【-基準-】
「いつまで避け続けていられますかねぇ。僕はずっと、変質を続けさせられますよ」
逃げているだけでは限界がある。地面に手を当てて、石柱を次々と地面に潜ませている姫崎に攻撃し、その変質を中断させなければならない。でなければこの断続に突き出して来る石柱を止める手段が無い。
しかし、地面に触れれば石柱が突出する。それが分かったなら、逆に試してみたいこともできる。走っている最中、一点に集中するのは難しく、移動しているせいで狙ったところの空気を変質させるのも一苦労だが、まず一つ作り上げた。
物は試しにと、跳躍して、変質させた空気を踏み付ける。恐怖は無く、また不安も感じなかった。雅の体は斜め上へと風の力で押し上げられた。さながら不可視のジャンプ台。それも踏み付けた力に関係なく一定まで空中へと逃がしてくれる極上の代物だ。
「ここ!」
空に一点を付けるのはとても難しい。晴天だろうと曇天だろうと、空は見つめていると距離感を損なわせる。地面を見る余裕も、そこに混じるはずの景色も視界の外にある。
それでも基準――自らが空気のジャンプ台によって到達し得るだろう限界点に見込みを付けられたのは右手で指差すことができたからだ。右手に持つ短剣を逆手に持った。人差し指程度ならごく短時間なら動かしても手からは落とさない。そしてなにより、逆手に持っているからこそ、短剣の柄以外が視界において邪魔にならず、指差した箇所がとても分かりやすい。
体で空気の変質を受けるのではなく、短剣を持っている両手で受ける。雅の体が緩やかな速度ではあれ、地面へと跳ね返される。しかも手で触れたため重心が一気に反対へ、先ほどまで空を見ていた視界が地面に向いた。中空で引っ繰り返った雅はそのまま、ほぼ真下に居る姫崎に剣戟を繰り出した。
「空中で方向転換ですか。面白いですが、まだまだっ」
姫崎は雅が到達する地面から手を離し、飛び退いた。よって、短剣は空を切るだけに留まり、更には着地のことを考えていなかったため、雅は激しく体を地面に打ち付けることになった。特に腕の痛みが酷い。いや、腕から行ったのが良かったのかも知れない。頭から行けば、首にそれなりのダメージが寄ったはずだ。そうなれば動けなくなる。しかし、腕であればまだ動くことができる。
傍から見ればただの自滅で、姫崎もその滑稽さに噴き出して、おかしく笑う。
「なぁにやってんだ、クソガキ」
海竜の口元に張り付き、リィを元に戻そうとしているディルが呆れ気味に放った言葉が耳に届いた。
起き上がり、雅は切れた唇から垂れた血と唾を拭う。
瞳は敵である姫崎を捕らえ、吐いた呼吸は思ったよりも整っている。その後、朗らかに笑みを零す。
「頭でもイカれてしまったんですかねぇ? なんでこの状況で笑うんですか? どうしてそんな失敗をして笑っていられるんですか? あそこの死神さんと、頭の中まで一緒くたになってしまったんでしょうか?」
言いつつ姫崎は雅に向かって駆け出し、石剣を容赦無く振るう。速度は遅い。大した速さではない。ストリッパーの両手による剣戟に比べればずっとずっと遅い。
だから、軌道は読め、多少の腕の怪我をしても両手の短剣だけで捌いて行ける。受け止めるのではなく、石剣に込められた力を外に外に流して行く。でなければ短剣で捌くなんてできやしない。
この動きは全部、ディルから教わった。体術も、避け方も、受け方も、流し方も全て。けれど先ほどの挑戦は、自分自身でやったことだ。
空気を踏み付けて飛び上がり、そして更に自分自身を反射させて地面へと戻る。この一連の流れは、自分自身の力を用い、試し、実行し、達成させたことだ。
「ああ! しつこい!」
腹立たしげに怒鳴った姫崎が空気中の水分に触れて収束させ、それらを水滴に細かく刻み、目潰しの如く撃ち出す。
それを雅は空気を変質させて、跳ね返す。変質させた力はその本人に強い影響を与えることはない。『火使い』は自身が出した炎を浴びても火傷になりにくい。けれど、なりにくいだけであって、火傷することだってある。同じように、どの五行に属していても自らの力に強いだけであって、他者の力で傷を負うことは普通なのだ。
