【-男の中にあるもの-】
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「俺たちゃ、ここで死ぬのかも知れねぇな」
圧倒的な数の海魔が攻め寄せて来るという伝達が入ったのち、隣に立っていた男が言った。
「数だけなら、どうとでもなるわよ」
悲観に暮れる男に対して、女は煙草で気を紛らわせながら答える。
「でも、逃げたら銃で撃たれるんだぜ? 酷くねー?」
準備運動を何度も続けながら、また別の男が言う。
「海魔に喰われるよりはマシに思ってしまうのが情けないところだ。あなたもそう思わないかい?」
瓦礫を押し退けて、自身の行動範囲を広げつつ、これまた別の男が呟き、質問として五人目に会話を回す。
五人目の男はなにも答えない。
「あー、そいつは駄目だ。放っておいた方が良い。頭が先にイカれた奴らしいから」
「えっと、目の前で大切な人を喰われた、だったかしら?」
「国のために防衛戦に参加したってより、復讐のためらしいからなー」
「言ったって、もう何年も前のことなんだろ? 上手くチームを回すためにもコミュニケーションは必須じゃないかい?」
五人目の男は光の灯っていない瞳で、ジッと四人を見つめる。そして、ボソリと呟く。
「テメェらには分かんねぇよ」
その一言が決して引き金になったわけではないのだが、時を同じくして大地が震撼する。小刻みに地鳴りが繰り返され、続いて見えて来た海魔の数と、そしてその体躯は五人の想像を軽く絶していた。
その場には絶望があった。アレを海魔と呼んで良いのかという疑問と、あんなものと戦わなければならないのかという逃避の感情が、その場を満たしていた。
ただし、一人の男は待っていたとばかりに怒りを露わにし、奇怪な叫びを上げて戦闘の態勢に移る。
イカれた男は一人、圧倒的な体躯を持つ海魔の一匹に狙いを定めて駆け抜けて行く。それに続くように、四人の体が自然と動き出す。
絶望したところで逃げ場は無いのである。使い手は、討伐者は今ここにおいて、逃げ出す選択肢を与えられてはいなかった。だからこそ、どれだけの絶望を前にしても、そこに飛び込まなければならない。それはイカれた男が含まれたチームに限らず、また別のところで待機していたチームにも言えることであった。
結果、イカれた男が所属していたチームだけが生き残った。ただ、男以外の四人もまた頭のどこかが壊れてしまったのではあるが。
*
「あたしにも特訓を受けさせてください!」
戦闘訓練を切り上げ、どこか話のできる場所に移ろうと歩き出した直後、白銀 葵は頭を下げてそう声を張った。直後、ディルが反転して彼女の足を掬うように蹴り飛ばしたのは鮮明に脳に焼き付いている。そのおかげで、人が足を蹴られて倒れる様が滑稽に見えることを知り、先ほどまでの自分自身と投影して、物凄く恥ずかしくなったのは記憶に新しい。
当然の如く、ディルは「却下だ」と言い放ち、ついでに「これ以上、お荷物を抱えられるか」と愚痴まで吐き捨てた。お荷物とはまさに雅のことなのだが、彼女はただ黙って俯くことしかできなかった。ディルとの戦闘訓練でどれだけ自分が未熟者であるかを体感したあとなのだから、文句の一つも言いようがなく、また怒る気力も湧き起こっては来なかった。
ただし、蹴飛ばして尻餅を付いた白銀 葵を見て、なにやらピンと来たものがあったのか、ディルは唐突に雅に気色の悪い笑みを浮かべてみせた。
「明日の二等級海魔をテメェらで始末してみせろ。そうしたら、テメェも、そっちのお前も両方、面倒を見てやる。どちらかが死んで喰われたんなら、早々に俺は切り上げさせてもらおうか」
