【-外套の男-】
空気圧の変化を目に見えて証明させることは難しい。使い手として開眼したは良いものの、討伐者としての証明書を発行してもらう上で、それが雅にとって最大の山場であった。
このとき、雅を審査した人間の数は十人。そしてそのほとんどが雅の『風使い』としての能力に疑惑の目を向けていた。周囲は四面楚歌。更には失敗も許されはしない状況の中で、雅の中にストレスがあったのは紛れもない事実だろう。
それをどう発散すべきかは措いておくとして、まずは審査を通ることが先決だ。そう思い、そう考え、なにもかもを呑み込んで雅は審査に臨んだ。
結果的に五人を殺した。
無意識に蓄えられていたストレスが能力の暴走を招いたのだと、雅は思い込むようにしている。でなければ、自身が殺人者でありながら外を歩けている事実を容認することができない。
審査は四角い部屋で行われた。特になんの変哲もない部屋だ。しかし、使い手としての証明を行うために中央には物体が置かれていた。これはどんな使い手であっても変わらない。これまたなんの変哲もない、物体だ。表現するならばペンやハサミなどの文房具から始まり、角材や岩なども用意されることがある。そこにある物体に干渉し、自身が発露させたものへと変換することができたなら審査は終了する。『水使い』ならば岩から水を搾り出さなければならない。火の使い手ならば、ペンを丸ごと一つの炎へと変質させなければならない。ただし、決して等価交換ではない。使い手の資質によって、その質量は変わって来る。特に『水使い』は穢れた水を用意してもらわなければ100%の変換を行えない。岩から水を搾り出したところで、ビーカー一杯に溜まるかどうかだ。
雅の場合は、花瓶だった。これは雅が『風使い』だったから用意されたというわけではなく、やはり変質を捉えるために単純に選ばれた物体の一つだったはずだ。
花瓶が空気に変わることはなかった。
しかし、代わりに空気圧が急激な上昇と下降を繰り返し、更には真空が作り出す目に見えない刃が室内を駆け巡った。
脳の血管に血液が詰まって、死んだ者が二人。真空の刃に隅々まで切り裂かれ、肉の塊にされた者が三人。計五人の死亡後、雅は審査を通ることになった。
荒々しいまでに室内が乱れ、空気圧の変化に審査官がのた打ち回っている最中、雅だけが力の止め方に戸惑い、立っていた。そして、花瓶はどういうわけか割れていなかった。
今でも夢に見て思い出す。
どうして、ああなってしまったのかと。どうして、もっと目に見えて分かる使い手に自身はなることができなかったのか、と。
なにより、一部始終を見届け生き残った審査官の一人が、笑みを浮かべながら拍手をしていたあの顔が、どうしても網膜に焼き付いて、記憶にこびり付いて、離れない。
*
「困った」
普段から強気な雅も、さすがに弱音を吐いた。しかし、その呟きも査定所のガヤガヤとした討伐者たちの会話によって掻き消される。
悩みは単純だ。命の灯火とも言える水がここのところ、減少の一途を辿っている。
あの男と、少女と呼んで良いか分からない特級海魔との出会いから二週間ほどが経った。その間も負けじと雅は海魔の討伐に精を出した。だが、そうして相手をして生きていられるのは精々、五等級海魔か四等級海魔が限度である。そこは雅も弁えている。
そのため、水とお金の収支がプラスとマイナスを行き来し、今、マイナスへと傾いている。どんな海魔討伐者であれ、一日にそう何度も海魔と戦いたくはない。特に雅は、ほとんどの討伐において一人で行動するため、連戦など出来もしない。そして同時に相手にできる海魔も最下級辺りの一匹や二匹がやはり限界である。
こうなってしまうことは大いに予測できた。しかし、フィッシャーマンとの遭遇がマイナスへの歯車に拍車を掛けた。あれ以来、恐怖が抜け落ちない。睡眠さえも妨げるほどに精神は参ってしまっており、心なしか鏡で眺めた肌も土気色に見える。
それでも、特権階級に産まれて来なかったのだから、やらなければならない。この海魔討伐に身を投じ続けなければならない。
一人での活動に限界があるのだとしても、雅は他者との交流を決して持とうとは思わなかった。それは彼女の中にある、貪欲なまでの生への執着心である。自身の手柄を独り占めにしたい。他者と利益を分け合うなんてできるわけがない。報酬は全て自分のものでないと満足できない。雅はまだ成人すらしていない。だからこそ、折り合いがつけられない。幼い自分は誰かに利用されてしまうかも知れない。ただでさえ女であるだけで甘く見られ、且つ性欲の対象として見られるのだ。そのような下卑た視線を向けて来る者たちと協力して討伐することなど想像もできない。
