【プロローグ 03】
「三等級海魔の報酬は、幾らぐらいだ? 憶えてねぇな……リィに訊くしかねぇか」
「あ、の!」
雅は我に帰り、頭を下げる。
「助けて頂きまして、ありがとうございました」
「はっ?」
男はグローブを嵌めた手をフィッシャーマンの胸元に突き立て、グチュグチュとなにかを弄りながら、「なにを言っているのか分からない」といった具合の表情を作ってみせた。
「言っただろ。フィッシャーマンは得物の使い方を覚える。仲間にそれを教える。俺が宙に投げ出されたのは短剣を釣り針にしていたからだ。テメェがフィッシャーマンにみすみす渡すことになった短剣のせいで、だ。使い方を覚えたフィッシャーマンだから始末した。ただのフィッシャーマンなら、放っておいた」
「でも、土の壁で守ってくれました、よね?」
「責任逃れをされるのが一番嫌いなんだよ。テメェがやった、だからテメェのせいだ。テメェも討伐を手伝え。ただ、それだけのことだ」
グチュリと男がフィッシャーマンの体内から、その心臓を引き摺り出す。腐った海と同じ色を携え、心臓は微かに脈打っている。
「そう……です、か」
「テメェはそこに転がっている水の入ったボトルをさっさと回収しやがれ。でなきゃ、誰かに盗まれるぞ」
忘れていた、とばかりに雅は俯かせていた顔を上げ、急いでボトルの回収に向かう。幸いにも水は漏れていない。頑丈な作りになっていたボトルに感謝するものの、もう少し利便性の面での向上を求めたくて仕方が無い。
「あの」
「まだなんかあんのか? 言っておくが、報酬の分け前なんて考えてねぇからな。そんな都合の良いようにこの世の中、回ってねぇから」
言い出そうとしたことを先回りして言われてしまい、雅は押し出そうとしていた言葉を慌てて呑んだ。そのせいで唾が気管支に入り、軽く咽る。
「ディル」
呼吸を整えている雅の横を少女が通り過ぎる。どうやら、この少女は雅にではなく、あの男に独白のような声を零したらしい。
「リィ、三等級海魔の報酬は幾らだ?」
「……分かんない」
首を横に振って少女は答える。
「なら、今日はおあずけだな」
少女はピクッと眉を動かしたのち、クルリと振り返って雅を見つめる。
「……あれのこと?」
「あれは人間だ。喰うな」
「へ……?」
雅には二人の会話の主旨が理解できない。そもそもこの二人の関係性が見えていないのだから、会話そのものを理解することが難しいのは当然のことなのだが、僅かばかりであるが命の危機がそこにあったのだと感じて怖気が走った。
「三等級海魔の報酬がどれくらいか教えれば、そこに転がっているのは喰って良い」
男がそう告げると、少女は目を爛々と輝かせて両手を大きく左右に広げて喜びを表現する。
「水は一週間分。お金は海魔の種類によって変わるけれど、三等級海魔の日本での報酬額はおよそ十万から二十万円」
「シケてんな。西欧なら五十万は出してくれるぞ」
「ねぇ、教えたよ? だったら、食べて良い?」
「ああ、リィの好きにしろ。心臓さえあれば、討伐証明になる」
男はフィッシャーマンの心臓を汚れた皮袋に乱雑に放り込んだのち、亡骸を片腕で抱えて少女の方へと投げて寄越す。
「頭はどこ?」
「その辺に転がっている。自分で探せ」
「分かった」
グチュルグチュルと奇怪で奇妙な音を立たせながら、少女の骨格が変貌を遂げて行く。着ていた服はズタズタに裂け、首から下――両腕間にある鎖骨と胸骨付近に大きな大きな“口”のようなものが開かれた。
そして、男が投げて寄越した海魔の亡骸を蛇のように丸呑みにした。咀嚼音は聞こえない。ただし、変貌した骨格と合わせて変質した皮膚の一部、機能として裂けた部位からは海魔の亡骸が保有していたであろう穢れた水が流れ出て、血液とも呼べないヘドロのような腐った臭いを発するそれもまた放出される。亡骸を丸呑みにしてずんぐりむっくりとした格好のまま、少女――とは呼べない謎の生物はズルズルと体を引き摺りながら雅の近くまで寄り、そこに転がっていた海魔の頭を、やはり首から下にある口を開いて、丸呑みにした。
