【-007-】
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「あーあー!! 面倒な餓鬼と当たっちまったなぁ、俺も!」
今日の手合わせの相手は、巨漢の男。恵まれた体躯を持ち、荒々しく、乱暴な口調で相手を威圧し、畏怖させるとプレハブの町では噂されている。だから誰もこの男とは当たりたくはなく、そしてディルもまた当たりたくないと言われている一人だ。そのため、巨漢の男とディルが手合わせの相手という組み合わせは、ここを仮拠点としている討伐者たちにとっても好カードであるらしく、既に野次馬連中が輪を作って勝敗の行方を見守っている。それはとても邪魔臭い。広場には線引きがされており、そこを越えての手合わせは許されず、また手合わせ中はその線を誰も跨いではならない。いつもならば、野次馬連中も少なく、自らを研鑽させていることが多いため、それなりの広さを感じることができる。しかし、今回は圧迫感を覚える。なにより、線引きギリギリまで攻め立てた際、野次馬連中を気にし過ぎて、勝利をもぎ取るあと一手を繰り出せなくなってしまう。
とにかく、面倒なことこの上ない。
「ならさっさと終わらせれば良い」
「……おい、餓鬼? お前は何年生きている?」
「十六年」
「俺に比べて十年足りねぇなぁ。目上の者を敬う精神がこれっぽっちもねぇ! 敬語を遣え、この糞餓鬼がっ!」
「……あんたに勝ったら、敬語を遣わなくても良いか?」
「はっ、威勢の良い糞餓鬼なら、大抵を黙らせて来たぜ、この俺は?」
獣のような鋭い眼光は、ディルが時折見せるそれと等しく、そして捉えて離さない。ディルも負け時と睨み返すが、巨漢の男は一切、動じない。大抵の手合わせの相手はこの視線に怯え、それから動きに乱れが生じやすいのだが、この男には通用しないようだ。
「十年遅く産まれて、それで上下関係がどうとか言ったって、強い奴が上、だろ?」
「思っていた以上に糞い餓鬼だな、おい。どうした? 掛かって来いよ。先手は譲ってやるって言ってんだ。貫禄と年季ってのはなぁ、揺るがないんだよ、餓鬼。それを分からせてやるよ」
一々、小うるさい男だ。ディルはそう思いつつ、地面を踏み締め、突き出した土塊を手に取る。表面に付いていた土が剥げて、中から金属の剣が現れる。それで数度、空気を切ってからディルは地面を蹴り、そして巨漢の男の近くで強引に右に逸れると、そこからまた地面を強く蹴って、すぐに懐に入り込む。
そして刺突。間違いなく、巨漢の男を捉えた。ディルにはそれくらいの自信があった。
「遅ぇなぁ、糞餓鬼」
刺突を片腕で受け止めていた。いや、実際には片腕を覆っていた服の袖を変質させた、土の塊で止められていた。それに驚愕したのは数秒だ。しかしそのたった数秒を男は見逃さず、片足を大きく踏み込ませ、金属の剣を止めた腕とは逆の腕を動かし、拳を作り、動けずに居るディルへと撃ち出す。
寸前、剣を手離す。その直後に男の拳が剣を拉ぎ折った。
「嘘、だろ」
拳で金属が曲がることなんて、あり得ない。あったとしてもそれは曲がりやすい金属である場合がほとんどだ。ディルが作り上げた金属の剣は、剣として機能させるために硬くそして折れにくいように変質させている。それを曲げるだけに留まらず、折ったのだ。
即座に巨漢の男の拳を見る。どうやら巨漢の男は、手に巻いていた包帯を岩を混ぜ合わせた土に変質させて固め、さながらセスタスの如き破壊力を手に入れているらしい。それにしても、この男の腕力は馬鹿げている。
震える。恐怖ではない。これは武者震いだ。ここに来て、こんな討伐者と手合わせをしたことは一度も無かった。傷付き、凍り付いた心が、歓喜に震えている。
「あんたには、全力が出せそうだぁ」
歓喜をそのまま表情に、嗤いに変えてディルは凶悪な一言を放ち、地面に手を当てて再び金属の剣を作り出す。
「俺はテメェみたいな糞餓鬼に全力すら出す気もねぇけどなぁ!」
怯えず向かって来るディルに、どうやら巨漢の男もまた喜びを感じているらしく、ディルほどではないが笑みを浮かべ、岩のセスタスで対抗して来る。金属の剣を受け止めた片腕の土を剥ぎ取り、手に巻いていた包帯を片側と同じく岩のセスタスに変質させて、左右からの鋭く、そして重い拳がディルに畳み掛けられる。
受ければ折れる。喰らえば一たまりも無い。ノロマと見ていた巨漢の男は、予想をはるかに越えるほどの俊敏さも兼ね備えており、有効打を見出せない。受け止めるのではなく、剣で受け流しながら隙を窺っても、窺っている最中に受け流した側とは逆側から迫る拳への対処に追われる。キザな討伐者が二刀流を自慢げにディルに見せ付けていたこともあった。その討伐者は結局、両方の刀を上手く扱うことすらできていなかった。だから簡単に勝負を付けさせることができた。