だが、一人でやり繰りして、このザマなのだ。このままでは確実に命よりも大切な水とお金は尽きてしまう。それよりも早く、手を打たなければならない。だから今、こうして査定所で手続きを行っている。順番を待っている間、溜め息を何度ついたか、もう分からない。
「雪雛 雅さん」
「……はい」
不愉快そうに、確実に不本意だと分かるくらいの低く声で雅は査定所の受付に行く。
「協力討伐の経験はゼロのようですけれど、研修を受けずに応募してはいませんよね?」
「まさかそんな、コミュニケーション能力がゼロみたいに言わないでくださいよ」
「協力討伐は数人及び数十人で二等級から一等級の海魔を仕留めに行きます。一瞬のモタつきが死を招きます。それがあなたではなく、別の誰かであったとしても、責任を負うことはありませんが、なにかしら後ろめたいことがあったのならきっと後悔することでしょう」
受付の男は静かに続ける。
「初の協力討伐。周囲のコンビネーションを損なわずに立ち回れるという自信があるのなら、ここにサインしてください」
スッと出された書類とペンを雅は受け取り、「少し考えさせてください」と答えて受付から離れた席に座る。
あの目は、研修を受けていないことを見抜いている目だった。
雅は頬を伝う、ヒヤリと感じた汗を拭いながら書類に目を通す。これは誓約書だ。なにが起きても、もしも自分が死んだとして責任を一切、家族の誰も査定所に訴えることはありませんという誓いを立てさせられるのだ。雅にはまともに世話をしてくれる父母も居ないのだが、どこからともなく自身の知り合いや親族を騙って、お金をふんだくろうなどと考える輩はこんな世の中になってから明らかに増加した。予防線を張らなければ、特権階級が勤める査定所であっても、訴状の対象になり得るらしい。
「一等級海魔、レイクハンターの協力討伐?」
「わぁっ!?」
ヒョコッと書類よりも前面に顔が出て来たため、素っ頓狂な声が出た。
「……えーと、リ、ィ?」
雅の声に驚いて離れた少女は特級海魔のギリィだ。二週間前に出会ってから、今日に至るまで顔を合わせたことは一度として無いのだが、強烈に印象に残っているのだから、その顔を忘れるはずもない。かと言って、彼女を海魔だとここで叫んだところで、どれだけの人がその言葉を信じてくれるかも分からない。
だから、雅は否応無しにこの海魔を、あの男が「リィ」と呼んでいた少女として対応しなければならない。
「レイクハンターは強いよ? お姉ちゃん、他の人と協力したって死んじゃうよ?」
「う……そんなの、自分が一番よく分かってるよ」
また弱音を吐く。フィッシャーマンとの戦いで自分がどれほど無知であったのかを知り、また無力であったのかを悟った。だからといって強気で勝ち気な自分がどこかに行ってしまったなどとは毛頭思ってはいないが、海魔の討伐に関しては慎重になってしまったのは紛れもない事実だ。
「ディルなら一人で倒しちゃうけど」
「……いや、そんな、さすがにそれは嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。なんなら、ディルに訊いてみる?」
「居るの?」
「うん」
「さすがに、それは……ちょっと」
醜悪な容貌を思い出し、そして自分に向けられた罵詈雑言や暴力の数々を思い出し、苦笑いを浮かべながら断る。
「なぁんだ、残念。面白いお姉ちゃんだったのに、死んじゃうんだ」
「まだ死ぬって決まったわけじゃ、ないし」
ここまで死んじゃうと言われるとめげそうになるのだが、そういった理由で協力討伐をやめようという意思を雅は持っていなかった。
「最近、この近くの湖に現れたレイクハンターが暴れて、一般人が何十人と犠牲になってる。それを放っておくのは、できないかなぁって」
「知ってるか、クソガキ? 正義振って、偽善を振り撒く奴ほど早死にするようになってるんだぜ、この世の中は」
ビクッとまず震え、次にピンッと背もたれに身を預けず椅子に座り直す。そんな雅を余所に、あの男が彼女の対面に腰掛けた。ギクシャクと首を動かしてみたが、どうやらここ以外に空いている椅子が見当たらなかったらしい。
