【-“昇華”と『人で無し』-】
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轟音が耳を貫いたのち、葵の悲鳴が木霊する。前方で蠢いている触腕の一部を斧鎗で切り裂いたのち、ディルは動きを一旦、止める。
「クソ女」
「はいよー」
リコリスがディルの目線で察し、片手で天を指差す。ジェル状の水が空から触腕へと落ちる。粘着力のある水はそのまま触腕を甲板へと張り付かせ、動きを制限させる。そして身動きの取れない触腕に対し、ディルは念押しとばかりに、複数本の斧鎗で甲板へと磔にする。
そして身を翻し、甲板の前方へと走った。
「うるせぇぞ、ウスノロ! 一体、さっきの音はなん、だ?」
呆けて、まるで動くことのできていない葵に向かってディルが怒鳴り付けつつ、視線を轟音のした艦橋の方に向ける。
苛立ちをぶつけるかのように甲板を力強く踏み付けながら、倒れたまま動く様子の無い雅に寄る。
「おい、クソガキ! テメェ、死んでんじゃねぇだろうな!?」
声は荒々しくも、ディルの手付きは慎重そのもので、まず雅の右腕で脈を取る。その後、耳を胸元に当てて心臓の鼓動を確認する。
「ディ…………ル?」
「喋るな。生きているが、テメェの臓器がどうなっているかまでは分からねぇ」
左腕の骨折は目に見えて分かるが、内臓を確かめる方法は、この場には無い。麻酔や縫合手段、清潔な刃物も無いこの場で腹を割くわけにも行かない。
「胸ロリ、一体なにがあったのよ!」
ディルが聞いた中では、久方振りのリコリスの動揺が現れている声だった。そして、女の視線は葵と雅を交互に見やる。
「あ、の……」
「だから喋るんじゃねぇ。なにがあったかはウスノロから聞いてやる」
「あ……そこ、分か、る?」
雅の右手がスッと艦橋の頂点を指差す。
「そこがどうかしたのか?」
「……ディ、ルな、ら…………分か、る……よ、ね」
どうやら雅にディルの声は届いていないらしい。そして、指差したところで彼女は力尽き、ピクリとも動かなくなった。
「くそっ、こいつを守りながら深海級の討伐なんざ、やってられねぇな」
甲板後方には三本の触腕があった。そして甲板前方では二本の触腕がウネウネと蠢いている。そこに更に一本が増えて、これで六本の触腕の居場所は判明している。ヒトガタワラシの頭部がここまで海面から現れているということは、残りの二本の触腕は戦艦の外面に張り付かせて、全身を持ち上げている状態にあると窺える。
後方の三本はしばらくは動かせないだろう。ならば、気にするべきはヒトガタワラシの体を支えている二本ではなく、視界の中で自由に蠢いている三本だろう。
これらの猛攻を凌ぎ、まだ甲板上で嗤い転げているインプまで相手にするのは、骨が折れる。甚だ面倒である。死人を出さずに海魔を討てと言われれば至極、簡単であるのだが、現状、そうも行かなくなってしまった。もう全てリコリスに任せ切ってしまっても良いのだが、雅は「ディルなら分かるよね」と言った。
甚だ面倒ではあるが、その期待には応えなければならない。
「クソ男! 胸ロリが言うにはクソロリが触手に叩かれて、艦橋にぶつかったらしいよ! その子、潰れずに生きてるなんてどういうこと!?」
とんでもないことをリコリスは口走った。
ディルが今、ここで生死を確認した雅が、ヒトガタワラシの触腕に叩かれただけでなく艦橋に激突したというのは、到底信じることができない。
少女の体は原型を留めている。有り余るほどの力で叩かれ、艦橋に激突したのなら、体は肉塊にまで成り果てるはずだ。だが、まだ人の形を保ち、心臓も脈打っている。
「こいつ、寸前で『風』をクッションにしたのか?」
自らの力を、叩き飛ばされた最中で用い、艦橋に激突する直前にあった、自身と艦橋の隙間の空気に干渉し、風で自身に込められている衝撃を和らげた。
つまり、あの轟音は少女自身が叩き付けられた音ではなく、風圧が艦橋を叩いた音と見るのが正しいのだろう。
「ちっ! そんなことができんなら、まずヒトガタワラシの一撃を浴びることもねぇだろうがよ!」
そう教えて来たはずだ。レイクハンターとの一戦で少女は一撃必殺に拘るその海魔を打倒した。それほどに聡いこの少女が、あの戦いを経験則にしないわけがない。ましてやヒトガタワラシの巨躯を見れば、一撃でも浴びれば死ぬだろうということは予測できることだ。
「で、生きてんの死んでんの、どっちなの!?」
「うるせぇぞクソ女! クソガキは生きていやがるよ!」
罵るように言いつつ、内心は穏やかではない。雅の咄嗟の判断を評価するが、ここで意識を失われては戦局に大きな影響が出る。
「ナァンダ。生キテイヤガルのか。ツマンネェなぁ」
嗤うのをやめたインプがムクリと起き上がり、唐突に言い放つ。
「テメェ、その汚い口を引き裂いて、この甲板に臓物をぶち撒けて、干上がらせてやるぞ」
斧鎗を片手に担いで、ディルがインプへと近寄る。
