【-アルガス Lost-】
「そうだよなぁ、こういう世界だよなぁ……ここはよぉ!」
言いながらアルガスは岩の拳で人間の頭を粉砕する。
ダウンタウンで生きて来たアルガスにとって、死はとても近いものだった。窃盗や強盗でヘマをやらかした連中はみんな殺された。それがダウンタウンの日常だった。子供に愛情など全くないこの世界で、生き残ることができたのはやはり奇跡だったのだろうとアルガスは思う。
今、こうして人間を殺しているということが、そのときに溜まった鬱憤を晴らしているのだとすれば、これほど怖ろしいことはない。こんなことに身を染めてしまえば、自身の中に溜まりに溜まっている鬱憤は、この程度では済まされない。それこそ、どんな人間に出会っても殺してしまうような狂気に染まってしまう。
そんな狂い方をアルガスは拒む。人殺しに至るような狂気など、心底、嫌って来たはずだ。
だから、人殺しとして狂う前に、自分から狂わなければならない。
鎖を解く。
箍を外す。
枷を砕く。
ただそれだけで、自身はもう壊れることができる。あの餓鬼よりも十年分蓄えた鬱憤を、人殺しにではなく海魔を殺すための狂気に変えられる。ただ、今このときだけは、人を殺さなければならないのだが、それには目を瞑る以外、他に無いだろう。
アイーシャの狂気の声が聞こえる。
クリスフォードが現実逃避も甚だしい言葉を並べ立てている。
そんな中で、アルガスもまた壊れることに迷いは無かった。
「俺は、そこの女よりも臆病者でなぁ……全身を変質させるなんていう馬鹿は、できねぇ」
言いつつ、アルガスの皮膚は土と岩を纏い、そして最後に顔を覆い尽くす。
「だが、あの女よりもテメェらを殺すことに、躊躇いはねぇ。あの女が殺せない分を、俺が殺してやる。掛かって来い、雑魚どもが!」
岩と土のゴーレムと化したアルガスが全身を震わして、その重い体を動かし次々と飛び掛かって来る海魔を粉砕し、纏わり付く人間の頭を打ち砕く。
これが戦場だ。
自身が階級を捨ててでも辿り着きたかった場所だ。いつかは人間も手に掛けなければならない日が来るだろうと、想像はしていた。だからこそ、人殺しになることをなによりも怖れた。
今日までだ。今日以外で、人を殺すのは怖ぇ。
臆病者のアルガスにとって、この狂気の満ち溢れたこの日だけが、全ての鬱憤を晴らすことのできる最高の場であり、最後の場でなければならない。
殺したいという欲求を捨て去る最後の地。そう決め付けて、ただただ殺す。海魔も人間も、ただただ殺し続ける。
これが、しわ寄せか?
暢気に暮らして来たことに対する、アルガスへの罰なのだろうか。
そんなことも考えたが、どれもこれも些末な事だった。海魔が、人間が、自身を殺そうとしている。
だったら、身を守るためにそれを殺すのは仕方の無いことだ。
そうやって理由を付けて、ただただ殺す。
故郷では、ダウンタウンでは虐げられて来た。子供ながらに、そんな大人たちをいつか殺してやると、復讐の炎を燃やしていた。
今、こうして、操られていながらも、同じ大人である人間を殺している。
殺せば殺すほど、心の中は空っぽになって行く。
「なるほど、テメェが空っぽだったのは、こういうことか」
ディルを空っぽと言い放ったアルガスが、ようやくその内情を悟る。
あの餓鬼の傷だらけの心には、復讐以外の炎が灯っていないのだ。それ以外は全て、生き残る日々の中で発散し続けた。
だから空っぽだったのだ。中身に詰めるべきものを、詰めるたびに吐き出し続け、そうやって生き残り続けて来た。
それはアルガスのような生き方とは真逆であり、そしてまた別の狂気だ。
鬱憤を蓄え続けたアルガスと、心を空にするほどに海魔を討伐し続けて来たディル。似ているようで異なる狂気の果てでは、アルガスに軍配が上がった。
だが、もう勝てないだろう。
あの海魔と戦い続けている餓鬼は、この狂気を楽しんでいる。この惨憺たる光景の中で、歓喜の表情を絶やさない。
そんなことは、アルガスには決してできない。
こうして無意味に無価値に無感情に人間を殺し続ける作業が、海魔を殺し続ける作業が、煩わしくてしょうがない。
「ああ、クソ。酒が飲みてぇなぁ……酒を飲んで、そのあとは、まぁ……煙草でも吸って、楽な人生を送りてぇもんだ」
ひょっとすると、これもまた現実逃避なのかも知れない。だが、クリスフォードと違い、アルガスの声はどこか悦びに満ち溢れていた。
殺せた。やっと殺せた。ああ、こんなに殺しが気持ち良いとは思わなかった。
腹立たしい苦しみからの解放感がアルガスを満たしていた。
心が空っぽになって行く。燻り続けていた殺人への衝動を喪い、在りし日の故郷の景色が遠ざかる。もう戻れないあの日だけを、思いつつ、アルガスはひたすらに拳を振るい続けた。