「レイク、ハンターって……どういう海魔、です、か?」
恐る恐る訊いてみる。
「姿が見えない。遠くから針のように尖った水が飛んで来る。無論、その水は穢れた水で、固形の氷よりも固い。奴の体内で生成されるものだ」
「姿が見えない、とか。光学迷彩、ですか?」
「だからテメェは馬鹿なんだ。喩えるならカメレオンの擬態だ。体色を変化させて、景色に溶け込む」
ボソリと「人の皮を被る擬態とはまた別だ」と付け足される。依然として雅の隣から離れようとしない少女との違いを示すための言葉らしい。ただし、大声では決して言えない違いだ。言えばこの少女が海魔だとバレてしまうのだから。
「見分けられ、ますか?」
「体色の変化は自由自在だ。全身一色とは限らない。どの部位も、その景色に合わせた色に変える。そして、さっき言った遠距離からの襲撃だ。猟銃を使う方がハンターという名前にも合っているが、あれは人間の世界で言わせるなら狙撃を得意とするスナイパーだな。どれだけ目視で注意していても、隙を見て撃たれる。まぁ、どちらにせよ人間をハントしてんだから、ハンターと呼んで差し支えはねぇんだが」
言いながら男は自身が持って来た書類に粗方、目を通したのち片手でグシャリと潰してしまった。
「碌な案件がねぇな。金にも水にもならねぇ小っせぇ仕事ばっかりだ。この町は五等級から三等級ぐらいしか出て来ねぇのか? だったらレイクハンターなんて一等級はみんな、喉から手が出るほど仕留めたい海魔だろうよ。道理でそれが協力討伐なワケだな。リィ、レイクハンターの報酬は?」
「水一年分と報酬金額はおよそ三百から五百万円」
「それを何十人という討伐者が一緒になって討伐して、手元に回って来るのはどれくらいの水で、どれくらいの金か分かるだろ。協力討伐なんて、一等級海魔を討伐したところで端金になる。実に金も水の回りも悪いプランだよなぁ」
報酬を何十人で分割すれば、男の言うように手元に回って来る水もお金も大した量でも額でも無くなる。
「でも、全員が生存していること前提の話、です、よね……?」
チラリと男の表情を窺う。ケロイド状に潰れた右半分の筋肉を動かして卑屈な嗤いを浮かべている。思わずゾッとする。だが、その反応はこの男にはもう慣れたものらしく、大した反応も見られない。
これは雅の中に巣くっている迫害の感情だ。醜いからと怯えたり、怖れたりするのは御門違いなのだ。この男だって、その容貌になりたくてなったわけではないと思うのだから。
「レイクハンターじゃねぇが、五十人が挑んで生存者が一桁だった討伐もある。一等級にも強さに差がありすぎる。あの等級は大まか過ぎてアテにはならねぇことを胸に刻んでおけ」
言いつつ男は外套からアルミ製の水筒を取り出し、喉を潤した。可愛らしさなど塵一つもない、軍隊が用いるような水筒だった。
「俺の中じゃレイクハンターは二等級だ。だが、そんな海魔を協力して討伐するよりも、三等級を始末していた方が水も金も溜まる」
「その三等級もまともに始末できない討伐者は、どうしたら良いんですか……?」
「野垂れ死ねよ、そんな才能無し」
辛辣な言葉に思わず涙が出そうになるものの、それはこれまで自分が積み上げて来た性格への否定になる。だから雅は必死に堪えた。
「教えてください」
「ぁあっ?」
「私に、力の使い方を、教えてください。一人でも生きて行けるようになりたいんです。なんにも知らないクソガキですけど、死にたく、ないです」
男がなにを言い出すんだとばかりに鼻で笑う。
「俺に師事してぇなら金を出せ」
「幾ら?」
「有り金全てだ」
そんな無茶な、と雅は言葉を零す。まだ雅には潤沢とは言えないまでもお金も水もある。この男に拘らずに別の誰かから力の使い方を教われば、両方とも空になることはないだろう。
だが、どうだ? と雅は思案する。
この男以外に師事したところでなにが学べるのか。自身は異端者の『風使い』だ。他の誰かに師事したところで、この力の扱い方について詳しくは無いだろう。
だから、この男しか居ないのだ。仮初の強さをひけらかす討伐者たちよりも、確実な強さを雅はこの目で見た。それは醜悪な容貌からは想像もできないほどに華麗で、また立ち回りも優雅で余裕があった。
あの華麗さを、あの優雅さを、あの余裕を持ち合わせれば、生きて行ける。一人でも生きて行けるはずだ。
