【-アイーシャ Lost-】
「私の全ては闘争の中にあったのよ……」
アイーシャは呟き、体を震えさせる。
やれるだけのことは全てやった。そうして生きて来た。しかし、殺人だけには手を染めることは決して無かった。それだけは悪いことだと、どういうわけか精神が言い付けていたからだ。
しかし、これはどういうことだろうか。
殺人など生涯、すまいと決めていたアイーシャの両手は既に、海魔の血ではなく、人間の血で染まっている。そもそも海魔の血など浴びたらただでは済まない。こうして生きているのだから、間違いなくこの紅の色は人間の血なのだ。手だけでは無い。服も、髪も、肌も、外套もなにもかもが赤く染まっている。
アイーシャがおおよそ見たことのある世界とはまた違った別の、見たこともないほどの惨状が広がっていた。
自分以外はどうなっている?
そう思い、左右を眺める。自身が所属しているチームの面々は生きている。だが、この作戦のために投入されたはずの討伐者の姿が見当たらない。
ふと足元を見ると、外套を着込んでいる討伐者のものと思しき骸が転がっていた。そして、辺りを見回せば自身が殺して来た、一般人の骸と海魔の死体が転がっている。
それでも遠くを見やれば、未だ海魔は押し寄せて来るのが分かる。
生き残れない。
戦っていることに後悔を覚えた。どうしてこんな作戦に身を投じたのか、と自身を呪った。
しかし同時に、アイーシャは闘争を喧騒を、騒乱を、初めて恐怖した。
だが、どうだろうか。
それを恐怖し、震えているアイーシャなど目もくれず、三十分ほど戦っても尚、息切れ一つ起こしていないイカれた男が、圧倒的な巨躯を持つ海魔と戦い続けている。
狂気に満ちた表情で、踊るように戦っている。そして、その戦いを邪魔する海魔を、同じく踊るような動きで斧鎗で切り捨てて行く。
「大切な物を喪わなきゃ、強くなれないのよねぇ……クソ男」
アイーシャの中で、鎖が壊れる音が聞こえた。
手を胸元に当てる。
生き残るためならばなんでもして来た。なら、ここで死ぬことは本意では無い。ならば、生き残るためにはなにをしなければならないのか。
そんなことは簡単であった。そうなることに迷いはなかった。
イカれた男を見たとき、女は壊れる決意をした。自ら、楔を外した。
自らの体の皮膚も筋肉も内臓も、なにもかもが水に変質して行く。体中から人間の基礎となるものが消えて行く感覚があった。しかし、アイーシャはそれをいつかに感じた性的な絶頂のように、恍惚の表情を浮かべながら天を仰ぐ。
「アッハハハハハハハハハハハハハッ」
体の全てが、顔も髪の先も全て、『水』へと変えた。そうとも知らず、一匹の海魔がアイーシャに喰らい付こうと牙を剥ける。
しかし、その牙はアイーシャの体を抉ることは無く、そしてアイーシャを構成している水が周囲に飛び散る。
「いいよ、いいよいいよいいよー!! 最高じゃないのー!! この感じー!!」
海魔の体に飛び散った水が収束し、そしてアイーシャは醜いその海魔を両腕で抱き寄せ、自らの内部に取り込む。
『水』にもがき、苦しみ、そしてその海魔から水分という水分を吸い切って、彼女は残った干からびた死体を体から吐き出す。
「今からー、私を襲う海魔はみんなー、こうなりまーす」
ケラケラと笑いつつ、干からびた海魔の死体を手に取り、群がっている海魔の中央に投げて牽制する。
「けどー、そんなんも面倒臭いからねー、こういうのは、どうかなー?」
アイーシャは天を指差す。彼女の指先を媒介に、そしてそこから触れるあらゆる空気中の水分を利用して、局所的な大雨を降らせる。海魔はアイーシャの降らせた雨にずぶ濡れとなり、しばらくなにが起こったのか分からないまま目玉を左右に動かしている。
だが次第に、その体が溶け始めていることに気付いたらしい。そして、体中から漂う自身の体臭以上の悪臭を嗅ぎ、溶ける体の痛みその臭いにのた打ち回り始めた。
「酸の雨にー、たっくさんの香りを混ぜ込んだ雨だけどー、気に入ってくれたかなー?」
海魔はアイーシャに反撃する余地も無く、のた打ち回りながら骨まで溶けて、跡形も無く消え去って行く。
見渡せば、溶かしたのは海魔だけに限らなかった。
転がっていた討伐者の骸も、一般人の骸も、なにもかもが溶けて跡形も無く消えている。
「罪、罪罪罪! 分かっているわよ、そんなこと! でもねー、私はもう人間じゃないからさー……『人で無し』だからさー! あんたたちの分まで生きようとか、責任を取るとか、そんな気持ちは一切無いんで、よろしくー」
感情は砕け、感覚は麻痺し、アイーシャはこのときを持って『人で無し』となった。
体が全てだった。
生き残るということは、体への執着である。
『人で無し』になった。
アイーシャは体を喪った。




