【-雨がやんで-】
「はっ、またどうでも良いことに喰い付きやがって……どこで俺の話を聞いた?」
「査定所を通れば、噂話は耳に入るものだよ。君、客船型戦艦に乗って外国から日本に戻る途中だったんだろう?」
「ああ」
「よりにもよって、深海級海魔が現れ、護衛として搭乗していた討伐者の過半数が死に絶えた。その中で君と数人が生き残り、戦艦を襲ったほぼ全ての海魔を討ち取った。けれど、一匹を逃してしまった。そう聞いているよ。その逃がしてしまった一匹こそが『クィーン』さ」
ディルは右目の義眼に指で触れる。
「眼前から押し寄せて来たなら対処はできた。だが『クィーン』は、この俺に奇襲を仕掛けて来た。複数人を“歌声”で操り、俺を羽交い絞めにし、そして握り締めていた人間の短剣の切っ先が、眼球を抉った」
ブルッと雅の体に震えが走る。ディルの過去について知ったこともそうだが、この男が久方振りに見せる狂気と快楽に満ちたような、怖ろしい表情を作っていることに気付いたからだ。
「で、羽交い絞めにした一般人を殺しはしなかったんだねぇ?」
「ああ。あとから来た討伐者に引き剥がしてもらった。『クィーン』は戦艦に乗っている討伐者の中で、一番厄介な者を負傷させ、戦えないようにしたかったんだろう。逆に俺はその一撃のおかげで、ほとんど全ての海魔を屠るほど激昂したわけだが」
「まさか“死神”を狙ってしまうなんて、『クィーン』も予想外だっただろうさ。片目だけで良かったじゃないか。下手をしたら命まで取られていたかも知れないんだから。けれど良かったよ、昔のままで。君の連れているその子に、人殺しの知恵を教えているなら、今から僕はそこの“人形もどき”を連れて出て行くところだった」
「はっ、このクソガキが人なんて殺せるかよ。逆に不本意に殺してしまったことを後悔し続けているくらいだぜ?」
雅をケッパーがジッと見つめて来る。好きで殺したわけではないのだが、殺してしまった過去がある自分を、ひょっとするとこの男は咎めるのではないか。そんな怖ろしさがあった。
「ヒィッヒィッヒィッ。そりゃぁ、仕方が無い。不本意なら仕方が無い。故意にやったなら、赦しはしない。まぁ、僕も力の扱いになれていないときには、人を殺してしまったし、植物人間にもさせてしまった。おかげさまで、ずっと人を殺すのは怖いままさ。リコリスも、きっと殺しは嫌っているだろう。『飲んだくれ』はそもそも、臆病者だから殺すこと自体、考えられない」
ケッパーは雅から視線を外し、またディルを見る。
「“あいつ”をどうするんだい?」
「『正義漢』なんか、放っておけ。話題にも出したくねぇ」
「そうかい、なら良いんだ。君も同じく、“あいつ”を嫌っていてくれることに、僕は胸を撫で下ろすばかりだよ」
言いながらケッパーは屋根の外に出て、空を見上げる。
「通り雨だったようだね。あぁ、あぁ、晴れた晴れた。もっと過去について語らいたかったけれど、街までもうすぐだから、ここで眠るよりも歩いて民宿に泊まってしまおう。ディルの作った堀に足を取られないように出ておいで、“人形もどき”」
「分かりましたよ」
楓は不満タップリの声で答え、しかし雅に向ける表情はとても明るいものだった。
「次にお会いしたときには、もっとちゃんとしたお話をしたいと思っています。それでは、雅さん」
「あ、うん。じゃぁね、楓ちゃん」
小さく手を振って、雅はケッパーを追い掛ける楓を見送った。
「あのガキは、ケッパーの息が掛かっている。あんまり仲良くするな」
「ディルはとても仲良さそうにケッパーと話していたけど?」
イヤミたらしく言う。
「人形野郎は三次元を見ていねぇからな。逆に言えば、三次元を一番よく見ていて、毛嫌いしているとも言える。本当の本当に現実逃避をしている奴と比べれば、話はしやすい方だ」
「それ、よく分かんないんだけど」
「夢ばかり見て、それを語ることしかできない輩とは話をする気も起きねぇってことだ。体は動くようになった。俺たちも街に急ぐぞ。ポンコツの手を引いて、ちゃんと付いて来い」
ここまで野宿の準備をしていたが、ディルは予定を変更したらしい。恐らく、ケッパーが「街までもうすぐだから」と言っていたためだ。雅は薪集めで疲れ、船を漕いでいたリィを軽く叩いて起こし、彼女の手を引いてねぐらから出る。そのとき、ディルが作った堀に溜められた水にだけは足を入れないよう気を付けた。
「晴れているけど、早く行かないと夜になっちゃうよ」
「着いたときには夜だ。民宿に空きがあれば幸いといったところか」
ディルは濡れた地面を踏み締める。すると後方を歩く雅の足元の道路は土となって乾いて行く。
話をする前に気遣われてしまった。
ディルは自身が歩く周辺の道路を乾いた土へと変質しながら進んでいるのだ。おかげで靴底の消耗を減らすことができる。『穢れた水』を含む土は靴の消耗を加速させる。なので、靴はファッションや好き嫌い関係無く、旅をせずとも幾つも用意しておかなければならない。ディルは恐らく、旅先で靴を買い換えているため持ち歩いていないのだろう。そして雅も、旅立つ際の荷物の一つに靴を入れていないので、この男と同様、着いた先の街で靴を買い換えることになるだろう。
借金がまた増えちゃうよ……。
こんなことなら、訓練のあとすぐに旅に出るんじゃなかった。少しは町で支度をすれば良かったと、雅は項垂れた。
「バカガキのせいで、今日はもう外套が使いもんにならねぇな。明日か明後日には戻っているだろうが、蹴り飛ばせなかったことだけが腹立たしい」
「……外套で思い出したけど、ケッパーも着てたね。ボロボロの、黄緑色の外套」
「愛着があるんだろ」
「リコリスもボロボロの水色の外套を着ていたけど?」
「愛着があるんだろ」
そうは言っているが、きっとディルもリコリスもケッパーも、愛着ではなくボロの外套に執着を持っているのだろう。纏っている外套は全員にとってとても大切なもので、肌身離さずに居たいと願うくらいに、使い古している。
その外套を繕ったのは、一体誰なの?
雅はそう訊ねようと思ったが、喉から声が出る瞬間に口を噤んで気持ちを抑え込んだ。
訊いて、もしも、外套を繕った人が女性だったら? その女性が、ディルの想い人だったなら、どうしたら良いのか。
なんともよく分からない感情が雅の疑問を押し潰したのだ。
「お姉ちゃん、変な顔だよ?」
「なんでも、無いから」
「そう?」
「そうだよ」
雅はリィの手を引く方とは逆の手を胸元に当て、心臓の鼓動が明らかに速くなっていることに気付く。
けれどそれを誤魔化すように、苦笑いをリィに向けてディルの背中を追い掛けた。