「分かり、ました。私が持っているお金を全額、お支払いします」
豪快に笑われる。
「どうやって喰って行く?」
「それ、は……分かりませんけど、どうしたら良いのかなんてサッパリですけど」
男に雅はハッキリと向き合う。
「私はあなたの強さを学びたい」
男は威嚇するように雅を睨んで来る。目を逸らしてしまいたくなるが、堪え忍ぶ。力量はこの前、充分に見透かされた。だからこれは、器を調べられている。雅の中にある覚悟がどれほどのものかを瞳から捉えようとしているのだ。
そしてきっと男も、雅が分かっていて視線を逸らそうとしないことなど見抜いている。だからこそ数分の沈黙がそこにはあった。
「…………リィ、非常食だ。こいつが野垂れ死んだら喰って良い」
「お姉ちゃんのこと食べて良いの? 面白いお姉ちゃんだから食べたくないなぁ」
「だから非常食だっつってんだろうが。当分は連れ回す。が、一日でぶっ倒れたら非常食にもならねぇかもな」
男はクシャクシャにした書類を広げ直し、その一枚にアタリを付けて雅へと寄越す。
「レイクハンターの討伐者応募の期限は二週間後。決行日は更にその一週間後。つまり三週間は余裕があるわけだな。それに備えて、まずは先立つ物も、そしてテメェ自身の底上げも必要だ。だから、この二等級海魔を明後日、討伐しに行く。あくまでテメェが前面、俺がバックアップだ。リィ、二等級海魔の基本的な報酬は?」
「日本なら水二ヶ月から三ヶ月。報酬金額は八十万から百万」
「報酬の三分の一がテメェのものだ。三分の二は俺が貰う」
男はアルミ製の水筒を外套に戻し、そして雅に提示した書類以外は全てクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込んだ。
「さっき、一等級海魔は端金にしかならないって言っていたのに」
「あぁんっ? 金にはならねぇが、始末はしなきゃならねぇだろうがよ。正義感を持たずに、偽善なんて投げ捨てて、ただ自分自身の安全の確立のために。それと、テメェ如きが持っている有り金なんざ要らねぇ。どうせシケた額しか持ってねぇだろ。そんな金は要らねぇ、欲しいとも思わねぇ」
「……良かった」
「ただ、クソガキ」
男はイヤミ混じりに言い放つ。
「俺がテメェを買った。テメェの体をどうしようが、テメェの体がどうなろうが、全て俺の勝手というわけだ。たとえば、ここで服を脱げと命じたならテメェは反抗することなく着ている物を全て脱げ」
「ふ、ふざけてんじゃないわよ!」
「まぁテメェみたいな幼児体型のクソガキを弄んだところで、嗜虐心も満たされねぇし、当分は殴ったり蹴ったりで、発散させてもらおうか」
それを容認できるほど雅の心は広くない。なにより、そんな扱いを受けたいがために有り金を全て支払う覚悟を見せたわけでもない。
「殴ったら殴った分だけ仕返ししてやるわ」
「はっ、クソガキに殴られた経験なんざ、産まれてこの方一度もねぇよ」
軽くいなして、男は席を立った。合わせて雅の隣から動いていなかった少女がトタタッと駆けて男の元へと行く。どうやら査定所を出るらしい。なら口で説明して欲しいものだと文句を垂れそうになったものの、なんとか堪えながら、雅も席を立つ。
「襤褸の外套にアルミ製の水筒。ついでにあの醜悪な顔に右目の義眼。あれだけ特徴が一致したら間違いねぇな」
査定所を出ようとした雅の耳に、噂話を立てるかのように、しかし確実にこちらに聞こえるほどの声量で討伐者たちの会話が入り込む。
「あれだろ。首都防衛戦の生き残り」
「確か…………五人だったか、生き残ったの?」
「ああ。当時じゃ貴重な一万人の討伐者が首都防衛に派遣された。その一万人が首都防衛戦の中、たった一つのラインが突破されて、瓦解した。それからは海魔の殺戮ショーさ」
「その中で生き残ったのがたったの五人。きっと憑いてんだぜ、悪霊が。でなきゃ生き残れもしねぇし、討伐者を続けられるほどのメンタルだって無いだろ。俺がそんな現場に居合わせたら、絶対に自殺するね」
「あんな醜悪な面相になってまで、生きていたいとは俺も思わねぇなぁ」
雅は査定所をそそくさとあとにした。そのまま聞いていたいという意思と、すぐにその場から離れたいという意思の鬩ぎ合いはあったのだが、噂話に聞き耳を立てるよりも直接、本人に訊ねられるのだからそっちの方が手っ取り早いだろうという結論に達した。