【-攻めあぐねる-】
「深海級海魔のヒトガタワラシ。人を模した疑似餌を作り、屋内に侵入させ、近付いて来た人間を捕まえた途端、一気に引き寄せて本体まで運び、喰らう。沖合いに出る海魔だ」
言いながらディルが甲板の裏手に回ったので、雅たちもそれに続いた。甲板の裏手――戦艦の後方には菜園があるが、アクリル板の向こう側には海が広がっている。
触腕がもう一本、アクリル板に吸着する。その発達した二本だけで、恐るべき巨体を支えて、海中から彼の者が姿を現す。
想像上の生物であるクラーケンは巨大な烏賊や蛸のことを指すが、この触腕の色や形を見るに、烏賊では無く、海魔の基礎となったものは蛸だろう。
しかし、スケールは雅が中学校等で目にした資料にある蛸よりも、圧倒的に大きい。
アクリル板に張り付いている触腕は二本だが、油断はできない。蛸の触腕は八本、烏賊ならば十本だ。残り六から八の触腕が、アクリル板を壊したのちに腐った海中から伸び出て来るに違いない。
蛸と違う点は、口や眼球の場所だろうか。巨大な頭のすぐ近くあり、そして眼球もまた垣間見える。特にその大きな口には、ありとあらゆる物を噛み砕けるように成長したと思われる鋭い牙の数々が見える。
ただでさえ大きいというのに、その顔と呼べる大半を口の割合が占めている。どれだけ業突く張りで、多くの人間を食そうと言うのだろうか。
「浅瀬にまでその巨体を引っ張って来るなんて、戦艦ごと食べるつもりだったのかなー? 私の情報収集用のそれが、艦内ではインプに始末されて、艦外ではコイツに始末されてたんだろうねー。ほんっと…………迷惑極まりないわ」
リコリスが恨み辛みを吐いたところで、薄汚い嗤い声がすぐ近くから聞こえる。
「ギヒッ、ギヒッ。ニンゲンどもがワレラを狩るのなら、われらもニンゲンどもを狩る! ソレのなにがワルイ!」
ディルは女性の正体がインプだと言っていたのだが、雅の目にはそれが女性とは到底思えなかった。姿形はクトゥルフ神話に出て来る『深き者ども』のように醜く、しかしながら、体のあちらこちらには吸盤が見え、更には鮫の背鰭に似たものを備え、尻尾の如く用いる尾鰭は真横を向いている。それを尻尾のように扱い上体を支ることで二足歩行を可能としているらしい。手と足には水掻きまで備わっている。
これはもはや、人の姿とは掛け離れているも同然だ。けれど、この程度の変化ならばまだ雅にはまともなようにも思える。リィのような、質量を無視した変化に比べたら、インプの変化は小さい。しかしながら、リィよりもその姿は醜悪の一言に尽きる。
「テメェらが人類の脅威として湧いて出て来たんだろうがよ。先に人を殺してんのはそっちだぜ? クソみたいな脳味噌を持った海魔に、こんな話をしても全くの無駄ってぇのは理解してんだがなぁ」
「ムダ、ムダ! ミンナ、『ワダツミ様』に喰ワレテシマエ!」
アクリル板が二本の長い触腕によって絞め上げられ、壊された。その破片が上空から降って来る。
回避だけではままならず、雅は両手を上空に掲げることで空気の変質を行い続け、ひたすらその破片を反射させることで難を逃れる。葵は降って来る破片を指先から伸ばした水圧の爪で弾き飛ばしていた。
「ヒトガタワラシが戦艦に張り付いている。ここに居る人間全員を人質に取られたようなものだな」
「佐藤さんは、どこに居るんですか?!」
葵が必死に佐藤の姿を探している。
「ギヒヒヒヒッ! ニンゲンどもが邪魔シナケレバ! 次ニ喰ったのは、コイツだったのになぁ!」
ここに居るとは到底思えなかったのだが、その予想をインプの言葉によってすぐに覆されてしまった。
インプが甲板の上を縦横無尽に動いて裏手から前方へと姿が消える。それを葵が迷うことなく追い掛けて行った。
