【-牙を磨く-】
「……ん?」
第九層に降り、なんの気無しに廊下を歩いていると、『ワダツミ様』が一人で歩いているところを目撃する。慌てて雅は壁を背にして、できる限り身を隠す。幸い、第九層の廊下もそれなりに入り組んでいる。『ワダツミ様』は雅の居る廊下に入ることなく直進して行った。取り巻きも、居ないようだ。
今なら、危険では無いと判断すべきなのだろうか。
雅は廊下を歩き、そして『ワダツミ様』の背中を見続けながら、尾行すべきか迷う。首を突っ込みすぎるなと言われている。慎重さを欠いた行動は、きっと後悔に繋がる。
「第九層に査定所以外の場所、なんてあったんだ」
ただ、この場においては運が良かった。雅が尾行せずとも、『ワダツミ様』は雅の見える範囲で足を止め、傍にあった扉を開けて中に入って行った。そこが個室なのか、それとも『ワダツミ様』を奉る本部とも呼ぶべき空間なのかはここからでは分からない。雅は廊下の左右を見渡し、人影がないことを入念に確かめたのち足音をできる限り立てずに素早く、扉の前まで移動した。扉の取っ手に少し触れ、しかし決して力を込めることはしなかった。抜け目のない『ワダツミ様』のことだ。鍵を掛けているに決まっている。そして、扉を開けようとする音で、気付かれてしまう。
ここまで、かな。
雅はこれ以上の詮索をやめることにした。素早く先ほどまで自身が居た廊下の方へと抜き足差し足で進みつつ曲がり、そこで緊張の糸を解いた。
『ワダツミ様』は取り巻きを付けずに一人で行動することもある。そして、あの扉の向こう側には、なにかがあるのだ。ただし、そのなにかは、分からない。
「あれ?」
雅はふと見上げた天井に、違和感を覚えた。パイプや導線が天井を伝って廊下の隅々、果てにはこの艦内の隅々まで行き渡っているわけだが、見上げたそこには、大きな違いがあった。
「一つだけ、管が違う……」
パイプの太さ、導線の太さは千差万別である。ましてや戦艦ともなれば、その数は凄まじいものだ。けれど、直感的に――雅のまったくの勘であるのだが、パイプの一本がどうしても他の物と違うようにしか見えない。そして、そのパイプは『ワダツミ様』が入って行った場所に通じている。ただ、それが『ワダツミ様』とどう関係があるのかと問われれば、雅には答えることができない。
頭には置いておこう。
雅は自分の直感を受け入れることにした。そして、『ワダツミ様』の正体を明らかにする案件かどうかはともかくとして、今はまだ知らないだけで、別の案件に繋がる大きなことかも知れない。
しかしながら、慣れないことをしたため喉が乾いた。小瓶の水を飲むと非常食と水の分量にズレが生じてしまうので、ここでは水筒の水を飲んだ。節約のため、口に含んでしばらくは飲み込まなかったが。
その後、臨時の査定所に顔を出してみるものの、そこにディルの姿は無かった。別に、居たら居たで迷惑なのだが、朝に起こった悲劇について弁明をしておきたい。あれで妙な性癖を持っていると言われたらたまったものではないからだ。
そんなどうでも良い理由を付けて、なにかとあの男の姿を探しているのもまた事実ではあるのだが、それを意識するとどういうわけか、頬が熱くなってしまうので極力、意識しないようにする。
「居た」
雅はショッピングフロアにディルを見つける。
「あー、クソ。野菜じゃ腹は満たされねぇなぁ。肉だ肉、肉が喰いてぇなぁ」
苛々しており、雅に気付いていないらしい。そしてショッピングフロアの野菜を売っているスペースで、思い切り毒づいていた。
「ディル」
「あぁん? なんだ?」
振り返り、ディルは雅だと知ると、朝と同じように舌打ちをした。
「言っておくけど、私は別に露出狂なんかじゃないんだからね!」