しかし、ディルが斧鎗で突貫しようと構えた直後に、葵が悲壮な面持ちでインプへと水圧の爪を振り下ろす。しかしその不意の一撃を彼の者は鋭利に生やした爪で受け止めた。
「ウスノロ、下がれ。テメェには荷が重い!」
インプに力で押し退けられた葵は甲板に身を打ち付け転がるが、すぐに立ち上がる。乱れた髪に、俯き加減の少女からはもう視線も、表情すらも窺えない。
「ゆる、さない」
しかし、声だけは聞こえた。あれほど声量の小さかった葵が発する、怒気に満ちた声だった。
空気が乱れる。空間が震撼する。ディルの肌を滑る空気は酷く冷たく、今にも凍て付いてしまいそうだった。
「おい、おいおい! 止めろ、リコリス!!」
「待ちなさい、胸ロリ!」
「許さない!!」
葵の叫びに呼応して、冷気の波濤が迸る。途端に少女の足元の甲板は凍て付き、そして少女が引っ提げていた水圧の爪は両手を覆うほどに大きく育ち、氷の爪へと変貌を遂げていた。
「おい、“昇華”してんぞ! しかも『五行』じゃなく『摂理』側に引っ張られて、『氷』に変わっている」
「胸ロ――白銀 葵! 今すぐ、力を止めなさい!」
「許さない!」
リコリスの言うことを利かずに、葵は氷の爪で甲板を引き裂きながらインプに近付き、乱暴にそれを振り乱す。少女の青み掛かった髪は氷で凍て付き、それがパリパリと剥がれ落ちると、髪先を除いて黒、髪先は白のメッシュへと変わり果てる。
氷の爪の猛攻にインプは焦りの色を見せ、爪で捌きながらも後退し、一瞬の隙を突いて大きく距離を置いた。
「ナンダ、そのニンゲンは!? ナンダ、どうして強くナッタ!?」
「うぁあああああああ!!」
葵は雄叫びのような声を発し、再び冷気の波濤が甲板上を駆け巡った。
その後、一気に力が収束し、葵から氷の爪が砕けて外れ、少女の体はその場に崩れた。
感情を抑え切れずに、本能が体の活動を強制的に停止させたのだ。
これで言うことを利かない連中は居なくなった。しかし、守らなければならない対象が一人から二人へと増えてしまった。戦力としては期待していなかったが、これほどのお荷物になるとは想像もできなかった。
「葵は私が見るわ! あんたはそっちの方を見て!」
リコリスからは、いつものアンニュイな声色が消え去り、いつしかの戦場で聞いた張り詰めた声に変わっている。ディルは言われた通りに後退し、再び雅の傍まで戻り、力任せに振るわれる触腕を、これまた力任せに振るう斧鎗で切り裂き、下がらせる。
「俺なら分かる、って……なにを言っていたんだ?」
「ギャハッギャハッ! なーんだ、コケオドシかヨ!」
インプが嗤いながら、左手の爪で葵を一突きにしようとするが、その合間にリコリスが割って入り、その体に爪が突き刺さる。
「これデ、三人メだナ」
インプの嗤い声に負けず劣らずの嗤い声をディルは上げる。
「クククククッ……馬鹿言ってんじゃねぇぞ、クソ海魔。そうなったらテメェは“終わった”」
一突きにされたリコリスがケラケラと嗤い、インプの爪を掴んだ。
「アッハハハハハハハハハッ! アハッ! アハハハッ!! ぜんっぜぇーん! 痛くなーい!!」
琥珀色の眼光でインプを睨み、そのまま女は彼の者へ歩み、ズブズブと爪を体へと喰い込ませて行く。
「な、ナンダ!?」
「私は『人で無し』なんだよ、クソ海魔ぁ? なぁのに、人と同列に扱っちゃダメ―! アハハハハッ!!」
爪から腕を、腕からインプの全身を、リコリスは大きく広がった自身の体へと“沈ませる”。女の体内で、インプは空気の泡を吐き出しながら苦しみもがく。
リコリスは、“水に意識を遺した『人で無し』”である。心臓は無く、そして自身を構成する『水』に意識を溶け込ませて動いている。
しかし、学習能力も記憶も蓄積される思念体に近しく、蒸発しても、蒸気の中の一粒に“リコリスという意識”があれば、体を再形成する。切っても貫いても、絶対に殺せない。
服もまた、着ていない。服に見えるものはリコリスが着色し、そう見えるように形を作っているからに過ぎない。だからこの女は『人で無し』、“露出狂”とディルは呼んだのだ。
ただ、自身で言う分には気にしないが、言われることは好かないらしく、反発するように、人であるように振る舞う。人肌を維持したいがために湯に浸かり、自身の水との置換を繰り返すだけでなく、食事を摂る必要も無いのに摂る。
ディルも人のことは言えないが、そんなことを“二十年も続けている”。人間以上人間未満で生き続けることは果たして、女にどれほどの狂気をもたらしているのか、定かでは無い。不老ではあるが不死では無いところだけが、唯一の救いであるようにも思える。
女に必要な媒介は存在しない。自らの体そのものが、変質の力を用いる際の媒介である。どこにでも水滴を降らせ、触れてもいないのに霧も起こす。
「そのまま、テメェの中にある水分を生きた水に変質されながら死んで行く気分はどうだ? って、もう聞こえてねぇよな」
リコリスが体内からインプを解放する。干からびた彼の者は塵と化し、腐った海から吹く風に乗って、消えてなくなった。




