【-師事-】
「ねぇ」
「気安く話し掛けるな、クソガキ」
「首都防衛戦に参加していたの?」
査定所から少し離れたところ、それでも雅や少女のことなど気遣わずにスタスタと歩いていた男の足が止まった。
「こんなクソガキの私でも知っているわよ。日本の首都防衛戦は、失敗に終わったって」
国家単位でみれば、領地も領海も海魔に奪われて、大きく縮小――或いは消滅してしまったところもある。日本も例外なく、海魔によりにもよって首都が襲われた。それが雅が中学時代に習ったおよそ二十年前の日本の首都防衛戦だ。
多くの討伐者は「あれは失敗だった」と言う。あの首都防衛の失敗を引き金に、日本の機能している都市は大きく限られてしまった。ただし、結果的に見れば生存者が居り、今もまだ日本の首都が崩壊せず、どうにか機能を果たしているところから、首都防衛は成功しているのだ。この男が生存者五人の内の一人であるのなら、その確認も容易に取れるだろう。
ただ、九千九百九十五人の討伐者を失ったことが大きかったのではないだろうか。失った戦力はすぐに元通りにはできない。本来ならば自身の故郷を守るために討伐者として戦っていた者が居なくなり、そこを海魔に襲われたのでは誰も守ってくれやしない。二十年前ともなれば、討伐者の数もそれほど多くはなかっただろう。こんな一地方の町に数十を越すだけの討伐者が居る現代に比べれば、当時、首都に一万人を集められたのは奇跡に違いない。
「……俺は西欧で産まれ日本で育った。だから、育った御国のために、なんていう甘っちょろい感情を抱いていたんだろうなぁ」
「どうやって生き残ったの? 首都を襲った海魔って一体どんなだったの?」
「話すことなんてねぇなぁ、クソガキ」
男は振り返り、ここぞとばかりに睨む。
「こんな、生きていることに意義があるのか死んでいる方がマシなんじゃねぇのかって考えが蔓延っている世の中で、どうにか生に縋り付いて、その首都なんちゃら戦とやらでも生きて、生き足掻いて、生きてんのか死んでんのかも分かんなくなった感覚の中で、未だ命を繋ぎ止めている理由なんてさっぱり分かってもいねぇこの俺自身のことを、ただの悟りにも目覚めていねぇクソガキなんざには分からねぇよ。分からねぇ分からねぇ、言ったところで、喋ったところでなーんにも伝わらねぇ。見た景色は、感じた憂いは、なにもかもその場に居合わせた残り四人にしか、きっと届かねぇ」
そう雅を貶しながら、残りを早口で紡ぐ。
「俺はディルだ。そっちのはリィ。ファーストネームなんて無くても、構わねぇだろ」
「私は……あなたたちとは違う。お母さんもお父さんも大好き。だから、雪雛 雅よ。この苗字を、ファーストネームを捨てるなんてこと、死んでもするもんか」
「へぇ、あいにく、家族愛なんざとは掛け離れた人生を送っているもんでな。そんなもんを大事にしてなんになるんだ? 死んだあとに残るものなんざ、名前なんかじゃねぇ、物言わぬただの骸だ」
強く、心に抱いていたものを容易く、言葉の刃で突き刺し、抉って来る。それがこの男の在り方であるとするならば、それは酷く鬱屈したものであると、雅は思った。
*
「短剣を使うなら、もっと振りを小さくしろ。その小さな体じゃ、大した剣戟も出せねぇだろ。だったら手数で勝負するしかない。両手に一本ずつの考えは正しいが、利き手じゃない方が明らかに大振りだ。そっちは逆手に持って振り方を変えるぐらいの工夫をしやがれ。それと、大胆に行くなら全身を捻って、腕は鞭のようにしならせるようにして切り付けて来い。どれもこれもノロマだ。テメェはノロマな亀か、クソガキ」
ディルが二等級海魔の討伐を明後日にした理由を、次の日になって雅はようやく理解した。それも体中から汗を噴き出させながら、このように稽古をしている最中にだ。
この男は、バックアップに徹するなどと言っていたが当日、本当にそのような行動に出るか疑わしい。
雅は疑いの眼差しでディルを見つめ、そして動きを止めた僅かな隙をディルは見逃さずに雅の軸足を蹴り飛ばした。無論、そこに情念など含まれておらず、手加減はしているだろうが成人すらしていない女性に撃ち出す蹴りとは程遠いものがあった。
軸足は崩れ、宙を舞った体が大地を打つ。その後、伝わって来る足からの痛みにのた打ち回る。
「これで二十一回死んだな」
土塗れになった雅を見下ろしながら、ディルは静かに言い放つ。
「も……立て、ない」
「ああん? 聞こえねぇなぁ! 立てねぇのはテメェが軸足を右足だけにしているからだろうが! だから俺の蹴りが片方に集中してるってぇだけの話だ」
ディルの言うように、雅はこの稽古とも呼べない戦闘訓練において重心を置き、また軸足にしているのはずっと右足だ。だから右足ばかりに蹴りが集中し、骨にまで影響が出ているのではと思ってしまうほどの激痛に苛まれている。
「立てよ、クソガキ。骨は折っていねぇし、ヒビも入れちゃいねぇ。たった一回で、足の骨を折って来る海魔に出会ったらテメェ、やっぱ死んでるぞ」
