【-居心地の良い場所に幸せはあるか?-】
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配給のパンと野菜、水を調達し、それらを昼時には全て胃の中に収めた雅は、また『ワダツミ様』についての情報収集を始めた。ただ、赤の他人に話し掛けることは人見知りの激しい雅には出来ないため、信仰しているであろう人たちの立ち話をこっそりと聞くだけに留めた。
しかし、それだけでは「四時から集会がある」や「今日の『ワダツミ様』のお告げはなんだろう」などという、小さな情報しか得ることはできなかった。やはり、今朝方に見た『ワダツミ様』のことと、未だどこがどうおかしいのか分からないパイプの違和感について葵やディルに伝えるべきか、などと考えている内に午後三時となり、集合場所の甲板まで戻った。そのときには葵も既に甲板には出ていた。
「物凄く、機嫌が良いみたいですけど、なにかあったんですか?」
「そんな風に見えるのは気のせいです!」
なぁにを大声を出しているんだ、と横になっていたディルが起き上がり、刺々しい声を発したので雅は慌てて、表情を取り繕う。
「さて、ウスノロ。そこのクソガキと比べて、思いのほか艦内を歩き回っているようだが、テメェはなにか俺に伝えなきゃならねぇことはないのか? そっちのクソガキは逐一、俺に些細なことでも伝えて来るが」
ディルが後ろに付け足した言葉に対し、雅は作り笑いを浮かべつつ葵の追及の視線から逃れる。
「特に、ディルさんにお話しなければならないことは、ありませんが」
「隠し事でもしてんなら、さっさと白状するんだな。しねぇなら、俺はテメェの『慈善』をこれ以上、手助けする気はねぇしなぁ」
「ここから出られる算段がおありなんですか?」
「おい、ウスノロ。テメェが脅せる立場か? ったく、ガキ共は揃って立場を弁えていねぇなぁ。そして、その問いに対して俺は、出られると答えてやるよ。テメェが出たくねぇなら置いて行く。そこのクソガキは連れて行かせてもらうがなぁ」
葵がジッと雅を見つめる。
「雅さん、ここを出たいんですか?」
「……ずっとは居られませんよ」
蛋白質と脂質を得る食料はここに居ればいずれ出て来る。そうなったとき、その正体を初めて暴くことができるわけだが、あくまで仮定であっても、出て来る可能性のある“人肉”を、雅は見たいとは思わない。
「ここは、良いところじゃないですか。誰も喧嘩をしませんし、誰も傷付かない。討伐者たちと協力してシーマウスや他の五等級海魔を狩って、みんなの分の水を得る。それのなにが悪いんですか? みんなのためにしていることは、外も中も一緒じゃありませんか」
「私には、みんなのため、っていう気持ちが無いんです。知っているじゃないですか。私はお金と水にはとてもがめつい女なんです。自分のお金と水、そして食料がなによりも大切です。だから、どうしてみんなのために汗水垂らして、命懸けで海魔を狩って水を分け与えなきゃならないのか、理解できないんです」
「そんな……ここは、外よりもずっと平和です」
「すっかり牙が錆びちまったなぁ、ウスノロ。知己の連中と会ったのが間違いだったな」
ディルが会話に割って入る。
「平穏や平和、安穏に安寧。それらは俺たちを堕落させる快楽だ。討伐者は命と体を張って戦う。だから、協力して生存率の上がる、この閉鎖空間での狩りは気持ちが良い。なにより心に乗る圧力が少なく、そして楽だ。だが、それでテメェの牙は研げるのか? テメェの牙は鋭くなるのか? ならねぇなぁ。錆び付いてしまうだけだ。錆びた牙は、いざというときに容易く折れる。テメェの牙も、このままだと折れるぞ? 外の平和が取り戻せるならば歓迎だ。けれど、ここには、議論も討論も、闘争も無い、実に薄気味の悪い人間関係しか、無い」
人は集まれば、必ず喧嘩が起こる。必ずいざこざを起こす。いさかいの種を撒く。それを抑えるのが討論であり議論である。けれど、この客船型戦艦には、驚くほどにそういった場が置かれていない。政が無い場所には偽りの平和しかないのだ。統制が取れ、未来永劫続くのだとしても、不変的にあるのだとしても、外と乖離した場である以上、平和ではない。それはただの現実逃避だ。
ディルには人間性の欠片も無い。だが、ここの人たちに人間性があるかはまた別の話になる。
「あたしには、分かりません!」
葵が踵を返して、走り去ろうとするのを雅は腕を掴んで引き止める。けれど、その腕を払って彼女は甲板から降りて行った。
「……なんで、こうなるの?」
「価値観の相違ってやつだ。『偽善』と『慈善』の違いでもある。他者に尽くすフリだけか、他者に尽くし切れるか。テメェは前者で、ウスノロは後者だ。ここでそれが露わになったってだけだ」
「それでも私は、分かり合えていると思っていたのに」
「……なぁ、クソガキ。テメェに選択肢を与えてやる。俺の傲慢に堪え忍ぶ苦行の道か、それともここに居残る快楽の道か、だ。どっちを選んでも構わねぇ。野垂れ死ぬか、ここで死ぬかはテメェが決めろ」
「なんでそんなこと、私に決めさせるの?」
「これは、俺が基準であるべき観念じゃねぇ」
テメェが基準であるべきことだ。ディルはそう言って、頭を掻き毟る。
「……少し、考えさせて」
「俺がここを出て行かない内にさっさと決めろ」
「出る方法なんて、本当にあるの?」
「テメェが考えてテメェが決めろ。ただ一つ言えるのは、俺は別に『ワダツミ様』を放置して、ここを出る気はねぇってことだけだ」
「なにか分かったってこと?」
「海魔が居るのなら、殺すのが俺の生き甲斐だ。五等級海魔のシーマウスの異常過ぎるほどの自然繁殖には、いわゆる共存関係があるだろうと俺は判断した」
「共存……?」
「陸のシーマウスが獲物を攻め立て、逃げ場を失った獲物を別の海魔が喰らう。シーマウスは攻め立てている間に出たお零れを頂いている。そしてまた、その別の海魔とやらがシーマウスの居る陸側へと獲物を追いやり、それを奴らが喰っている。繁殖力が高かろうと、獲物が居なけりゃ奴らも飢え死にする。廃墟に巣くっているのは、奴らの生存本能としてはあり得ない。獲物が居なくなれば、通常は別の町へ襲いに行く。たとえば、テメェが居たあの町とかな。なのに、廃墟から動かない。これは、定期的に獲物となるべき存在が居るから、或いは奴らが共喰いを行い、死と生のサイクルを回し続けているか、だ。それにしても、共喰いをして生き残っているのなら、もう少し数が減るもんだろうよ」
「じゃぁ、『ワダツミ様』って、まさか」
ディルはなにも言わずに肯いた。しかし、考えには至ったが、確証が無い。それで『ワダツミ様』を暴いても、信仰している人たちに阻まれてしまう。だから、『ワダツミ様』が自ら正体を曝さなければならないのだ。
『ワダツミ様』が、ここまで来ると人で無い可能性はある。しかし、人である可能性もまだ残っている。その曖昧さが、雅たちの行動を制限するのだ。信仰対象に嫌疑を掛けてしまえば、雅たちの居所はこの場から無くなる。
外に出る分にはそれでも構わないのだが、葵との決別がそこで確定してしまう。
それが雅にはたまらなく、怖ろしいのだった。




