【-芳香-】
「シーマウス?」
雅は葵の言葉をほぼ反芻しつつ、疑問符を付けた。
「シーマウスの等級は五等級。報酬は一匹単位で水ならコップ一杯分、お金なら日本の通貨単位で百円」
リィは恐らく、ディルに教わったのだろう情報を口にするが、やはりこれでは全容を知ることができない。
「百円なんて貨幣価値のねぇものを口にしてんじゃねぇよ、ポンコツ。十匹狩らなきゃ使える金にすらならねぇなんて、最悪最低だな」
『金使い』が硬貨を偽造できるため、硬貨に貨幣価値は無い。そのため、日本で使えるのは千円、二千円、五千円、一万円などの紙幣のみである。海魔の急襲に伴い、二千円札も怖ろしい速度で増刷されたのだ。
「なんでそんな、最下級の海魔に襲われて、町が潰されちゃうの?」
「ハツカネズミの由来は諸説ある。妊娠期間が約二十日、よって二十日で増える。また、ドブネズミなどに比べて生後二十日程度の体長しか持たない。シーマウスはまさにハツカネズミの生態に近しい海魔だ。恐らくはハツカネズミが『穢れた水』によって海魔になったものと考えられる。まぁ、ゴキブリよりはマシだ。そもそも虫を真似た海魔はまだ見つかっていない」
ゾクゾクと、雅は背筋を凍らせる。海魔を前にして悲鳴を上げずに戦える雅でも、ゴキブリを前にすると問答無用で悲鳴を上げてしまう。室内を高速で動き回る様が駄目なのか、それともあの姿そのものが駄目なのか、ともかくもあんなものが海魔として発見されたなどという話が出て来たならば、絶対にその手の討伐には行かないだろう。
「小さい海魔ならそんなに脅威じゃないんじゃないの?」
「ハツカネズミに近しいだけだ。体長はそれをはるかに上回る。カピバラ並みだ。五等級に属するのは脅威だからではなく、サハギンのような人型ではないからだ。人型の海魔はクソみたいな脳味噌で僅かばかりの学習能力を有しているが、動物型の海魔は主に真似た動物の生態を加速させる。特にシーマウスはなんでも喰い尽くす。草花に限らず、木々を齧り、更にはコンクリートで出来た建物すらもその顎と歯で崩してしまう」
ネズミには比較的、苦手意識を持ってはいないがディルの話を聞いて、気後れしてしまう。
「一匹見たら百は居る。しかも動物的本能で密集して動く。五等級ながらに、数で圧倒して来るんだから、たまったもんじゃねぇぞ。楽が出来ると思えば、そんな面倒な海魔に襲われていたのかよ、今から帰っても構わないよなぁ?」
「ここまで来て帰るとか人間としてサイテーでしょ!」
「俺はテメェの中じゃ、常にサイテーだろうがよ。しかも、クソガキにそう評価されたところで俺は痛くも痒くもねぇ」
しかし、ディルは言いつつも引き返す素振りを見せずに歩き続けている。雅は深い溜め息をついて、葵とディル、そしてリィに聞こえないように小さく「この、偽善者」と吐き捨てた。
三人でひたすらに続く道路を歩き続けること、約二十分。歩く速度がディルとリィは予想以上に速く、油断していれば置いて行かれるほどだ。雅と葵は必死にその二人の速度に喰らい付きつつ、徐々に乾いて来た喉を水筒の水を少しだけ流し込んで潤す。その水筒を葵にも少しだけ分け、更にディルとリィを追い掛ける。葵に水を分けたのは、休憩時間が無いためだ。休憩さえあれば彼女は『水使い』の変質の暇が入るのだが、そんな時間すら惜しいのか、とにかく休憩を挟んではくれないのだ。
「私たちのことも考えてよ」
息を切らしつつ、雅はディルの背中に投げ掛ける。
「テメェらの歩く速度に俺がどうして合わせなきゃなんねぇんだよ。良いか、クソガキども。俺が、基準だ。俺を基準としないんなら、置いて行く。嫌だと言っても、そんな言葉は聞くつもりもねぇ」
雅は葵の顔を窺う。ディルとの戦闘訓練でそれこそ最初に会った頃よりマシになったとはいえ、体力は雅よりも無い。このままだと雅より先に葵が参ってしまうだろう。
「大丈夫です。歩きましょう」
