 分かんない! 私、なんにも憶えてないんだもの!」
ディルは怒ってはいたが、雅のいつも通りの対応にどこか安心している風にも見える。
「リィはどこ?」
「ケッパーの部屋に行かせて、今は部屋の外だ。扉が開けっ放しなのは、歌声が終わり次第、俺にその連絡が来るようにするためだ」
「そ、うなんだ」
「それで、憶えていないというのは本当か?」
「憶えてないよ! なんで私がディルの寝込みを襲うのよ! 襲ったって私に得なんて無いでしょ!? ねぇ、お願い! 信じてよ!」
「少し静かにしろ。頭に響く。目も虚ろじゃなくなったようだしな、テメェの言い分を信じてやるよ」
どうやらディルも無音の世界から戻って来たことで、頭痛に見舞われているらしい。雅も頭痛は続いているので、頭を押さえつつ声量を落とす。
「私、なにしたの?」
「テメェが襲って来た時間は大体分かる。午前四時十二分前後にテメェは寝ている俺目掛けて短剣を突き立てようとした。だが、布団の上からだったためか俺の体の位置を正確に把握できなかったらしいな。全く当たらなかった。が、衝撃で目を覚ました俺にテメェは尚も襲い掛かり、その剣戟を避けている最中に、俺は壁掛け時計を目眩ましで取って投げた。その時にぶち壊れたんだろう」
雅は腕時計で現在の時刻を調べる。午前五時を過ぎたところだろうか。つまり、雅は午後五時に至るギリギリまでディルと、無意識の内に戦っていたことになる。
怖ろしいことに、そのときの記憶は全く無い。そして体の疲れも一切無い。筋肉の疲労すら感じていない。
「どうし、て……?」
「セイレーンの歌を聴いたんだろ。テメェ、耳栓はちゃんとしていたんだろうな?」
「当たり前でしょ! 無音でなんにも聞こえてなんか…………あっ」
「心当たりでもあるのか?」
「私……時々、変質の力のせいか、耳がよく聴こえる時があるの。特に自分に関係のあるものはよく聴こえる。風が声を運んで来る、感じ」
雅は自身が外した耳栓を眺める。
「んー、耳栓は完璧だったんだけどなぁ。骨伝動が起因しているなら、あり得るんだけど……その聴力が骨伝動由来かどうかは分からないよね、『風使い』に備わっているとも思えない。でも『木使い』の僕の力を君の力が上回ったことだけは確かだ。現に、君以外の誰もそんな風に暴れ回ったりはしなかった。“人形もどき”も、ムカつくぐらいにぐっすり眠ったまま。もっとも、僕が知る範囲での、話になるけれど」
「どういうこと?」
雅は言いつつ、ケッパーの横を抜けて廊下に飛び出る。
血に染め上げられた廊下。血だらけで倒れている人たち。どう見ても出血多量で行き耐えている人――死体の数々が廊下から見えるところでも怖ろしいほどにあった。
「これ、全部……私が?」
「んなわけあるか」
ディルが雅の頭頂部に軽く拳骨を落とす。
「対策を取ってねぇ討伐者がセイレーンの歌に操られて、惨劇の限りを尽くしただけだ。さすがにこの量は、驚かざるを得ないがな」
「私……私、セイレーンの歌を耳にして、それで……なんで、醒めたの?」
「セイレーンの歌は女性的だけれど、とても甘美なものと言われていてね。人間の異性同性問わずに惹き付けられて、操られる。これを解くのはなかなか難しいんだけど、実はセイレーンの歌声を聴いている最中、人は一種の快感状態にあるんだ。実際には快感への期待かな。だったら、それ以上の快感を無意識であっても期待したならば、醒めやすい」
ケッパーの下卑た視線が雅とディルを交互に見る。
「ぁ……う」
だからディルは雅を布団に押し倒し、更には胸を弄ろうとしたのだ。そのときの雅の中にあった様々な性的な感情が、甘美なる歌声を聞く喜びよりも強い悦びによって上回った。だから醒めた、ということらしい。
