【-リコリス-】
「大丈夫ですか?」
「あたしのことは気にせず、逃げてください」
そんなわけにも行かない。ほんの僅か、雅は翻って人差し指で基準を定める。定めた箇所に視線を集中させ、また意識も集中させることで空間に干渉を行う。その干渉した空間に、黒い群れの一端が触れる。
変質した空気は圧縮され、触れたものを反発する強烈な風圧へと変貌する。黒い波濤が後方へと押し返されて、それに巻き込まるようにして次々と散り散りになる。
「嘘でしょ、どれだけ居るのよ!」
弾き返したシーマウスはほんのごく一部に過ぎないが相当数は巻き込んだはずだ。だが、黒い波濤の速度は変わらない。一回で作ることのできた時間は三秒程度である。これでは時間稼ぎにもなりはしない。
「ちょっと、クソ野郎! あんたのロリたちがシーマウスに蹂躙されそうになってるけど、あんた女の子が獣に襲われて死ぬところを見て悦ぶとか、そういう趣味あったっけー?」
「あるが、それがどうかしたか?」
容易く言い返さないでもらいたい。雅は二人の会話を耳に入れつつも、再度、空気に干渉を行って風圧という名の反発を起こし、大量のシーマウスを押し返す。
「っとーに、こっちはそれどころじゃないってーのに……っ! これでも連日連夜、シーマウスぶっ殺し続けてたってーのに、ちょっと休憩してたってーのに」
ブツブツ文句を垂れながら、女が踵を返して雅と葵に駆け寄る。
「二人とも、討伐者? 使い手なら、なにができるのか教えなさい」
「私は異端者で、『風使い』です」
言いながら、またも空気の壁を作り、風圧で弾き飛ばす。
「あたしは……『水使い』、で……水圧の爪を作ることが、できます」
息を整えながら、葵も問いに答える。
「オーケー。あの甲斐性無しのクソ野郎に辛酸を舐めさせるために、助けてあげるわ。でもねー、これは今日の一回限りよ。私も、なんの利益にもならないことなんかで、力を使いたくなんてないもの。吐くんなら吐いて良いわ。さっきみたく、香りを放出させるから」
走って疲れている雅と葵には、それはもう絶望だった。しかし、この緊迫した状況から抜け出せるのなら、嘔吐してしまいたくなるほどの芳香を嗅ぐことぐらい容認しなければならないだろう。
このまま死ぬか、それとも吐いて恥を晒しつつも生きるか、である。雅も葵も迷わず首を縦に振った。
「取り敢えず、そっちの異端者の子。そのまま弾き返しておいて。それでも抜けて来るから、そっちの子が個別に対処。できる? できるわよねー、できないなんて言ったら、私はもう助けないから」
本質的に、この女が内包するものはディルのそれに近しいと雅は感じた。言っていることもやっていることも、どれもこれもディルに似ていて、けれどディルではない。その違和感に、少しばかり呆然としていたが自身のやるべきことを思い出し、急いで空気の変質を行う。それを二度、三度と繰り返してもシーマウスの群れは諦めてはくれない。それどころか、雅の空気の変質を察知してか、黒い塊の一部が変質した空気の横を通り抜けて来る。構わず雅は何度も空気の変質を行って、とにかく群れを押し返し続ける。
擦り抜けたシーマウスを葵が水圧の爪を使い、切り裂く。
水圧は時間を掛けて物体を切り裂くものなのだが、どうやらシーマウス程度なら切り裂くことに難は無いらしい。しかし、有象無象の一匹や二匹を切り裂いたところで黒い波は止まらない。切り裂かれ、動かなくなったシーマウスは他のシーマウスに喰われて、波の中に消えるのだ。切り裂かれても生きているシーマウスは食欲だけで起き上がり、黒い波に再び加わる。そうやって、ただただこの海魔たちは押し寄せる。
中学の教育の最中にイナゴの群れの話を聞いたことがある。スズメの群れの話も聞いた。イナゴもスズメも、自身が食べられる物は根こそぎ食べて行くらしい。ヤギや羊も、過放牧により生い茂った草地を砂漠化させるという。
シーマウスはそういった、数が多すぎることによって害獣や害虫へと変わる習性があるに違いない。そもそも海魔は人間にとって害悪でしかないのだが、しかし一匹一匹がストリッパーやレイクハンターのように兇悪なわけではない。想定を超える数に達した時、初めて脅威となる海魔なのだ。こんな、討伐者に放置されてしまい、尋常では無い数まで増えてしまったシーマウスが押し寄せれば、町が廃墟と化すのは当然だ。
「時間稼ぎ、どうもありがとー。でも、これから地獄だろうけど、頑張ってー」
女がキャップ帽を脱いで、金髪に白のメッシュ掛かった髪を揺らし、指先が天を指す。女と出会う前に訪れた、あの異様な豪雨が今度は女も含めて、三人の体をびしょ濡れにする。
辛抱できないほどの芳香が、再び漂う。今度は女からだけでなく、自分自身の衣服や肌からも放出されている。これでは集中もできない。空気の変質を行わなくなったことでシーマウスは目前まで迫る。
が、目前で左右に分かれた。まるで見えない壁に阻まれているかのように、シーマウスは雅たちを無視して通過して行く。三人の放つ香りの中に、彼の者たちが嫌う匂いがあるのだろう。
それでも、我慢はできない。雅はその場に膝を折り、口元を押さえていたが耐え切れずその場に吐瀉した。葵も雅に見えないようにして嘔吐している。全身の穴と言う穴から水分が漏れ出しているのが分かる。目からは涙が零れ、鼻水が垂れ、口からは胃液混じりの涎が地面に落ちて行く。体が熱を帯び、濡れている体を更に汗が濡らす。危うく下も漏らし掛けたが、そこは気合いで乗り切る。
「出す物は出した? 出したなら、このまま戦艦に向かうわよー? ディルと、ギリィは……もう見えないわねー。ほんっとーに置いて行きやがったよ、あのクソ野郎。しかも私の外套まで持って行きやがって……これじゃー、私も戦艦に行かなきゃならなくなったじゃん」
歯軋りを立て、女は苛立っていた。
「あの……ありがとう、ございました」
「感謝してんなら、ディルから外套を奪い返すの手伝ってよねー」
葵にそう返しつつ、女は深い溜め息をつく。
「……ディルとは知り合いなんですか?」
雅は少し落ち着かない様子で、女に訊ねてみる。
「まーいちおーねー。私はリコリス。本名は捨てたから、気にしないでー」
目深にキャップ帽を被り直し、女――リコリスは二人から視線を逸らし、歩き出した。




