【-疫病神-】
「無関係だ」
「……恋人同士だったとか?」
「鳥肌の立つようなことを言うんじゃねぇぞ」
ギラリとまたも睨まれた。
しかし、この否定によって雅はなんだか肩の荷が降りたかのような、そんな気分になった。張り詰めていた緊張がパッと途切れたときのような、緩やかで穏やかな感覚に包まれる。
「首都防衛戦の生き残りだ。『水使い』のリコリス。あのときは、別の名前を使っていたが」
日本の首都防衛戦の生き残りは五人だと言われている。ディル、そしてリコリス。これで二人と雅は出会ったことになるが、こうも出会ってしまうと世界は思ったよりも狭いのではという錯覚に陥る。
「良いか、リコリスはイカれた女だ。会話はほとんど成立しないと思え。あんなイカれた女に関わったら、テメェの人生が終わる」
「え、それなに? 心配してくれているの?」
「んなわけねぇだろ。テメェがどうなろうと知ったことじゃねぇが、テメェが巻き込まれたら俺も巻き込まれそうだから嫌なんだよ。レイクハンターのときだってそうだったじゃねぇか。だからテメェは、リコリスに関わるな」
「そうは言っても、もう関わっちゃっているみたいなものだから……気を付けはするけど」
「あの女は『人で無し』の“疫病神”だ。俺の噂は聞いたことがあっても、あの女の噂は聞いたことがねぇのか? あの女が寄った町は揃って大型、或いは一等級海魔に急襲される。なんの準備もしてねぇ討伐者が次々と死ぬ中、あの女だけは何食わぬ顔で生き残る。そりゃそうだ、あの女は『人で無し』なんだからなぁ。だから、俺は言わせてもらう。テメェがこれを聞いて、準備不足で海魔に襲われたのだとしても、それは身から出た錆だ。俺の責任じゃねぇし、あの女の責任でもねぇ。分かったなら、海魔に急襲されたときを想定して、準備をしておけ。シーマウスのときのような不甲斐無さを俺に見せんのなら、ここで海魔に殺されて、死んで行け」
忠告であり、心配であり、教えでもある。雅は小さく肯き、甲板を軽く一周したあと、艦内に入る。
「どー思った?」
「ひゃいっ?!」
艦内に戻る階段を降り、廊下を歩き出したところで背後からリコリスに抱き締められる。そのままの体勢で、両手は卑猥に動き、雅の下腹部と胸元が弄られる。
「やめてください!」
「ディルを悦ばせるにはねー、まだちょっと幼いかなー。とくに胸が無いのは致命的かなー。でも、ディルがロリコンならワンチャンあるって感じー?」
「放して!」
叫び、そしてリコリスの魔手から逃れる。
僅かながらの違和感があった。この女の腕に触れたときだ。感触が人の物とは思えなかった。そして、なにより血が通っているのかと疑うほどに、冷えていた。
『人で無し』とディルはリコリスのことを蔑んだ。それはつまり、この女もリィと同じような、特級海魔なのだろうか。
しかし、それではあの香水については説明が付かない。香りを混ぜ合わせた水を雨のように降らせる。水によって臭いを洗い流す。そんなことができるのは、『水使い』しか居ない。海魔の中に使い手のような能力を持つ存在は発見されていない。だから、この女が人間であることは間違いないのだ。
「ありゃー? 私の勘違いかなー?」
その問いに、雅は答えない。
「……ふふっ、かーわいー。これ以上、虐めちゃうと泣いちゃいそー。そーいうの、マジ勘弁だからやめてよねー。涙は女の武器だけど、女に向けるその武器は、ただウザったいだけだからー」
ケラケラと嗤いつつ、リコリスは帽子のキャップを掴み、目深に被り直す。
「なんなんですか、あなたは」
「言ったじゃん、私はリコリス。それ以上でも、それ以下でも、無い。人間以上でも、人間未満でも、無い」
「ディルがあなたのこと、疫病神って言ってました」
「ふーん、告げ口しちゃうんだー? まー、それって告げ口じゃないけどねー、ほぼ周知の事実みたいなー」
「……あなたが狙って海魔に町を襲わせているんじゃないですか?」
言動が疑わしい。姫崎 岬は海魔のテリトリーを巧みに操作し、更には研究者という立場から海魔の声帯を模した笛を作り上げた。そのように、海魔を操ることで人を襲わせる、或いは町を襲わせるということを他の人物が行わないとは言い切れないのだ。姫崎 岬が特別なのではなく、姫崎 岬がたまたま雅にとって初めて、そのような価値観を持った相手だっただけだとするならば、世界中で海魔の研究などというおぞましいことが行われている可能性は捨て切れない。
だからこそ、言動と更には怪しさまで放っているリコリスを危険視するのはなにもおかしいことではない。
「違う違うちがーう。違うんだよー、これが。ほんっとーに、みんな分かってなーい」
「なにが違うんですか?」
キヒッという嗤い声がした。
「釈明なんてしないよー。それ全てが事実であり、現実だから。起こったことに対しての、あとからの釈明ほど怪しい言葉も無いでしょー? どうせ言ったところで誰も信じない。信じたところで誰も得をしない。利益の無いことを喋っても、無駄に無駄を重ねるだけだからー」
ディルの言った通りだ。会話が上手く噛み合っているように思えない。こっちの質問に対し、この女は勝手に結論付けた答えを導き出す。そのせいで、訊きたいことが一瞬の内に処理されてしまい、話題が逸らされてしまう。
「なら、ここに居るのは何故ですか? 首都防衛戦の生き残りなんですよね? こんな、片田舎と言い切れてしまいそうなところに居るのは、おかしいと思うんですけど」
「なにがおかしいのー? あー、そっかー。先にディルと出会っているから、こーも連続して生き残りと出会うのが珍しいからかー。それはねー…………教えなーい。もっと触らせてくれたら教えてあげても良いけどー」
リコリスは雅がその手の話を苦手としていることを見抜いている。だからこそ、卑猥なことを言って、それ以上の追及をしないようにと警告しているように感じられた。
「もし、あなたが海魔を操って人を襲わせているんなら…………私、あなたを許せませんから」
「…………ねー、クソロリ? 私も私であなたの嫌なことを口走ってんだけどさー、あなたもあなたで私の逆鱗をさっきから舐めるように触れてるんだよねー。私のやることには文句を言わず、疑問にも思わず協力して、忠犬のように働けよ。助けてやった恩義があんだろうがよ、ねー、クソロリ」
微かに見えた琥珀色の目が、激昂を抑えていることが雅に伝わるように向けられていた。
「分かったなら、もーなにも言うな。でないと、誰も居ないところであなたの体中を蹂躙して、穢すだけ穢して、素っ裸にして殺すから」
飛び抜けるほどの兇悪な発言だった。忘れつつあった、人間に対しての恐怖を感じる。
「わ、かり、ました」
声が震えていた。
「ん、分かればよろしい。でークソロリー? もう一人の胸ロリはどこ行ったー?」
「葵さんなら、クラスメイトを探しに、行きました」
「……そー、葵……葵かー。オーケーオーケー。あとで見つけて、胸ロリにも同じように忠告しておくからー、その点よろしくー。二人合わせて、弄ぶのも楽しそうだからさー、そーいうことを私にさせちゃわないように気を付けることー。以上でーす」
そう言い残し、リコリスは階段を降りて、また雅の前から居なくなった。けれど、あの神出鬼没さを考えるならば、前後左右に気を付けていなければ、また唐突に現れるかも知れない。それでも、目の前から人間に感じる恐怖の塊が居なくなったことに今は胸を撫で下ろすばかりである。