だとすれば、『水使い』の水は実に不遇である。『木』であれば跳ね返しても伸びて来る、『土』であれば跳ね返しても地面が凹むだけ。なのに、『水』はそうも行かない。
放たれた水滴全ては、無論、放った本人に返る。そしてそれは、人に“無害である水”であるからこそ、姫崎にとっても目潰しとして機能する。眼球に突然、水滴が当たれば誰であれ瞼を閉じる。
「濁流や地滑り、あとは葵みたいに特質性があったなら、あなたは有効に使うはずですから」
言いながら雅は、水滴を浴びて瞼を閉じた姫崎から離れて、右手の人差し指で“一点”、“二点”と方角を差して行く。
姫崎はトリオだが、『木』と『土』を得意とするものの『水』をそれほど得意としていない。『水使い』として力を発揮したのは、男を串刺しにしたことと、先ほどのような目潰しに使ったときだけ。それ以外は『土』と『木』を基点にして雅に攻勢を取っていた。
偏りは、受ける側にしてみれば分かりやすく、そして安心できる。これで、挑発するように言ったように濁流でも引き起こされていたら、雅には反射することもできなかった。もし反射しても、それは姫崎が引き起こした力なのだから、濁流の中で悠々と立っていられただろう。
「僕がその程度のこと、できないと思っているんですか?!」
恐らくは、最も気にしていることを雅が指摘したことで姫崎は激昂した。そして、瞼を開いた。水ではこれが限度だろう。砂利でも入れればもっと長い間、相手の動きを制限させられることは、ディルに砂利を浴びせられてから分かっていることなので、できれば『土』で目潰しをしてもらいたかった。しかし、石柱に石剣と力の方向が土関連より、土に混じる石や岩の変質に偏っているので、それが期待できなかった。
思いつつも、雅は“三点目”を右手で差す。と、地面から石柱が突き出した。見れば姫崎が地面に手を当てている。
ギリギリで避けるが、服の左側がゴッソリと削られてしまった。女の子としては恥ずかしいことこの上ない格好になってしまい、思わず片手で破れたところを覆ってしまいたくなった。そして左脇腹に少しばかり裂傷を負ってしまったらしい。ジクジクとした痛みが伝わって来る。
「できるとは思うけれど、それを行うには時間が掛かる。そうじゃないの?」
喋るのは時間稼ぎのためだ。“四点目”を指差す。ここまで来ると、集中力も切れてしまいそうになるが、恐らくは狙い通りにはなっているだろう。
「たった一つの力しか使えない、摂理に属する異端者風情が、この僕を馬鹿にして!」
石柱を避けた絶妙のタイミングで、雅に姫崎が石剣を振るった。左手の短剣で受け止めるが、流せない。ついでに先ほどの実験で腕を地面に激突させたことも祟って、短剣を取り落としてしまう。しまうが、一刀両断されることはなんとか免れた。短剣を落としてしまったのは痛いが、このままこの場に居たら切り刻まれる。雅は命からがらといった具合に、その場から駆け出す。石柱が止め処なく地面から突出して、まるでそういった生命体に後ろから追い掛けられているかのようだ。
「逃げてばかりじゃ話になりませんねぇ」
今度は触手のように伸びる木の根が雅を捕らえようとする。止まれば石柱の餌食になり、走り続けていればいずれ木の根に捕らえられる。問題は、それが同時に起こってしまった場合だ。拘束された場から石柱が突出されると、真下から串刺しになる。
「だから、ここは弾く」
“五点目”を指差す前に前方すぐ下を指差して、空気を変質させた隣を踏む。突き出た石柱が空気圧の反射を受け、地面の中で反転して炸裂したのか雅を中心にして辺りが一段ほど凹んだ。すかさず翻り、五点目を指差して木の根から逃れるためまた走り出す。
「く、くくくくっ、打つ手無しって感じですかぁ?」
雅が右往左往に逃げ惑う様を見て、姫崎は余裕を取り戻したのかニタニタと笑っている。その余裕をもうしばらく抱き続けておいて欲しいと願いつつ、準備を整えた雅は仕上げに入る。
「あとは、もう一度!」
地面擦れ擦れに不可視のジャンプ台を作り、それを踏み締めて飛び上がる。