だが、そんな心配そうな雅の視線を振り払うように葵は一心不乱に前を進み続ける。
「そろそろ、シーマウスのテリトリーってところか」
ようやくディルとリィの足が止まった。雅と葵が追い付き、二人が立ち止まっている先を眺める。
緑を帯びた草花は一切無く、木々はなにかに齧られた跡を残して枯れ果てており、コンクリートで舗装されている地面すらもデコボコになるほど穴が空いている。確かにこれまで見て来た景色とは明らかに違う。
「あそこの戦艦が見えますか?」
葵は浜辺に乗り上げている戦艦を指差した。遠くも無く、近くも無い。ここからなら十分も掛からず到達できる距離だ。
どのような妨害も無ければ、だが。
雅は片手を短剣の柄に掛けつつ、左右に目を凝らす。なにかが動いている気配は感じられない。緑が無い以上、物音はしないだろう。だからこそ音ではなく、目で頼るしかない。幸いにもシーマウスには擬態が無い。飛び掛かって来たならば、瞬時に切り裂くことができる。
「囲まれていたりしないよね?」
「してない、大丈夫」
姿は見えず、気配も無い。それでも不安はある。だからこそディルに訊ねたのだが、リィが代わりに即答した。彼女が言うのだから、信じて良いだろう。雅は警戒を解いて、胸を撫で下ろす。
「くせぇ」
「腐臭なんて今に始まったことじゃないでしょ?」
「ちげぇよ。この臭いはちげぇんだよ」
ディルは足で露出している地面を蹴る。瞬間、地面は隆起してそこから石で作られた長鎗を取り出す。
斧鎗ではなく、長鎗であることに違和感があったものの、ディルがなにかしらの気配を感じ取って臨戦態勢に入っていることは分かった。だから雅も身構えたのだが、ディルがそんなこともお構い無しに、突如、胸倉を掴まれた。そして、そのまま後ろへと投げ飛ばされてしまう。
「痛いんだけど!」
意味も無く、地面に打ち付けられた。受け身を取る余裕さえ無かった。だからこそ雅は起き上がってディルに向かって文句を言い放つ。
「寄るな、黙って見ていろ」
どうやら近付き過ぎていた雅を突き放したかったらしい。それならそうと言ってくれればと雅は土埃を払いつつ、次の文句を頭の中で組み立てていると、ポツポツと空から水滴が落ちる。
「雨?」
「ちげぇ、それは穢れてねぇだろうが」
「じゃぁ一体、なんなのよ!」
一々、雅の言葉を否定して来るディルに苛立ちの声を上げる。
しかし、雅がそう叫んだのも束の間、空から雨粒だと思っていた水滴が大量に、それも想像を絶するほどの量が降り注いで来る。これが雨ならば豪雨であり、穢れた雨粒を浴びているのなら、雅たちの露出している肌はあっと言う間に爛れてしまう。しかし、これだけ浴びていても皮膚はそういった反応を示さない。ディルの言った通り、雨ではないらしい。
「五行じゃ土は水より強いんだっけー」
聞き覚えの無い声が雅の真後ろから聞こえた。ディルが振り返り、そしてこれまた躊躇いもなく長鎗を振りかざしている。さすがにこれは、雅の本能が危険信号を告げる。この男は、雅ごと真後ろに居る誰かを串刺しにするべく長鎗を投擲しようとしているのだ。全身全霊でその場に伏せた。直後、雅の頭上を長鎗が通過する。間一髪、ディルに串刺しにされずに済んだのではあるが、真後ろから聞こえた声の主にもし命中していたのならば、それはディルの「人殺しはしない」という流儀に反する行為ではないのかと思って、すぐに振り返る。
「外れ外れ大外れー。私はここー、ここじゃないならどこかしらー?」
声のする方向が変わっていた。先ほどは雅の真後ろだったが、今度はディルの方向だ。また雅は身を翻すことになる。
「うっ…………な、に、この人」
思わず鼻を片手で押さえてしまう。