罵られながらなんとか立ち上がろうとするが、滅多打ちにされた右足がほとんど言うことを利いてくれない。蹴られた部位はもれなく腫れ上がり、きっと痛みが引いて来る頃には青痣にまでなっているだろう。
年頃の女性の足をなんだと思っているんだ。
雅は青痣だらけの右足を想像するだけでも最低の気分になる。これほど酷いと、パウダーで隠せるものでもないだろう。
「なにを着飾ってんだか知らねぇが、スカートもショートパンツも、弱点を晒しているのと同じだからな。履くんならスラックスにでもしろ」
年頃の着飾りたい気持ちすら汲んでくれないなんて。
この男に向ける恨み辛みは増えるばかりである。
「海魔との戦いじゃ倒れたら死んだようなもんなんだよ。肌を晒していたら穢れた水を被って、肉が溶けるぞ。だから、どれだけ痛みでのた打ち回ろうが、すぐに立ち上がれ」
「無茶、言わないで」
「は? 無茶言わないで、どうやって海魔を討伐するってんだ。さっさと立て! クソガキ!」
右足の痛みから肩膝立ちから一向に動けないでいる雅の顎をディルが蹴飛ばそうとする。それだけはとばかりに無理に体を捻らせて避けると、また地面を転がった。
「ディル、ストップ」
「俺のやり方に口を出すな」
リィが雅の前に立つが、ディルにその制止の声は届かない。
「二等級海魔を討伐する前に死んじゃう。それだと、ディルが人殺しになる」
雅の頭を砕かんとばかりに降ろされたディルの足が寸前で止まった。そして、その足をゆっくりと地面の方へと降ろしたのち、リィに向く。
「テメェはいつだってそうだよなぁ。俺が誰かを痛め付けるたびに、なにか一言よけいなことを言いやがる」
「でも、そのたびにディルは止まってくれる」
「……クソ海魔に救われるなんざ、終わってんなぁ? クソガキ」
この期に及んでイヤミを口にするディルは雅に背を向ける。
「三十分、休憩を挟む。始めた当初よりは多少、動きがマシだ。ただ、右足ばかりに重心を乗せる癖も、右足を軸足にする癖も、短剣の初動がどれも同じな癖も、どれもこれも悪癖だ。理解したんなら、三十分後にはもう少しマシな動きで切り付けて来い」
ディルの姿が近くの雑木林に消えたことを確認して、雅は喉元で詰まっていた息を一気に吐き出して、気を緩ませた。
「水、飲む?」
雅を気遣ってか、リィが自分自身が提げている可愛らしい水筒を差し出す。
「大丈夫、だから」
しかし、雅はまだこの少女を受け入れることができない。断って、ヨロヨロと立ち上がって右足を引き摺りつつ、近場に置いていた自分自身の水筒を手に取って、喉を潤した。しかし、自身の運動量と比較して、その補給した水分は非常に少ない。普段から水分補給は限られた量に留めて節制としているため、限度を越えた補給だけは避けたいという、抜けずに残っている手前勝手な理由がある。リィから水を貰えば自身の取っておいてある水を飲まずに済むのだが、果たしてこの少女の飲む水が、雅と同じ「生きた水」であるかどうかは分からない。無論、穢れた水は悪臭を漂わせるのだから口を付ける前に気付けるものなのだが、そうやって拒んだ場合、彼女がどのような対応を取るのか、それが不安なのだ。
怒らせたとき、正体を現して雅を丸呑みにするかも知れない。そんな、どうしても拭えない怖さがリィにはあるのだ。それが人間と特級海魔における差である。どちらかと言えば、クソガキと罵られていてもディルと話している方がまだマシだ。ただし、それは先ほどの戦闘訓練や暴力に晒されていない、ほんの一時に限られる。
よって、現在の雅には気を緩ませることはできたとしても気を休ませることのできるような環境は用意されていない。自ら師事したのだが、想像以上に心身ともに痛手を負っている――のだが、早まった選択をしたとは片時も考えていない。
恐らく、これが雅にとって一番早く、能力の扱い方を覚えられる機会だからだ。とはいえ、そこに至る前にまだ海魔とかち合った際の近接戦闘についてしか教わっていないのだが。
「あ、のさ……」
「なに?」
「リィはいつから、ディルさんと一緒、なの?」
「いつ…………いつ、からだろう」
言いながらリィは考え出した。それほど長い付き合いには見えないのだが、どうやら違うらしい。こうなると、ディルという男はどれだけ親しい間柄の相手であっても、雅に向ける罵詈雑言の数々を駆使することになる。なにせ、雅とディルが初めて出会ったときからずっと傍に居続けるリィにさえ、暴言の数々は垣間見えるのだから。
「ワタシが傍に居るのは、ディルのため……だけど、いつからディルと一緒かは分かんない」
「そうなん、だ」
「ただ、とても怖いときがあるの」
リィは雅の傍で蹲る。
「怒っているような、でも普段の怒り方とはまた違う……別の、よく分かんない感情をごちゃ混ぜにした顔をするときがあるの。ワタシは、そのときのディルが二番目に、怖い」
「一番怖いとき、ってどんな?」
「何十人もの人間を取って喰った海魔と戦うことになったときと、あとは、」
雑木林の方から音がして、雅が右足を庇いながら立ち上がり、臨戦体勢を取る。しかし、リィは単純に立ち上がってこの話はもうおしまいというばかりに音がした方へと歩く。