【-氷狼-】
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「十月は確か、秋でしたっけ……それにしてはこれは、少し困ってしまう景色ですね」
五月に雅と出会い、六月に『下層部』施設に乗り込み、八月の終わり頃に目を覚ました。そういった月日の換算をしてみれば、十月から十一月はまさに紅葉のシーズン。特に四季によって景色が頻繁に変わる日本という島国の秋は、山々に生えている木々が紅や黄色に染まり、絶景とまで言われる。紅葉狩りという言葉があったぐらいだ。昔はもっとこういった山道にも人々がやって来ていたに違いない。
しかし、秋特有の景色は楓の見ている向こうには一切無い。季節は秋、と楓は認識しているが、ひょっとすると冬と間違えているのではないだろうか。そのように感じてしまうほど、白銀の世界が広がっている。まさに境界線上に立っているのだが、前を見れば銀世界、振り返れば紅葉樹林。このあまりにも大きすぎるギャップに、脳の処理が追い付かなくなりそうである。
雪は降っていない。ただ地面は氷が張っており、一歩ずつ慎重に歩かなければすぐに滑って転んでしまいそうだ。
「妖怪なんて居ない、幽霊なんて居るわけない、お化けなんて見たことなんて、無い」
そうやって自分を励ましながら楓は境界線を越える。越えた途端に、体感温度が急激に下がった。慌てて絶対零度領域の外に出る。すると体感温度は元に戻る。つまり、この領域内に足を踏み込めば、外の空間と隔絶されるということだ。氷が張り付いた領域というわけではなく、空間にすら冷気の力が及んでいる。査定所の男性は体感温度はマイナス5度と言っていた。我慢できない寒さではないが、ミニスカートで来たことを若干ながら後悔してしまいそうだった。それが自分自身のアイデンティティであるのだが、さすがに肌を突く寒さは辛いものがあるからだ。
「ちょっとは和らげてくださいよ?」
ポーチから地図を取り出してから、楓は外套のボタンを留めて、フードを被る。そうして改めて絶対零度領域に足を踏み入れる。外套の前を留めたおかげで、晒していた素肌が守られ、寒さは和らいだ。これぐらいの寒さなら我慢して進めそうだ。強盗をやっていた頃の冬はもっと寒いところで寝泊まりをしていた。それに比べれば、外套で寒さを凌げている分、圧倒的にマシである。
地図を片手に、現在地を確かめる。コンパスを持っていないのは痛手であったが張り付いた氷から僅かに見える山道の形や坂の勾配などからすぐに自分の居る場所が分かる。地図の見方はケッパーに教わった。坂の勾配が線で表されていることは、何度も何度も聞かされ、学ばされたことだ。このおかげでコンパス無しで目印を定め、自身の現在地を見極める力を備えることができたのだが、習得するまでの数々のセクハラ語録を思い出してしまうため、ただただ溜め息しか零れない。その溜め息も、温度差によって白い塊となって空気に混ざり、消える。まったくもって季節と噛み合っていないその光景は幻想的であり、そして同時に酷く奇妙だった。
「吹雪いて来ました?」
ぽつりと声を零す。
楓の侵入をまるで空間が察知したかのように冷たい空気が頬を撫で、やがてそれは氷の結晶を交えた風となって吹き荒れる。
温度差からか霧も立ち込め、あっと言う間に周囲一帯は一メートル先ほどしか視認できなくなってしまう。これでは歩きながら地図で居場所を特定するのも難しい。方角も確かめてはいたが、目印となるものが無い場合の人の“真っ直ぐ進むこと”ほど信用できないものはない。経験則ではなく、直感的に下手に動き回れば更に絶対零度領域の奥深くへと迷い込むと感じ取り、半歩ほど身を引いた。先ほど見た地図で、現在地は把握している。ただし、問題はそこから無事に引き返すことができるかどうかである。
先に進めば迷い込めるのなら、このまま進んだ方が良いのかも知れない。
そんなことも考えたが、それで結果的に銀世界の主に会えるかどうかは不明である。この空間の主はそもそも会うことさえ拒んでおり、ただひたすらに迷わせて力尽きたところをそのまま空間の外へと放り出す可能性だってあるのだ。
人を傷付けても、殺しはしない。海魔ならば、そんなことはしない。ドラゴニュートならばまだ人に危害を加えない場合もあるが、しかし“狼”という証言がある以上、その可能性も無い。ならば、この銀世界の主は、一体どのようなものなのか。世界が産み落とした新たな生物なのか、はたまた狼が人のように使い手としての力を手にしたのか。
ヒトツメの狼。思い出しただけで、肌を撫でる寒さとは別の寒さで楓は身を震えさせた。
日本には古来より妖怪と呼ばれる生物なのか概念のような、神様とはまた別の存在が居る。人に悪さをする妖怪も居れば、人に良い影響を与える妖怪も居る。だとしても、良い影響を与える妖怪はそもそも妖怪として語られることは少なく、悪さをする妖怪の方がインパクトが強く、口伝であっても深く記憶に残りやすい。更には海魔が現れる前、人々の間で噂のように広がった都市伝説が加わり、それに登場する悪霊と妖怪の区別すら分からない存在が誕生し、これらが入り混じったせいで恐怖に拍車を掛ける。“一つ目”もまた妖怪の一種だ。鼻より上、額より下の中央に、大きな眼球が一つだけある。そういった妖怪を“一つ目”と呼ぶ。