声は出せなかった。出ていたのかも知れないが、聴覚が機能してくれなかった。とにかく雅はその一部始終を見物させられることになり、得体の知れない生物がすぐ近くに居ることに、たまらず駆け出す。
駆け出して、足を縺れさせて前のめりに転ぶ。
「あいつのことを喋ったら、殺すぞ」
男が転んだ雅に向かって耳元で囁く。
「知って……知って、る! あれ、あれ!」
「フィッシャーマンの習性は知らなかったクセに、あいつは知っているのか」
当然だ、とばかりに雅は顔を上げた。
査定所でもよく注意喚起が行われ、渡される資料にも詳しく載せられている。何度も何度も耳にして、そんなモノが本当に実在するのかと存在すら疑っていた。その存在をここで見せ付けられる結果になったのだが、込み上げて来るものは喜ばしいこととは掛け離れた感情だ。
「特級海魔のギリィでしょ!? 人の皮を被った海魔!!」
一等級を飛び越えた先の海魔は人に擬態する。ギリィ、フェイク、ファニー、ラビットウルフ。呼び方は様々だが、この男が「リィ」と呼んでいる限り、あの海魔は特級海魔の「ギリィ」に間違いないだろう。
ならば、この男はなんだ。思考は更に加速する。特級海魔と一緒に居るということは、この男も海魔なのではないか。疑心暗鬼が情報のなにもかもを閉ざし、雅は奇声を発しながらその場に蹲った。
夢であってくれ。
こんなものは夢なのだ。
そう強く願いながら瞼を強く閉じた。
「ディルが、人を助けるなんて珍しい」
「助けたんじゃねぇ、居合わせたんだ。この道を歩いていたら、碌に現実を見ようともしていやがらないクソガキが三等級海魔如きに面倒臭ぇことを吹き込んでいやがったからな」
夢ではなかった。当然だ。雅はただ瞼を閉じ、現実から逃避しただけである。そんなことで周囲の環境が一変するようなら、今までの苦労と、死を覚悟してまであの気味の悪い生物と戦って来た日々が無駄になってしまう。
それでも、夢であって欲しかった。戦って来た日々など、充実してはいない。ただ生徒であった頃に戻れていたのなら、どれだけ幸せだったかと願うばかりだ。
「もう、嫌。なんなのよ……なんで、どうして、こうなって……あ、は、はははっ」
遂には精神すら病んでしまったかのように、この状況に似合わない笑みと声が漏れ出てしまった。
「おい、クソガキ」
「やめて! 近寄らないで、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!!」
連呼して、逃げようとするがもう足には全く力が入らない。緩み切った筋肉はもう動かせるようになっていたはずなのだが、今度は恐怖が臨界を越えて脳からの伝達が筋肉に上手く伝わっていないらしい。
「……ディル、そうやって人を怖がらせるの、良くない」
「怖がらせてんのはどっちだよ。おい、クソガキ!」
男が強引に雅の腕を掴む。そうして無理やり立たされたのち、両の目でハッキリと確認できるほどの距離に海魔討伐者の証明書を見せ付けられた。
「人……え、本当に、人間、なの?」
この証明書の発行にはたくさんの審査が必要になる。まずは書類での審査が行われ、次に面接による審査。果てには全裸での身体検査も条件にある。中学を出てすぐに雅には、その全裸の身体検査は苦行以外のなにものでもなかったのだが、そうでもしないと特級海魔の擬態を見破れないのである。どうやらどれだけ人間に骨格を似せて、人間の皮を被って擬態をしても、海魔特有の特徴が出るらしい。その特徴については秘匿事項であり、雅もまた知らない。
ともかく、審査を全てクリアしたのちに発行される証明書こそが討伐者としての証であり、また人間としての証明にもなる。むしろこの証明書を持っていない一般人に注意しなければならないとすら言える。それほど、男と雅が持っている証明書は絶対なのだ。
「偽造ができないことぐらい知っているだろ」
その通りであり、雅は肯くことしかできない。
