【-緩み切った顔-】
「…………え、ちょっと待って、あり得ない」
雅はここでようやく、思考が至る。
ディルと、同室なのだ。
「はぁ? ふざけんなよ、クソガキが」
「部屋、二つ取れなかったの?」
「ほぼ満室だ。一部屋しか取れなかった。テメェは人の話を聞いていなかったのか?」
「……や、でも、ちょっとそれは、あり得ないっていうか」
「うるせぇ、さっさと部屋の中へ入れ。ポンコツ、中へ入れろ」
「お姉ちゃん、ほら、早く中に入って!」
リィの、少女とは思えない尋常ならざる力で引っ張られ、雅は室内に入ることを拒んだが、その全ては無意味に散った。
扉は西洋風だったが、中は畳張りの広い和室だった。上がり框もあって、昔ながらの日本を彷彿とさせる。
「こんなところ、初めて」
「テメェは旅行もしたことがねぇのか」
「無いよ。無いに決まってるじゃん。そんなことできる時代に生まれたかったよ」
雅は靴を脱ぎ、更には靴下も脱いで畳の上に寝転ぶ。座椅子と座卓が部屋の中央にあり、部屋の奥にある大きな窓の近くには、深く座ることのできるソファもある。起き上がり、襖を開ける。中には畳まれた布団と、なにより雅の心を射止めたものがビニールに包まれて入っていた。
「浴衣!!」
「っるせぇな」
「だって浴衣だよ! 凄い、初めて見た!」
「だから、うるせぇっつってんだろうが!」
ディルが苛々しながら柱を蹴った。物凄い音が雅の耳を劈き、盛り上がっていた感情がゆっくりと冷えて行く。ディルはそれを目で確認したのち、靴を脱いでスリッパを履く。
「ちょっとは静かになったか?」
「うん、はしゃいで御免なさい」
「分かりゃ良いんだよ。あとはテメェの家と同じだ。俺を怒らせないように、静かに過ごしていろ。そうすりゃ俺はこういった生活空間の中で文句なんざ言わねぇ。静かで居られるんなら、はしゃいだって構わねぇ。俺が、怒鳴らない程度であることが前提だが、な」
ディルは言いながら肩を回しつつ、まず座卓を部屋の隅に移動させて立たせる。そして座椅子も隅に寄せ、次に自分だけが寝る分の布団一式を敷いた。
「晩御飯、食べないの?」
「民宿の作った食べ物は毒味役が居ねぇと喰わねぇ」
「はい、私、毒味役やります」
「ワタシもやる」
雅とリィが恐る恐る小さく挙手すると、ディルは敷いた布団を部屋の隅に移し、先ほど立たせた座卓を再び部屋の中央に持って来て、座椅子も所定の位置に戻した。
「銀行と査定所に寄る。水を使うものは民宿やホテル持ちだ。トイレ、水道、風呂、料理。それらに使う水を全部負担してくれるんだから、討伐者にとってこれほど快適なところもねぇ。だが、飲料水に限っては討伐者側が負担する。これはどこの宿泊施設でも暗黙のルールだ。テメェの分も合わせて引き出してやる。明日にでも引き出した分の水を俺に寄越すんだな」
「うん」
「けっ、いつもは出し渋るクセに、こういうときに限っては素直だな、クソガキ」
ディルはカードキーを懐に入れ、ボロの外套を着込んで部屋を出て行った。
「浴衣ってどうやって着るんだろ。ってかまず、浴衣を着る前にお風呂……? もしかして大浴場もあるのかな」
「お姉ちゃん、みんなで入るお風呂、あるみたい。ほら、これ」
リィはこう見えて無類のお風呂好きである。それは客船型戦艦の簡易な大浴場で判明している。だからか、民宿のパンフレットに載っている大浴場を目敏く見つけ、すかさず雅に報告した。
「ディルが帰って来たら、お風呂に入って、お風呂に入ったら浴衣を着て、浴衣を着たら料理を食べて、それから……それ、から……」
改めて、ディルと同室であることに思考が至る。
何故だか分からないが自然と視線が自身の胸元に向き、続いて下腹部に向く。その後、浮かび上がった信じ難い妄想を、首を左右に振ることで必死になって消し去った。
考えすぎである。ディルは、あのケッパーのような生理的に受け付けないような言動を取ることはない。むしろ無関心である。
三十代後半の男が成人すらしていない雅に関心を示したなら、それはそれで危ないのだが、しかし、内心穏やかではない。
自分の家にディルが居たときと同じ、あのときと同じ。
そう強く念じることで、妄想を吹き飛ばす。浮いた心を着地させる。また変に大声を出してディルに怒られることだけは避けたい。何故なら、部屋を追い出される可能性があるからだ。こんな部屋に泊まることができる。そして、お風呂で汗を流して、ふわふわの布団で眠ることができるのだ。追い出されるのだけは勘弁だ。
雅はベッドよりも布団派である。そして、ここ最近はまともに布団で眠れていない。入院していたときはずっとベッドだったので落ち着かなかった。なので、久方振りの布団で眠れることがなにより嬉しくてたまらないのだ。
「浴衣の着方、だって」
リィがパンフレットを雅に見せる。そこには『正しい浴衣の楽しみ方』というものが図と共に記されていた。そして、その横には『お手軽に浴衣を着て楽しみたい方は――』と続いて、先ほどと同じように図と文字が記されている。ただし、前者は堅苦しさが見え、後者は雅が想像する楽な浴衣の着方であった。そして、これを見る限り、後者は一人でも、そう難しくなく着られそうである。
「これならリィも着られるよ」
「ワタシも?」
「そう」
「やった」
リィは嬉しそうに笑った。雅はリィの頭を撫でたあと、棒のようになった足を引きずるように歩いて、座椅子に腰掛ける。
「気を楽にして、足を伸ばせるって良いなー」
扉も防音や防犯の処理のためにオートロックということは、この壁だって防音仕様の材料を壁と壁の隙間に埋めているはずだ。高級感溢れる部屋なので、隣室の声や音が聞こえて来ると一気に興が削がれてしまう。試しに座椅子から立って、雅は壁に耳を当ててみたが、なにも聞こえない。そうとなるとどれだけ大声を出しても構わないんだという気分に駆られて、何故だか分からないが高揚した気持ちに合わせるかのように部屋の中でピョンピョンと跳ねる。
跳ねるだけ跳ねたあと、足の痛みを思い出して、座椅子に座り直すと疲労した筋肉を労わるかのように痛みの箇所をマッサージする。
「晩御飯はどんなのが良い?」
「美味しければなんでも」
「美味しくないわけがないよ」
傍に寄って来たリィからパンフレットを受け取り、そこに写されている料理の数々を眺めてうっとりとし、こんな腐った世界にも、まだ楽しみはあるものなのだなと感動する。
はしゃいでいる雅の耳に扉の開く音がして、まもなくディルが入って来る。
「……緩み切った顔をしやがって」
うぜぇ、と言葉を零しながら水が2リットル入るペットボトルを三本ほど座卓の上に置いた。




