【-なにを嘆いているのか-】
「あなたの『慈善』は一体、どこに行ったんですか? 白銀 葵さん」
その言葉が鶏冠に来たのか、氷像の狼は一直線に楓へと駆け出した。外套のボタンの隙間から手を入れ、金属の短剣を取り出して氷爪の一撃を片手で受け止める。ただ、両手でなんとか扱える金属の短剣を片手で用いたため、どうしても押し飛ばされてしまった。だが、これで距離が開き、改めて両手で握り直す時間が出来た。言っても、その数秒後にはもう氷像の狼は楓に切迫していた。しかし、既に反攻の準備は整えている。そして楓の動体視力ならば追えない動きも取っていない。確実に、氷像の狼の頭上を捉えて振り下ろす。
「なっ?!」
氷像の狼は地面擦れ擦れで腹を見せるように反転し、そして氷爪を振るって来た。短剣はその鋭い一撃に防がれ、またも楓は距離を取らざるを得なくなる。その間に氷像の狼は回転を続けて四足で着地を終える。
野生動物と戦った経験は無い。しかし、氷像の狼の動きと骨格を見て、楓は氷爪を“振り上げること”は不可能だと判断した。狼の足は地面を蹴るように走り、爪は獲物や障害物に引っ掛かるように発達し、牙は獲物に噛み付くためにある。なので、どのような体躯であっても、狼そのものが手の平を見せるように――肉球を見せるように脚を動かし、爪を振り上げるのは不可能なのだ。できるとすれば、高台からの襲撃による一撃。脚を振り下ろすことはなんとかできる。
そう推測して楓は短剣を上段から挑んだ。しかし、氷像の狼は振り上げる脚を持たないというハンデを、地面擦れ擦れで回転し――それも背中を地面に触れずに、腹を見せることで、氷爪での攻撃を真上に向けることを可能にした。そしてすぐに一回転し、元の姿勢へと戻った。
獲物を狩る上で身に付く技では無い。野生生物にとって、腹を見せることは死を意味する。そこには傷付いてはならない臓器が揃っている。ペットにおいては腹を見せる行為は服従の証である。
だから、自身の弱点を晒しながら攻撃に移るという氷像の狼の動きは、野生的とは言えない。つまりそこには、人間的な思考が混じっている。
「やっぱり、葵さんなんですね」
呟きつつ、心の動揺を抑え込む。
少なくとも骨格からして不可能だという思い込みを捨てる必要があるらしい。そもそも、狼ではなく“氷像の狼”だ。そこに葵の変質の力が混じれば、ひょっとすると四肢の動かし方だって骨格という枠組みを越えて来るかも知れない。四足だと思っていれば実は二足でも動くことができるのかも知れない。前脚は実は手として使えるかも知れない。とにかく、全ての枠組みを逸脱した感覚で挑まなければ返り討ちに遭ってしまう。
それでは白銀 葵の暴走を止められない。彼女の暴走を止めるのなら、彼女の中にある『慈善』の感情を取り戻してもらうしかないだろう。その感情に彼女自身が固執しているわけではないが、ディルという男は彼女のことをそう評していた。ならば、少なからず彼女も内側にあるその心を意識しているはずだ。
そういうほんの少しの意識で良い。その意識が膨れ上がり、止め処なく溢れる変質の力の暴走を止める自己の感情が芽生えなければ暴走は止められない。だから楓はケッパーの薔薇の種によって止めてもらったのだ。
自分が自分の力で止められなかった“喪失”の暴走。楓としては葵に正気に戻ってもらうことで、ケッパーや仲間たちへの罪滅ぼしになれるのでは思った。そんな上手い話でもないのだが、しかし、そうでもしないと自分自身が落ち着かない。なによりこのまま葵を放置し続けるという選択すらするつもりもない。
「散々、暴れ回ったあとは一緒に笑う。そういうスタンスで行きましょう」
楓は銀世界の主に向かって微笑みながら言い放つ。続いて銀世界の主――氷像の狼が動くより先に駆け出す。地面は凍り付いていて、少しでも気を抜くと滑って転んでしまいそうなほど足場は悪いのだが、楓は凍り付いた地面に靴底が触れた直後に『金』の再変質を行うことで、踏んだ地面だけ鉄板に変えて、足場に関しての一切の不安要素を排除しながら、移動を始めた氷像の狼を追走し、更には追い付いて今度は背後から短剣を振り下ろす。
振り返り、回転して腹を見せた直後に氷爪の一撃を振るうことで、この短剣を弾き、更に回転を続けて地面に着地し、続いて氷像の狼は口を大きく開いて咆哮を上げる。ユラユラと動く尻尾が三つ又となり、先端に変質の力が収束し、中空に鋭利な氷塊が三発生成されると、なんの合図も無く射出される。
「視線集中型の変質、というわけでも無い、ですか」
三つ又になった尻尾が空気に触れたことで変質を促し、氷塊として撃ち出したというところだろう。楓は右に走りながら氷塊を避けつつ、次の動向を窺う。
視線集中型の変質。それを使えるのは雅と鳴だけ。楓も葵も誠も、なにかしら――空気でもなんでも構わないが、とにかく手の届く範囲までしか変質の及ばない接触型。それでも変質後の物体や状態に至ってはある程度の操作が利く。氷像の狼もまた、氷塊を撃ち出す直前に楓の回避行動に合わせるように狙いを定めて来た。これは意思が無ければ起こらない。
というか、あの二人は接触型の変質もできる混合型で、明らかに突出した“異端者”なんですけどね!
頭の中で難しいことを考えてパニックになる前に自身でバッサリと切って、連続で撃ち出される氷塊を次々とかわしながら氷像の狼との距離を詰めて行く。
「なにがあなたを暴れさせているのか、教えてもらえるとありがたいんですが!」
ここぞとばかりに楓は地面を踏み締め、跳躍する。そして金属の短剣を鉄弓に変えて、空気中から矢を変質させて作り出すと、それを中空で氷像の狼に向けて撃ち放つ。強く引き絞るのならば地面に足を着けた方が良いのだが、楓が変質させたのは鉄弓であっても短弓。中空でもある程度は絞りが利き、また近距離なら速度も相当のものとなる。
氷像の狼が閉じていた“ヒトツメ”をゆっくりと見開いた。
「待っ、」
楓の言葉は届かない。氷像の狼が矢を睨んだ瞬間、矢が突き抜けようとしていた空間諸共凍て付いた。矢は氷塊の中央で留まり、完全に凍結し殺傷能力を失っている。
楓は中空で右足を氷に囚われ、動けなくなっていた。視線と視線が重ね合わされたわけではないが、どうやら氷像の狼の“ヒトツメ”は一直線上を空間ごと凍結させる力を秘めているらしい。
なんとも複雑な体勢で氷像の狼の危険性を垣間見つつ、楓は右足を捉えている氷を再変質させて屑鉄にすることで地面に降りる。
氷像の狼は唸り声を上げ、楓の着地際に口を開く。途端、彼女の直感が危険信号を放つ。しかし、その直感に応じて体を動かしたことが致命的なミスとなる。
苦笑いを浮かべている彼女に、問答無用の波濤が――視界全てを覆うほどの猛吹雪が氷像の狼の口から放たれて、そのあまりの冷気に体温は一気に奪われ、意識は混濁して行く。
「さすがに、直感で壁を張るという選択は、取れませんでした、ね」
直感的に回避しようとした。だから、猛吹雪を遮る壁を作るという変質は間に合わなかった。