想像するだけでも怖気が走る。とにかく楓はそういった怖い話が嫌いなのだ。幼い頃からずっと、その苦手は克服できていない。しかもこのことはケッパーにすら隠し通した。セクハラにさえ耐えていれば、とにかく別のことでケッパーは言葉責めをして来ない。だから、楓がお化けや怖い話が苦手だということは最期の最期まで知られることはなかった。もし知られていたならばと思うと、楓は別の意味で悪寒が走ってしまう。
外套を纏っていても、これほど吹雪いて来ると露出している肌は徐々に冷たさを痛みと捉え出し、両手は手袋を嵌めているのにかじかんでいる。更に妖怪や都市伝説のことを考えたことで内側も冷えて来て、さすがに参ってしまう。冬の寒さを知っていても、吹雪の中で生き抜いて来たわけではないのだ。まだ体が動く内に、引き返すのが正解だろう。しかし、ここで踵を返すという行為はあまりにも怖い。百八十度の方向転換が成功しなければ来た道を引き返すことができない。百八十度から僅かでも逸れれば、迷うことになる。それでも絶対零度領域の外側に向かって進むはずなので、結果的に引き返すことにはなりそうだが、体力をできる限り消耗せずに脱出を図るならば、自身がここに来るまでに記憶した目印になりそうな樹木を見つけることだ。ただし反転するならば右に見えていたものは左側に、左側に見えていたものは右側にあるということ。更には前後では見えていた樹木の形も変わっている場合があるということを考慮しなければならない。
楓が今日の調査を断念し、帰りあぐねていると、まるでそれを知っていたかのように、明らかに自然物では無い“モノ”が彼女の前に姿を現す。
吹雪の中でも“それ”は凛然と立ち、僅かな光を受けてギラギラと全身を輝かせている。
目の数は、一つ。瞼は開いていない。そして、姿形は楓が聞いた通りの、狼だ。
しかし聞いていない情報もそこにはあった。
「氷像の、狼?」
ギラギラと全身が僅かな光を反射させているのは、狼の全身が氷で出来ているからだ。刺々しいまでに揃った体毛も恐らく、氷で出来ている。
ただの氷像であるのなら、構わない。問題は氷像でありながら、こちらの様子を窺うかのように四本の足を用いて、歩いている。おかしいことに、歩いている。
妖怪やお化けの類とは異なる。これはもはや超常現象である。
楓は微笑を落とす。
超常現象であるのなら、怖がる必要も無い。この世界ではもはや超常現象など幾らでも起きている。“変質の力”という超常の力がある以上、驚くことではないのだ。
「あなたが銀世界の主ですか?」
楓の問い掛けに氷像の狼は答えない。そもそも答えることができるかは定かでは無い。言葉を認識しているかどうかも分からない。
しかし、彼女にはどこか確信があった。この氷像の狼は意思を持って行動しており、またこちらの言葉も認識している、と。
なにせこの力には見覚えがある。この力を行使していた人物と行動を共にしていた。ただ、ここまでの『氷』の力を持っていたとは思わなかった。
むしろ本人も気付いてはいなかったのかも知れない。“喪失”を経て、得た『氷』の力。けれど、彼女は――白銀 葵は決して異常性を見せることは無かった。
雅から聞いた話では「青み掛かった髪」が“喪失”直前に「黒く変色」し、“喪失”直後に「黒と白のメッシュに変わった」と聞く。つまり白銀 葵という人物は、“喪失”の影響が髪の色となって現れているだけだった。
更にこれはリコリスから聞いた話になるが、彼女の“喪失”直後の暴走は呆気無いものであったらしい。自分自身のように感情の爆発から周囲一帯の敵味方問わずに暴れ回ることもなく、『氷』の力を振り回し、直後に意識を失ったのだとか。
だとすれば、銀世界の主としてヒトツメの氷像の狼が幅を利かせているこの空間全てが、ようやくの白銀 葵の変質の力の暴走なのだ。眠りに落ちていた楓には、葵になにがあったのかさっぱり分からないが、とにかくあの葵が暴走に足るほどの出来事が起き、その後、このように力は収まることもなく暴走を続けている。暴走を止めるのは、その暴走以上の強い力だと自分自身に起きたことから推測できる。楓の暴走はケッパーの薔薇の種によって止められた。そこから考えて行けば、誠が“喪失”したならば恐らくは『竜眼』とナスタチウムがストッパーとなり、鳴や雅に“喪失”が起きたならば、ジギタリスやディルがストッパーになるだろう。
リコリスもまた葵のストッパーとなるべく、なにかしらの動きを取っていたのだろう。しかし、どうやらそれが上手く行かなかったらしい。あの飄々とした女性の、想定し得ない行動を葵が取ったのだとすれば、それも有り得るのかも知れない。
「どちらにしたって、全て想像の話になってしまいますけど」
氷像の狼はグルルと唸り、見れば両前足の爪は鋭く伸び、葵のように氷爪で武装をしている。爪の大きさと氷像の狼の体躯では釣り合いが取れていないようにも見えるが、重みも動きにくさも感じていないかのように楓に今にも襲い掛かりそうな具合で歩き回っている。無論、爪は銀世界の地面を抉りながら、ではあるが。