「テメェらはインプを倒せ。俺とそこのクソ女でヒトガタワラシを討つ」
甲板に転がっている一際大きなアクリルの破片を掴むと、軽く振るだけでディルの手元に斧鎗が握られる。ただ、義眼よりも質量を伴っているようで、やや扱いにくそうにしている。
「烏賊じゃなくて蛸ね。分かってると思うけどさー、あの触腕は全部で八本だからねー。それは気に留めておきなさいよ」
雅は小さく肯き、二人に巨大な海魔を任せ、来た道を戻る。
「ナンダァ? テメェらダケカヨ! コノ女は、ソレクライ取るに足ラナイ女ナノカァ?」
「そんなことはありません!」
インプの腕に抱かれ、佐藤は意識を失っている。彼女を取り戻そうと、葵は彼の者の言葉に憤慨し、怒りのままに爪を構えて走り出す。
「葵さん! 無闇に近付いちゃ駄目です!」
リィからはインプの生態は聞いている。人に化ける海魔だとは知っている。しかし、それ以外のことを知らされていない。ディルもリコリスも、ヒトガタワラシの危険性を一番に考えているためか、そのことを失念していたのだろう。だから雅には、インプがどのような方法で人を狩るのか、分からないのだ。
そんな分からない状況で、彼の者に挑むのは無謀が過ぎる。けれど、雅の制止も聞かずに葵はインプに爪を振り下ろす。
「ギーヒヒヒヒヒッ! コノ女ヲ殺ス気なのかヨ?!」
振り下ろした爪を葵が強引に止めた。インプは腕に抱いている佐藤を前面に持って来ることで、葵の攻撃を防ぐ盾にしようとしたのだ。佐藤は葵のクラスメイトだ。あのように構えられたら、雅であっても人を殺すことになるため、止まってしまう。なにより、人を盾にする海魔など聞いたこともない。
「ニンゲンどもの仲間意識はナァ! 馴れ馴れしいんだヨ!」
右手の指から一気に生えた鋭い爪で、インプが葵を牽制する。左腕は依然として佐藤を抱えたままである。
まさかこの海魔は、“人を盾にして戦う習性”を持っているの?
レイクハンターを討伐する前に、ディルは海魔にも拘りがあることを教えてくれた。フィッシャーマンなら、人を釣り上げること。ストリッパーなら皮を被る行為。レイクハンターなら一撃必殺。シーマウスは集団での急襲。
それらはどの場所にも潜む、同名の海魔に共通する、ある種の強い拘りであり、習性でもある。そして、その習性はどの海魔にも等しく持ち合わせているものなのだ。
インプの右腕は重い物を持てるようにか極端なほどに発達している。左右でその腕の大きさ、太さが非対称なのだ。右で物を持ち、左で攻撃する。そして右で持つ物は、“人間”だ。
爪に剣に見立てるならば、人間はそのまま盾なのだ。
「くっ」
葵が水圧の爪でインプを切り裂こうとするたびに、彼の者はその方向へと、右腕で持つ佐藤を盾にする。そして葵はまた腕を止める。止めたところで彼の者の左手の爪が襲い掛かる。それを避けるために距離を取る。それを葵とインプは何度か続けていた。
一進一退の攻防戦などではない。葵が佐藤を切り裂けない限り、この勝負は分が悪すぎる。
「佐藤さんを解放しなさい!」
「ニンゲンどもは、仲間意識ガ強イナ。我ラも同胞ヲ大切にスルが、捕マッタ同胞は、スグニデモ殺ス」
「海魔と人間を一緒にしないで!」
葵は必死に水圧の爪でインプの隙を突こうとしているが、それを嘲笑うかのように彼の者は縦横無尽に動き回り、時に避けられそうもない攻撃は佐藤を盾にすることで、攻撃そのものを止めさせて、からかうような嗤い声を上げながら彼女から離れる。開いた距離を詰めるためにまた葵がインプへと果敢に攻め込む。それの繰り返しである。
だからこそ、あの真っ只中に飛び込むのは、怖い。




