【-無垢な町-】
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起きろ、と言われて横になって眠っていた少年は冷水を浴びせられた。夢の世界から現へと一気に引き戻された少年は跳ね起き、直後に伝わって来る水の冷たさに全身を震わせる。
「さっさと着替えろ。警備に行くぞ」
冷水を浴びせた少年が心底、嫌そうな顔をしながらツェルトから出て行く。それを見送ったのち、少年――小野上 誠はくしゃみをしたのち、外に出る。物干し竿に干してあった衣服を回収し、それに着替える。そして冷水で濡れてしまった服をまた物干し竿に干して、続いて先ほどまで眠りに落ちていたツェルトの中を除く。水浸しのツェルトでは、さすがに食事を摂る気にもなれない。誠は溜め息をつきつつ、自身の荷物を外に放り出して、ツェルトを畳むと同時に溜まっていた水を吐き出させる。これも日当たりの良いところに干し、風で吹き飛ばないように近場の石で押さえる。ここ最近、日当たりの良い日など皆無だが、衣服もツェルトも干さないよりはマシなのだ。たまには晴れる日もある。連日の快晴もここ最近、あった気がする。あれは雪雛 雅に会うよりもっと前だっただろうか。
過去の想い出に浸りつつも、誠は身支度を終えると自身の荷物の中に入っていた林檎を齧り、それを片手に歩き出す。この林檎はこの町で収穫されるものだ。『木使い』の力で成長した木々はほぼ毎日、果実が取れる。この加護により、雨が降ろうとその果実は食べられるものとなっている。それが町に訪れ、片隅で生活をしている誠の手にも渡っているのは先ほどの少年のおかげ、ではなく、やたらと気に掛けてくれる少女のおかげである。
しかし、『木使い』の育てた木はあっても、ここに使い手は一人として居ない。正確には誠以外、使い手も討伐者も居ない。全員が力無き一般人なのだ。それでも大地は腐らず肥沃であり、防雨対策を取った屋内での畑仕事を生業にしている人も居る。家畜もまた、屋内で育てられ、『穢れた水』に触れることは一切無い。町人の数も少なくもなく、そして多くもなく。即ち、絶妙にバランスの取れた人数比によって、この町だけで自給自足の生活が取れている。
純粋な、この世界に似つかわしくない、この世界にあったであろう光景がこの町では広がっている。ただし、町の周囲にはダム近くの都市と同じように堅牢な石造りの壁が建てられているため、良い景色を見ることは敵わない。むしろ、この世界で良い景色などあるのだろうかと甚だ疑問である。
この町はナスタチウムが地図で示したところにあった。肝心のナスタチウムは誠の目の前で肉体の再生能力が限界に達し、骨となって殺された。そのあと、ドラゴニュート――アジュールもまた殺された。その二人を殺した相手はスルトという海魔だ。以前の名は『バンテージ』。翼を持たないドラゴニュートが憤怒と復讐に心を燃やし、進化したことで手の付けられない化け物となった。だから二十年前の生き残りのナスタチウムでさえ、敵わなかった。同族のアジュールでさえ赤子の手を捻るかのようにあしらわれた。
そのあとのことを誠はあまり憶えていない。体の内側から溢れ出るなにかに囚われ、そして気が付けばスルトを彼方へと殴り飛ばしていた。その言葉にできない溢れ出る力に振り回されながら、ナスタチウムの言った通り、この町へと至ったのだ。
純真で純粋で無垢で無邪気で、そして“無意味”や“無能”とさえ言われる一般人だけの町で、あの男は誠になにを教えたかったのか。ここに到着してしばらく経つが、未だその教えを見つけることはできない。
溢れ出る力は息を潜め、今は非常に安定している。しかし、心が安定しているかと問われれば、それは難しい。それでも、あれだけ迷惑を掛け、迷惑を掛けられ、そして共に歩んで来た道のりの果てで、ナスタチウムの骸を海魔に弄ばれることなく、このような辺境の地ではあれど埋葬することができたことが誠に生きる力を与えている。一度切りの恩返しとなってしまったが、それでもなにも恩を返せないまま終わるよりはマシだろう。そして、アジュールのことは諦められていない。まだどこかで生きているのではと、虚しくも一縷の望みを抱いている。
そんな望みは、どうせ打ち砕かれると分かっていても、捨て切れない。それが自身の弱さであるのなら受け入れようとも、考えている。
それを否定されてしまえば、全ての人間は希望を抱いてはならないのか? という禅問答に発展してしまう。ちっぽけであれど、無駄なことであれど、希望のようなものを抱いていれば、取り敢えずは気分も安らぐのだ。
「こんなところで、ナスタチウムは僕になにを教えたがっていたんだか……」
誠は町の隅から警備隊の集まる詰所に向かいながら呟く。