証明書は能力の証明でもある。どの能力が発露したかを他者に口頭で伝えることが憚られる場所では、証明書による確認が行われる。力の奔流を送り込むと、証明書の裏側にある五芒星の点灯する。この構造は特権階級も知り得ない、また別の機関による代物だ。
ただし、雅のような異端者の場合、五芒星は光らない。代わりに描かれている五芒星の外側にある点が光る。
「なに、これ」
ただし、だとしても見慣れないことだって起こり得る。
たとえば証明書に描かれている五芒星の点が全て光を発しているなど、雅は今まで見たことがない。どのような人間でも、扱える力の限度は二個、運が良くて三個などと言われている。にも関わらず、男の点は五つ全てが点灯しており、それを線が結ぶことによって綺麗な五芒星を作り出している。
一つではなく、二つ。二つではなく、三つ。三つではなく、四つ。四つではなく、五つ。即ち、この男は木火土金水の全てを自在に操る使い手であることを示している。
ならば、土を金属に変え、海魔の涎を清潔な水に変質させ、短剣の柄に火を灯させて推進力を与えたあの全てに合点が行く。まだ『木』を見てはいないが、だとしても五つの点が光っているのだから、使えるに違いない。
「信じらんない。デュオまでなら見たことがあるけれど、クインテットだなんて」
使える能力の数には総称がある。ソロ、デュオ、トリオ、カルテット、クインテットに、異端者と呼ばれるノーワンモアを足した六つだ。ソロが大半を占める使い手の中で、この男はその頂点に君臨している。痛め付けられた醜悪な容貌も、その高すぎる能力ゆえの代償にも感じられた。このような使い手は引く手数多だ。どんなところにも駆り出され、どんな戦いであっても突貫を迫られるに違いない。頼りになる存在ではない。ソロの使い手が、討伐者が楽をするためだ。一人でなんでもこなせるのなら、雅だってなんでも任せてしまいたい。そんな思いが雅だけのものではないのだ。
「うるせぇ、クソガキ。風のノーワンモアなんざ見たことがねぇし、使えるのか使えねぇのかよく分かんねぇ能力で討伐者になるなんて、馬鹿の極みだな」
「だって、そうしないと生きることができないじゃない、この世界」
「……まぁな」
男は初めて雅の言葉に肯き、そして腰に据えていた鉄棒を引き抜くと、ギリィ目掛けてそれを叩き付ける。
「いつまで味わってんだ! さっさと皮を被り直せ、このポンコツが!」
数度、鉄棒で叩かれたギリィが奇妙な呻き声を上げる。ずんぐりむっくりだった体が徐々に萎み、首から下の鎖骨と胸骨より裂けていた大きな口がまず皮膚の下に隠れて消える。その体躯の至るところにあった裂け目は閉じられ、次に変貌した骨格を元通りに――この場合、海魔から人間へと擬態するのだから元通りという表現は実に不適切であるが、しかしそれ以外に表現のしようがない。ゴキッバキッといった擬音で示すしかない骨格の再生を伴い、見た目、半裸ではあるが少女の姿となる。
「食べて良いって言ったの、ディルの方」
「あのままの姿で居ろとは言ってねぇ。だが、今日はこの海魔の報酬で、一応は生きられそうだ。行くぞ、リィ」
「ちょ、こんな格好の子を歩かせるなんてなに考えてんのよ!」
言いながら雅はリィに上着を被せる。
「そいつを人間扱いするな」
「けど!」
反論しようとする雅を無視して、少女が男の元へと駆けて行く。しかし、上着を被せてもらった恩義を感じているのか少女は雅をジッと見つめたまま動かない。
「クソガキの施しを受けたって、なんの得にもならねぇ。放っておけ」
男は構わず査定所へと歩いて行く。
「……分かった」
少女は雅に向かって小さく会釈をしたのち、男の背中を追い掛けた。
「なんなの、あれ」
一人ぽつねんと佇むことになってしまった雅は、異常な二人に向かって独白する。だが、ジッとしている場合ではない。
どうにか使える台車を起こし、転がっていたボトルを載せて、家路に向かう。ただし、今日一日だけを生き永らえることはできたとしても、明日には生きているかは分からない。