【-着替え-】
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雅は目を覚まし、甲板で寝たことによる体中の痛みに小さく呻いた。しかし、同時に体内時計の優秀さに感動する。狙った通りの時間かどうかは定かではないが、まだ日が昇って間もないのか、ディルとリィ以外に人の姿は無い。雅は夜に干していた衣服を確かめる。
生乾きの臭いがする。芳香剤の無い艦内で、これらを着るのは女として厳しいものがあった。タオルも完全には乾き切っていない。しかし、入浴できるのは今日から数えて二日後であるので、これはそこまで急ぐことでもない。むしろ雑菌を考慮して、洗い場でもあればしっかりと手洗いをし、天日干しをしてしまっても良いくらいだ。
「どうしよ……この臭い」
いつまでも仮の衣服を着ているわけにも行かない。これらは戦闘に向いていない。特にボトムスがスカートであるのが致命的である。
雅はボーイッシュな服装が好みというわけではないが――むしろスカートや、女の子らしい服装はしたい方なのだが、悪漢に襲われ掛けたことと、ディルに「着飾るのはやめろ」と言われたことから、スラックスやジーンズのようなボトムスに拘るようになった。以前は普通に履いていたスカートであっても、こう久し振りに履いてみると、どうにも落ち着かないのだ。
売り場には女性向けのジーンズが一つしかなかったので、それを葵に譲ったのだ。だから彼女はそれほど困ってはいないだろう。しかし、着慣れた服が着られるのならばそっちの方が良いに決まっている。
「お困りかなー?」
「っ!?」
「大声を出さなかったのは評価してあげるー。あそこのクソ男が目を覚まさなかったからねー」
どこから湧いて出たのか、リコリスが雅のすぐ傍に立っていた。
「それでー、どうしたのかなー? その服、私がずぶ濡れにしちゃったものだけどー」
「甲板に残っていた熱で乾いたのは良いんですけど、生乾きの臭いが強くて」
「ふぅんー? ねー、クソロリ? ちょっと貸してみー?」
雅は怪しみつつも、衣服をリコリスに預ける。
「私は『水使い』。たくさんの香りを混ぜるのがとっても得意。良い香りをたちまち悪臭に変えることもお手の物。勿論、その逆だって出来ちゃうんだなー。まー、お日様の匂いには敵わないからー無いよりマシって程度になっちゃうけどねー。結局、香りで誤魔化すことになるからさー」
リコリスが甲板に衣服を並べ直し、その指先から水滴を一枚一枚に落として行く。
「はい、おしまーい」
雅は衣服を拾い、鼻を近付ける。生乾きの臭いを打ち消す、程好い芳香に包まれていた。雅の服に限らず、葵の服も、リィの服も全て同じく良い匂いを漂わせている。
「あ、ありがとうございます」
「良いのー良いのー。私も女だから、そーいう悩み事は、解消してあげたくなっちゃうからさー。あとはー、分かってるねー?」
「……対価、ですよね」
「そーそー」
甲板で舞うようにリコリスはクルリと回転し、目深に被ったキャップ帽を少し上げて、琥珀色の目で雅を捉える。
「昨日、ディルと話した『ワダツミ様』のことを私に報告しなさい」
「え……それだけです、か? もっとこう、潜入しろとか言うものかと思いました」
「言ったじゃーん。私、女だからそーいう悩み事は、あんまり深く考えずに解消させたくなるんだよー。命を助けたときほどの対価は求めないってー。だーかーら、さっさとあのクソ男の見解をあなたの口から私へと伝えなさいな、クソロリ」
後半は声量を落とし、忠告を受けたときのドスの利いた声だ。ディルと言い争っているときも似たような重い声を発していた。
拒絶は、できそうにないだろう。そんなことをすれば、折角、良い匂いを発しているこの衣服がたちまち悪臭を放つようにリコリスが変質を加えるかも知れない。だが、一体どうやって、どこからあの香りを放つ水滴を生成させたのかまでは分からない。
それを訊いたところで、この女はきっと答えないだろう。
なので雅は素直に、ディルが言っていたことを思い出しつつ、自分の言葉でリコリスに、見解を伝えた。
「なーるほど。『ワダツミ様』が、海魔と接触している可能性かー。ふーん、へー。面白いけどー確証は無いってーところかなー?」
「はい」
「それで全部?」
「はい」
「さーて、これは困ったかなー。『ワダツミ様』の秘密を暴こうにも、アレの取り巻きに邪魔されるだろうしー、だからってアレの仲間入りは形だけだとしても、耐えられないしー…………胸ロリはどこ?」
言われ、雅は甲板を見渡す。葵の姿はどこにもない。
東堂の奴、ほんとに葵さんを連れ込んだりしてないよね。
そんな怒りとも知れない妙な感情が湧き上がって来る。
「クラスメイトと一緒だと思います」
「あーそんな話、してたねー」
「……そういえば、葵さんのクラスメイトの何人かは『ワダツミ様』を信仰していたと思いますけど」
「それはそれは…………良い情報をありがとー。それなら、私も少しは動けそー。じゃーちょっくら、胸ロリのところまで行って来るからー」
「あ、私も行きます」
「……ふふっ、だいじょーぶだいじょーぶ。胸ロリは元クラスメイトとイチャコラなんてしてないよー。直にここに戻って来るから、そのときに話を聞いたら良いしー。だから、ここに来る前に胸ロリのところに私は寄るってだけー」
リコリスは千里眼と地獄耳の持ち主かと疑うほどに、情報通であった。そして雅の不安を一発で看破し、拭い去った点においても、その洞察力は明らかである。相変わらずの異常性に、もう言葉も出ない。次に会ったときには、もう驚くこともできないだろう。
甲板から去ったリコリスを見届けて、雅はウエストポーチと短剣の入った鞘を外し、水筒を置いて、周囲を確認する。ここで着替えるのは幾らかリスクを伴うが、この瞬間を逃すと着替える暇も無いのではないかとも思う。だから思い切って雅は、着ている服を脱ぎ、リコリスの力によって良い香りを放つ、いつもの服へと着替えを始める。下着は未だ湿り気を帯びており、落ち着かない。ウエストポーチの中には無論、こういったときのために替えの物をワンセットだけ詰め込んでいるのだが、この場で替えるべきかどうかで悩む。清潔感と肌荒れ、感染病予防のためにはやはり替えるべきなのだが、さすがに甲板という開放感のありすぎる場ではリスクを伴う。
ただでさえ、ディルが寝ているのだ。もしも替えているときに起きられでもしたら、と雅が恐る恐る振り返る。
既にディルは目を覚ましていた。しかも、こちらを見て小さな舌打ちまでした。いかにも面倒臭そうな顔をして、リィをその場に寝かせたまま、甲板から下の階層に降りて行く。
そこまで見て、ようやっと雅の口は大きく開き、しかし悲鳴など上げたら人を呼ぶに違いないと、叫びたい気持ちとそれを抑制しようとする意思の狭間で心が揺さぶられ、挙げ句の果てに涙目にまでなる。
「最悪……最悪、最悪最悪最悪……」
着替えを見られた。下着姿を見られた。裸ではないものの、もはや裸を見られたも同然の羞恥心が雅を包んでいる。だが、ずっと下着姿で茫然自失しているわけにも行かず、そそくさといつもの服へと着替えを負える。それから茹で上がるほど顔と耳朶を真っ赤にし、蹲って、今さっきの出来事を忘れてしまおうと両手で顔を覆い隠した。