現状、なにも分からない。こんなところに居るよりも雅たちと合流した方が良いのではないかとすら思う。ただ、得るものがなにも無かったとまでは言わないが。
詰所では今日の見張りの当番が告げられ、次に時間のある者は訓練に移される。誠も例外では無い。この町に来て、ナスタチウムに起こったことや自身が討伐者であること、それらを全て明かしたあと、答える間も無く警備隊に入らされた。それほどこの町には海魔に対する防衛力が無いのか、と肩を竦めたのだが、これが大いに間違いであることを知らされた。
「ダラしがないな、お前は」
訓練相手の少年は誠を貶し、更には木剣の切っ先を尻餅をついた誠の首筋に向けながら言う。
この警備隊に所属する者は、ただ一人を除いて誠よりも弱い。実戦経験を伴っていない木剣での打ち合いで負けることはまず無い。たどたどしい足運びに、どこか恐怖に慄いている剣戟は当たらない。
だが、この少年だけは――誠にわざわざ冷水を被せて起こしに来た少年は別格である。木剣の振りは素早く、動きの全てに乱れが無いどころか迷いすら見えない。打つと決めたなら打つ。下がるときは下がる。その判断力と、それに見合う反射神経に運動神経を持ち合わせているため、誠の木剣がまるで当たらない。当たらないどころか切り返され、逆に隙を突かれてしまう。だから今日の訓練もまた、この少年にやられてしまった。
「やり過ぎは駄目だよ、悠里)」
「負けた方の肩を持つのが好きだよな、美優は。まぁ、この男のどこに惚れたんだか分からないが、程々にしておかないと噂も立つぞ」
「なに言ってんの?!」
宮里 悠里は木剣を引きつつ、近場の木製のベンチに座っている桜井 美優に茶々を入れる。
美優は医療従事者である。訓練であっても酷いときは骨が折れることもある。裂傷を受けることもある。そういった怪我を治療するために彼女のような医療従事者があと四人居る。この町全体では計二十人に及ぶらしい。
繰り返すことになるが、誠はこの町に入ってしばらく経つが、悠里と美優の間に恋愛関係なるものは成立していないらしい。幼馴染みであり、同年齢であるにも関わらず互いに興味を持たずに接しているその様は、なんとも外の世界とは違い過ぎて笑いすら零れるほどだ。
「なにを笑っている?」
「君たちって本当に珍しいと思って」
美優は、自身が一緒に行動していた少女たちと比べれば少し見劣りするかも知れないが、年相応の可愛らしさや可憐さを持ち合わせている。性格も自身の知っている四人より断然まともである。そんな幼馴染みに恋愛感情ではなく友情で繋がっている悠里と美優の精神は誠にしてみれば、お子様なのだ。だが、そのお子様な精神の持ち主に、剣術でも体術でもまるで歯が立たないのは、笑い話では済ませられない。
「私たちにしてみれば、あなたの方が珍しいんだよ? 討伐者なんて、ナスタチウムさんが連れて来たことが一度か二度、あるぐらいなんだから。言っても、私たちが産まれる前の話なんだけどね、それは」
「そのナスタチウムさんの鍛えた男だと聞いたから、どれだけ強いものかと思ってみたら、俺より弱いなんてな」
理由はある。誠にとって剣とは、手に吸い付くものなのだ。なにより重量というものを感じない。『光使い』である彼は陽光と月光を収束させることで剣戟と打撃を使い分ける。少なくとも、体感では光に重みは無い。だから振れば疾風、守れば絶対の防御となる。だが、木剣を使った訓練となると、剣戟の速度は筋力に依存し、更に重量のある剣の素振りなど碌にしていなかった誠は、どうにも思い通りに木剣が触ることができないのだ。
だが、それは討伐者としての言い訳になってしまう。一般人と同じ土俵で戦った場合、こうして負けてしまうのは事実なのだ。
「ま……僕なんてそれぐらいちっぽけな人間ってことだから」
「そんな言葉で終わらせるな。さっさと立て。次はボクシングだ」
言われるがままにヘッドギアとマウスピース、グローブを着けさせられ、悠里と対峙させられる。スポーツのボクシングは知識として入っているが、このヘッドギアもマウスピースも、グローブでさえ急ごしらえな上に、自身が知っている物よりはるかに見劣りする。だが、これでここに居る町の人たちは体術を鍛えている。郷に入れば郷に従えという諺がある。だから誠も無碍には断れない。
その結果、悠里の容赦の無い拳を絶え間なく受けて、見事にノックアウトされる。
「本当に弱いな。全く上達する気配が無い」
「あのねぇ、町一番の荒くれ者なんて言われて、暴れ回っていた悠里にそりゃすぐには勝てないでしょ。そもそも、小野上さんはこのボクシングに関しては素人みたいだし」
剣術の方はしっかりと動けている印象だし、と美優は付け足す。
「少なくとも俺を倒さないと町の人も美優との交際は認めないぞ?」
「だからなに言ってんの!?」
「隠しているつもりなんだろうが、俺にはバレバレだ」