ディルが二本目の長鎗の穂先で首筋を捉えた、声の主――女性からは異様なまでの芳香が漂っている。間違いなく香水の匂いなのだが、その匂いがあまりにも強烈だった。様々な花の香りをごちゃ混ぜにしたようなそれは、もはや悪臭に近い。葵も口元を押さえている。強烈な香水の匂いに、気分が悪くなってしまったのだろう。雅も葵も香水の匂いには慣れている。年頃の女の子なのだから、その手のものを化粧道具の一つとして入れている。しかし、この匂いはそのように香りに慣れていても、看過できないほどの代物だった。
キャップ帽子を目深に被り、そこから肩まで流れる髪の色は金に近いが、先端に行くほど白色掛かっている。そして、露出し過ぎている肌は小麦色。瞳の色は琥珀色。その瞳を携える瞼はやや吊り上がっており、猫のようだ。
「退けてくれないかなー、その鎗の先端。男の鎗なら大歓迎だけど」
下世話なネタを口にしつつ、女は鋭く尖った長鎗の穂先に片手を触れさせる。
「くせぇ、くせぇ、くせぇくせぇくせぇくせぇ。臭すぎて頭が痛くなって来る! 消えろ、失せろ。いや、死ね。死んでしまえ。死ぬ瞬間を見届けてやるから、死ね!」
ディルが長鎗を引き、それを両腕で激しく回したのち、腐った海に向かってそれを投げ飛ばした。
「そうそー、そんな野蛮なものはゴミの海にぽいーっとねー」
女は数歩、ディルから下がってクルリと回る。それに合わせて、ボロの水色の外套が風を受けて翻った。トップスは、この世界には相応しくないロンパースで胸元を大胆に見せ、ボトムスのプリーツスカートは驚くほど短く、少し屈んだだけでもショーツが見えてしまいそうだ。
「テメェはどこぞの男に襲われたいのか、それとも娼婦なのか、どっちなんだよ。ああ、気持ち悪い気持ち悪い。寄るな、五メートル以内に入るな」
「襲われたくはないしー、娼婦でもないよー。ただ露出狂なだけー」
へへー、となにやら勝ち誇ったかのように言っているが、それで納得などできるものか。
しかし、とにかく強烈過ぎる芳香をどうにかしてくれなければ、雅も葵もまともに声を発することもできない。
驚くことはまだある。ディルの、この女に対する態度である。雅も葵も散々、ディルには罵られ、痛め付けられ、苦しめられていたのだが、そんな男がこれほどまでに嫌悪する異性が居るとは思いもしなかった。なにより、罵ることはできていても痛め付けることも苦しめることもできていない。
あのディルが、である。これが驚き以外のなんなのだと言うのだ。雅はすぐさまディルに、この女のことを問い質したいところなのだが、香りに耐えられずに遂に蹲ってしまう。ちょっとでも動き、鼻を押さえている手を放すと、匂いにやられて胃の中の物が逆流して来るだろう。
「あああああああああっ、くせぇんだよ! テメェは自分の匂いをどうにかしやがれ! なにやってんだ、馬鹿か!?」
「やー、それがさー、私ってもう何日もシャワーも入浴もしてないんだよねー。女として、ちょっと体臭が気になっちゃってさー」
「テメェに“体臭がある”か! さっさとどうにかしやがれ!」
ディルの横でリィがフラつき、ぐったりとしている。葵も、青褪めている。この匂いの中、唯一、ディルだけが女性に対して要求ができる。頭がおかしいことは知っていたが、どうやら鼻もある程度、壊れているらしい。しかし、今はそれが頼もしい。
「ちぇー、この香りはある意味で必要だったんだけどなー」
言いつつ女性が目深に被っていたキャップ帽を脱いで、小さく笑みを零す。
「……あれ、匂い、無くなった?」
ビックリするほどの速度で香水の匂いが薄れて行った。雅の鼻がディルと同様に壊れてしまったのかと葵とリィを見やるが、この二人も目をパチクリさせて驚いている。
「まだくせぇんだよ、この露出狂! 存在ごと俺の前から消えろ!」
「なーによー、露出狂なことは前から知ってんじゃんかー」
ブツブツ言いつつ、女は雅が震えるほど奇妙な、気色の悪い笑みを浮かべる。
笑っているのに、目は笑っていない。そして、空笑いですらない。心の奥が冷め切った、到底、まともな人間がするような笑い方ではなかった。