「まぁ、深く追及する気も無いし、追及したらディルが殴るだろうから僕はなにも言わないさ。けれど、今言ったのは荒療治で、操られた者全員に通用するわけじゃない。大体、知り合いじゃなきゃ難しいし、そう簡単にできることでもないでしょ。だぁから、操られている人間を生かしたまま解き放つには、歌声で操ったセイレーンそのものを討伐しなきゃならない。セイレーンが死ぬときの絶叫が洗脳を解くスイッチでもあるんだ」
「……じゃぁ、ディルが五年と半年前に右目を失ったのって」
「奇襲で洗脳された人間に羽交い絞めにされたせいでもあるけれど、その洗脳された人間を殺さずにセイレーンだけを討つ荒業をやってのけたからさ。この男がそう易々と片目を潰されると思うかい? 潰されたのは、どうしても潰されなければならない状況にあったからだ。その時は『クィーン』が歌声を響かせていたわけじゃないから、逃げられてしまったみたいだけれど」
自身の一部を失うような苦しみを味わっても、自らを拘束した人間を殺さずに海魔だけを討った。そんな芸当は、雅にはきっとできない。
「俺のことは良い。『クィーン』がどの程度の規模で歌声を放ったかがまだ分からねぇ。寝言にしたって、限度があるだろうがよ」
「目覚めの時が、近付いているのかもね。僕は“人形もどき”を起こしに行くから、君たちは先に支度を済ませて、外の様子を見て来てくれるかい?」
ディルは肯き、「さっさと支度をしろ」と言い残して、廊下で待っていたリィに一声掛けて、早足でフロントへと歩いて行った。ケッパーもまた自身の泊まっている部屋へとフラフラと左右に揺れながら、相変わらずの猫背のまま歩いて行く。雅は部屋に戻り、自分自身がこれを全てやったのか、と見るも無惨な部屋を眺めたのち、奇跡的に無事だった着替え、ワンショルダーバッグとウエストポーチを掻き集めて、浴衣から昨日、購入に踏み切った衣服に着替える。汚れたままの衣服は、ここではもう洗濯もできそうにないと判断して、ワンショルダーバッグの中に詰めた。
部屋の隅に落ちていた短剣を二本とも拾い、鞘に収めて腰に差す。乱れている髪を梳いて、ついでに洗面所の水で顔を軽く洗った。
ウエストポーチを腰に付け、ワンショルダーバッグを襷掛けし、思い出したように冷蔵庫から水の入ったボトルを取って、それを左右に一本ずつ持ち上げながら部屋を出た。
廊下の惨状にはできる限り目を背けた。目を向けて、受け入れなければならないのかも知れないが、これほどの死体の山を見ることに雅は耐性が付いていない。怖くなって動けなくなってしまうことがなにより嫌だった。だからがむしゃらに歩き、フロントから外に出た。
「水にどれだけ執着心を持ってんだよ」
「ここに水を置いておくとか、勿体無さすぎる」
「がめついな、クソガキ。だが、それで元通りになったってことは分かった」
ディルは雅が持っていた二本のボトルを一本、奪うようにして取った。
「あの……荒療治のことなんだけど」
「はっ、思えばクソガキに感謝されこそすれ、謝罪なんざする必要はねぇな」
憤慨もののことを言われているのだが、抑えるしかない。なにせ思い出すだけで茹だってしまいそうなのだから。
…………触られなくて、良かった? いやでも、触られた方が……いやいやでも、触られたら胸が無いのがよけいに判明する、し。
なにを考えているんだ自分は、とハッとなって我に帰る。そして、今後一切、このことを思い出さないという強い意思を表すためにボトルをその場に置いて、両手でパンッと強く頬を叩いた。
「服、似合ってるかな?」
「知らねぇよ」
少しは褒めても良いのにと思っていたところに楓が雅の背に飛び付く。
「おっはよーございます!!」
「そういうの良いから、早く降りて」
重いとは言えない。楓は「愛情表現の一つなのに」と言いながら、雅の背中から降りた。
楓は浴衣ではなく、初めて会ったときの服装に、雨合羽も着込んでいる。どうやら彼女も支度が済んだようだ。