この提案は明らかにディルの悪意が含有されていた。即ち、雅も白銀 葵も、その両方を切り捨てる絶妙なチャンスだと彼は捉えたのだ。雅が有り金全てを払ってでも師事しようとした男は、これっぽっちも自身に対して、なにかしらの感情も抱いてはいなかった。やはり「バックアップ」とは嘘であり、先ほどまでの戦闘訓練も二等級海魔討伐の当日に至るまでの流しでしかなかったのだ。それがとても腹立たしくなり、結果、煮え滾るほどの熱を帯びた声に変わった。
「なら、もし二人で倒せたなら一生、面倒を見なさいよ!! この性悪鬼畜男!!」
結果、現在、雅は白銀 葵と二等級海魔の討伐に向かうことになった。その後ろでディルが性根の腐り切ったような顔でコチラを眺め、リィがそんな彼を見て小さな溜め息をついている。
ただし、性悪鬼畜男にも少しばかりは人間の心があるらしく、前日の戦闘訓練の終わり時に言い損ねた、雅に合った戦い方だけは言葉で一応ながら伝えてはくれた。それでも雅の中で性悪鬼畜男なことに変化は無い。
出会った当初からそうだった。特別、意識などはしていないがこの性悪鬼畜男はもう少し、異性に限らず人への対応を改めるべきだ。そのような憤慨が祟り、言い包めればきっと諦めてくれるはずの白銀 葵すらも巻き込んでしまうことになった。
しかし、逆に考えれば雅にとっては僥倖である。一人で討伐することになっていたであろう二等級海魔に二人で挑めるのである。一人で挑むよりも二人である方が討伐の成功率は高いはずだ。そして、その討伐に成功すればディルの鼻を明かすこともできる。
「まともに協力して海魔を討ち取ったこともねぇ奴が、揃ってみんな失敗するんだよなぁ」
クククッと前方の二人に対して投げ掛けられる不穏な台詞と、卑下する笑いに憤りを隠すことができない。
「白銀さん、実戦経験は?」
「ねぇよ」
「ディル……さんには訊いてない!」
反抗する子供のように雅は怒鳴る。
「『水使い』は、それだけで地位が確立してんだよ。そんな連中が好んで討伐者になんてなりはしねぇし、そいつもきっと討伐者としての資格は得ていても実戦に出たことなんて一度もねぇに決まっている。それでも外に出されて監視やら討伐を命じられる奴ってのは、総じて使い物にならねぇクズなんだよ」
肩を震わし、白銀 葵はそこから全身に震えを走らせる。
「あ、あたし……あたし、は」
「そこの異端者のクソガキは研究中だが、テメェについては想像が付くんだよ。俺の罵声だけで震えて、ちょっとしたことでも言葉が詰まって、喋れなくなる。極度の人見知りに加えての、大の人嫌いだ。ついでにきっと、海魔の死骸やら臓物を見ただけで気持ちが悪くなり、嘔吐したり気を失ったりするような細い神経の持ち主。そんな奴は海魔の死骸から水を生成するのも下手くそで、『水使い』でありながら重宝されない。好んで戦いに赴く戦闘狂は大抵が男、たまに女。そのたまに、に含まれる女にテメェの性格も態度もなにもかもが一致してねぇ。こりゃ相当のクズだ。廃棄処分すんのも面倒なくらいのクズだ。せめて人に迷惑が掛からないように死んで行け。ああ、俺のことは気にするな。目の前で女が死ぬと、逆に興奮するような思考回路の狂ったイカれ屋だからな」
白銀 葵はその場で膝を折り、泣き崩れてしまった。
せめて、ディルが直球で物事を言うような男じゃなかったなら、と雅は考えたがそれでもきっと、この性悪鬼畜男ならば同じく彼女を泣かすに足り得るだけの言葉で責めていただろう。どこにも期待しては行けない。ディルという男は、こういう男なのだと雅は納得する以外にない。白銀 葵に声を掛けようにも、掛ける言葉も見つからない。自身にそれほどの経験も無く、また彼女を鼓舞するだけの力強い言葉を発せられるような強さも雅には無い。
「いい加減に、してくれませんか?」