「テメェの性癖なんざ、どうでも良いんだよ、クソガキが。大体、テメェのどこに女らしさがあるってんだ」
それは胸のことなのか、と怒鳴りそうになったがここでそのようなことを口走れるわけもない。だがこれで弁明はできた。そしてディルは妙な勘違いも起こしてはいない。これで、見られたことに対する羞恥心だけは残るが、懸念していたことだけは解消できた。
「小麦からパンを作っているみたいだけど、それを買って食べないの?」
「製粉が雑で、酵母も中途半端。それを焼いて出来たパンを喰ってどうすんだ。ついでに俺はハーフだが、唾液量は日本人と同じだ。パンを喰ったら、喉が渇く」
「でも、炭水化物は摂取しないと駄目じゃない?」
「蛋白質と、脂質も取らなければ衰えるだけだがな。三大栄養素の内、二つがここでは欠けている。蛋白源をなにかしらの方法で摂れるんだとしても、肉のねぇここでは脂質を得るのが難しい。なんでこいつらは、二つも欠けているのに生きていられんだろうなぁ」
「……どうにかして、外から持って来ている、とか」
「水の確保のために海魔を狩っているだけの奴らが、ついでに野生の生き物も取って来れるとは思えねぇ。しかも、五等級海魔のシーマウスが蔓延ってんじゃ、ここら一帯の動物は喰われているだろうよ」
しかし、それでは人は生きられない。蛋白質と脂質が無い中で生きようものなら、必ず体に悪い影響が出始める。野菜とパン、水だけではビタミンと炭水化物、ミネラルしか得られない。カルシウムの摂取も子供が多く居るのなら、必要不可欠になって来る。
「それも、『ワダツミ様』が解決しているなら、入信者が増えるのも肯ける、けど」
「なんでも『ワダツミ様』頼りってか、ここは」
ディルは鼻で笑う。
「だが、あり得ない話でもねぇ。現状、蛋白質と脂質、カルシウムを得る方法ってぇのは、“人肉とその骨以外には、無いんだからなぁ”」
雅は背筋を凍らせた。
「嘘、でしょ?」
「だから、可能性の話だ。仮定であって、確定じゃ、ねぇ。雪山に墜落した飛行機に乗っていた生存者は、遺体の肉を食べ、そうして生きることの意味を知ったとも聞いている。どこぞのシリアルキラーは殺した妻の肉を全て喰うことで証拠を抹消しようとしたんだとよ。前者は生きるために仕方が無いことだが、後者はただの狂気だ」
「ここの人たちは、生きるために前者の行為を見過ごしていると言いたいの?」
「だから、仮定の話だっつってんだろうが。突っ掛かるんじゃねぇ、俺もこんな話は御免だ。海魔殺しなら大賛成だが、人殺しも人肉も、許されざる罪だ」
小声での会話ながらにディルは強い感情を込めていた。この男の中にある、人殺しだけは別物という感覚が、仮定であっても許せないと、燃えているのだろう。
「……ディル、訓練をお願い」
「腹が減ってんのに、なんでテメェのおままごとに付き合わなきゃなんねぇんだよ」
「お願い。いざってときに、私でも許されざる行いを止めるために……そのための、強さがまだ欲しい」
人肉なんて、認めない。骨だって、信じない。もしそうだとしても、未だ口にはしていないがここに居る全ての生き残った人々は、食しているのかも知れない。知って食べているのか、知らずに食べているのかはともかくとして、そんな閉鎖空間にある安穏とした世界の中で、一部の犠牲があるというのなら、それを見過ごすことはできやしない。
「……ああ、そういう顔をしてんなら、やってやるよ」
ディルは近場のスペースに置いてあったリンゴを掴み、それに大きく齧り付いた。そして一気に芯まで食べ切ったところで、リンゴの代金を店員に支払って歩き出す。雅はさすがにそんな大雑把なことはできなかったので、先にお金を払って、リンゴをディルの背中を眺めながら咀嚼して、甲板に出る頃に食べ切った。