美優の反応を見ても悠里は極めて冷静である。その言葉に、態度に裏があるようには見えない。本当の本当に、彼は美優をなんとも思っていないらしい。だからと言って、彼女と自身を無理やりくっ付けるような発言の数々は頂けない。
「ほら、さっさと起きろ」
悠里に腕を引っ張られて、誠は強引に起こされる。
「まずダッキングを覚えろ。相手の拳や進撃に対して前屈みに進んでかわす技だ。下がり間合いを空けるのではなく、間合いを詰めながら避ける。このダッキングは回避の一種だが、転じて反撃の一手にもなる。だが、反撃を考えないダッキングは相手にとって的が自分から近付いて来てくれたも同然だ。だから、拳をかわしたならすぐに殴れ。ボクシングのルールじゃどこまで有効かは知らねぇが、これはボクシングを模した拳術の訓練だ。だから、なにをやっても相手をぶっ倒せば、勝ちになる」
要するにボクシングには似ているがそのルールに準拠はしていないという話であり、この訓練においては極端な反則行為――グローブの中に石を忍ばせるなどが無い限り、なんでもありなのだ。よって、このボクシングには蹴りも存在する。ここまで来るとキックボクシングに近い。だが、打撃格闘術を学ぶのにこれ以上無い訓練でもある。
「使い手じゃないただの一般人に負けたと言ったら、みんな笑うんだろうな」
あの四人の少女は容赦が無い。特に誠に対して優しさの欠片も向けては来ない。それは逆に言えば、男としては信用してはいないが仲間としては信用しているという意味にも取れるのだが、それでも少しは異性として頼ってもらいたいという意思があるのが男である。なので、こんなところで一般人に叩きのめされていると知れば、あの少女たちは散々に誠を罵るだろう。罵るだけ罵り、対処法について語り出す。それくらい、戦いに毒されている。ナスタチウムは狂人であったが、あの四人も戦いについては常に限界に挑む。
特に雪雛 雅は誠から見ても怖ろしい。彼女の中のなにがそこまでさせるのか分からないが、海魔との戦いではあれほど頼れる前線で策を練る討伐者も居ない。ついでにディルという人間以上海魔未満とも言えるような化け物に鍛えられている。ドMと思うほどだ。痛いのなら素直に痛みにもんどりうっていれば良いのだ。なのに、雪雛 雅は痛みの中で学び、学んだことを痛みに苦しみながら実行する。
誠とは真逆である。陽光に月光の鎧を纏うことで斬撃や打撃から身を守り、痛みを拒む戦い方をしていたのだから、当然と言えば当然なのだが。
そして今、それらの力を使わないことで痛みを知ることとなっている。他の討伐者はこれ以上の海魔の攻撃による痛みと立ち向かっていたのだと思うと寒気が走る。
産まれ持った力に頼り切りであったことを痛感する。才能に胡坐は掻いてはいなかったが、力には溺れていた。自分はこの力があればともかく、痛みとは無縁のまま戦えるのではないか、と。それも全て砕け散ることとなったのだが。
「続けよう、悠里。君の拳が、蹴りが、僕の糧になる。ただ、骨に影響が無い範囲で頼むよ」
ナスタチウムは言った。自身の戦いにおける変質は一工程、無駄があると。
それともう一つ、スルトの溶けた鉄のような熱を込めた拳に対抗する手法についても、高めて行かなければならない。これは警備隊の訓練が終わったあと、町の隅でひっそりと研究することだ。だからこの場で、力の変質は行わない。
戦いは常にフェアに。今までがアンフェアであった自らの戦いを、一度リセットする。だが、これがナスタチウムの伝えたかったことではないような気がする。これはこの町に来ればすぐに分かることだからだ。そんなこと、わざわざナスタチウムが誠を町に赴かせてまで気付かせることではない。むしろあの男は酒に溺れた暴力性を備えていたため、手合わせと言う名の暴力で教えて来たはずだ。
ナスタチウムの言葉の真意は未だ見えない。
「ボコボコにされるのが好きとは、また稀有な性癖の持ち主なんだな」
「そんな性癖を持っているつもりはない」
警備隊の中で一番の力を持っている悠里から打撃格闘術を体で教わる。それは今後、誠の変質の力において、一工程省いた戦い方をする際に必要となる。
だからどれだけ打ち込まれても、どれだけ叩き込めなくとも、どれだけボコボコにされようとも、その動きを、その拳を振るタイミングを、打ち込む箇所を目で、そして体で、吸収するのだ。雪雛 雅のように際立って痛みの中で成長はできないが、自分のできる範囲で真似て行く。真似なければならない。自分の戦闘スタイルを持つことは良いことだが、変質の力にかまけていたことで本来、学ばなければならないことから目を逸らし続けていた。それを知って行かなければならないのだ。
あの溶鉄の海魔と戦うと決めたのだから、嫌でも立ち向かう。
ナスタチウムのためではなく、自分自身のために彼の者に打ち勝つ強さを、求めている。