それでも、彼女のために雅は言い返さなければならなかった。
「これから二人で討伐しに行こうってときに、なんで白銀さんの心を折りに行くんですか。そんなに私たちに死んでもらいたいんですか?! それほどまでにあなたは、人が死ぬ様が見たいって言うんですか!?」
溜め込んでいた毒を吐くように雅は続けつつ、ディルに詰め寄る。
「あなたは最低で最悪の討伐者よ! 海魔に襲われている相手しか助けない! 助けた相手に金銭や水を要求する! お金も水も持っていないなら罵詈雑言を浴びせて自分の性癖を満たす! それでどうして討伐者なんてやっているんですか!? なんなら、海魔殺しなんかせずに人殺しにでもなれば良いじゃないですか!!」
吐き出し切った。言い切った。胸の内がスカッとした。これならばディルも少しは堪えるだろうと思い、顔を上げる。
ディルは動揺の欠片も見せず、明らかな「面倒臭い」といった表情を作っていた。
「それのなにが悪い?」
「……え?」
「逆に問うが、海魔に襲われている相手しか助けなくてなにが悪い? 助けた相手に金銭や水を要求してなにが悪い? 罵詈雑言を浴びせてイカれた感覚に浸ることのなにが悪い?」
雅は震え上がる。この男に、己の心の叫びは一つとして届いていなかった。それどころか、開き直りにも近い言い分を口にして、彼女を睨んでいる。左目の濁り切った瞳と潰れた右目の代わりの義眼が、ただ視線を交わしているだけであるのに恐怖を押し付けて来る。
「俺はな、クソガキ」
一歩進んだディルに気圧されて、雅が一歩下がる。
「生きている限りは死にたくねぇんだよ」
更に一歩進んだディルに怯え、雅は二歩下がる。
「そのためなら、人非人めいたことだってなんだってやる」
強く踏み込まれ、雅は三歩下がったところで尻餅を付いた。
「俺は、テメェみてぇなクソガキよりもずっとずっとずっとずっと、海魔を殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて! たまらねぇんだよ。それを抑えて、テメェらクソガキに二等級海魔の相手をさせてやろうって言ってんだ。それで死のうが喰われようが構わねぇよ? 最終的に俺が殺すんだからなぁ。それでテメェらクソガキが二等級海魔を殺したって俺は関心なんてしねぇ。殺したいもんが殺された。ああだったらそれで良いかで終わりだ。テメェらに興味なんてねぇ、指導なんてしたくもねぇ。だが、その先で海魔を殺すって作業があるんなら、そこまで至る過程は苦行でしかねぇが呑み込んだ。多少なりとも指導しているフリをしてやっているんだから、光栄に思えよ? クソガキ」
雅はディルの中にあるものがようやく分かった。それは、海魔に対する超絶的なまでの恨みと怒りと、復讐心だ。残った左目に残る微かな感情は、後生大事にと抱えていたものを海魔の手によって奪われてしまったかのような、そのような哀愁さえ漂わせている。しかし、そんな哀愁すらも呑み込む圧倒的な黒いヘドロのような感情が、この澱んだ瞳を構成させているのだ。
澱みとヘドロには、どんな生物も住もうとは思わない。潜むとすればそれは同じく、この世界を腐らせ、悪臭を放つ海魔だけ。だからこの瞳が見ているのは常々に、海魔という殺したい相手だけなのだ。
「ほぅら、そうこうしている内に討伐対象のご登場だ」
戦意もやる気も、海魔と相対する二人のそれを削ぎ落としておきながら、ディルは飄々と言ってみせる。せめてもの良心だと思うリィに助けを請う視線を送るが、彼女はディルに同調するかのように「頑張って」の一言を残すだけだった。
やるしかないのか。こんな、もうなにもかもをうっちゃって投げ出してしまいたいくらいの感情に支配されているのに。