しかし、拳による圧力、巨漢の男の圧迫感。それら全ては、二刀流のキザな男を当たり前だが凌駕している。超越していると表現しても良い。なにせこの巨漢の男は、ディルの威圧感を込めた睨みに動じないばかりか、こうして笑みを浮かべながらディルを痛め付けようと動き、拳を振り回している。
狂乱こそが美徳とでも言いたげな表情に、ディルは怯む。まだそこには至れない。その境地には至っていない。だがこの巨漢の男は、二十六年の人生の中で、きっとあったのだろう凄絶な人生の中で、そこに至っている。それで且つ、まだ壊れていない。留まれている。
ディルよりも狂っていて、それでいて壊れていない。その絶妙な、微妙なラインこそが、巨漢の男と出来た大きな経験の距離となっている。
「その歳で、これだけの強さってぇのは! 相当、狂ってんなぁ、テメェは!!」
拳を繰り出し方が変化する。受け流すディルの対応を見て、遅延と連打。その切り替えを、不規則に変えられた。合わせることは難しくないが、連打であるのか遅延であるのか、その見極めを即座にするのは相当の技量と、なにより度胸が必要となる。
しかし、ディルは変わらず留まる。距離を空けようとはしない。距離を空けるために地面を蹴った直後、拳が体を襲いかねない。なにより、下がりたくはない。
ディルの人生は常に前を向いている。後ろを見てしまえば、なにもない空虚さがあることを痛感し、体が動かなくなるからだ。
だから全力で、前だけを見る。留まらなければならない。或いは前に、踏み出さなければならない。どれだけ辛くとも、どれだけ苦しくとも、巨漢の男の拳に、意地で剣の動きを合わせて行く。
飢えた獣のような眼力で、巨漢の男を睨み、殺してやるという殺意を孕ませ、ならばどうやれば殺せるのかとひたすら頭を回す。相手取っている男の能力を全て見定め、欲しいものだけ持って行く。拾得する。必要なのはいつだって、強欲に、貪欲に、足りない力を補うという感情である。
しかし、時として、そんな感情すらも覆す存在が居る。
それが、眼前で拳を振るっている巨漢の男である。ディルの技術、動き、足技、どれもこれもを、ただ力だけで捻じ伏せる。それはこの世で生きて来たからこそ培ったものであり、なによりも、揺るぐことのない才能の差である。
「やっぱ、十年遅ぇって言いたかったんだが」
汗を払うように体を動かしていたディルに、最終通告が言い渡される。
「二十年遅ぇわ」
拳を受け流すために剣を動かした。しかし、直前で巨漢の男は拳の軌道を変えて来た。それも受け流させるのではなく、受け止めざるを得ないようにする軌道だ。当然のようにディルの剣を拳で拉ぎ折り、続いて第二撃がディルの胸部を襲う。
人生で恐らく、初めて殴り飛ばされた。どれだけの戦いにおいても、そんな屈辱を受けたことはない。意識が朦朧とするが、胸部からの激痛で引き戻される。着地を華麗に決めるが、殴り飛ばされたというのに巨漢の男は、もうディルの眼前に立っている。
「手加減してやったんだ、肋骨は折れてねぇよなぁ! じゃぁ次は、内臓が傷付かない程度に殴り飛ばすかぁっ!?」
嗤えない。
ディルは巨漢の男が追撃とばかりに繰り出した拳を腹部に受け、またも殴り飛ばされる。今度は痛みで意識が引き戻されるという、そのような感覚を越えている。激痛は常に感じ、意識も常にある。ただし体が鉛のように動かない。全身に行き渡っている神経が、本能の通りに動かない。結果、ディルは土埃に塗れ、地面に体を打ち付けながら、襤褸雑巾のように転がった。
意識は立てと命じる。激痛を唇を血が出るほど噛み締めて堪えながら、命じ続ける。だが、やはり体は動かない。だらしのない呼吸を繰り返す。苦しく効率の悪い呼吸で、酸素を求める。
「間違いねぇな。テメェは、ただの糞餓鬼だ。年齢の割には強いが、それだけだ。空っぽのテメェには、届かない」
「……空っぽ、で……なにが、悪い?」
「ああっ? ウゼぇな! 悪いに決まってんだろうが」
巨漢の男が屈み、ディルの頭を掴んで睨み合う。
「自分だけが苦しみの中に居る! 自分だけが他とは違う! 自分だけが他者よりも強い! そんなもんが、テメェだけのもんだと思ってんじゃねぇ、糞餓鬼が!! 強欲? 貪欲? 復讐? 執着? はっ! ご苦労なことだな! そんなもんはここじゃ特別でもなんでもねぇんだよ! 不幸自慢なんざ、俺は耳にタコができるくらい聞いて来たぜ!? そのどれもが下らない不幸だったんだけどなぁ!! それで、他の誰より一歩を踏み出したいなら、空っぽじゃぁ足りない。空っぽな中に、詰め込むものがねぇって言うんなら……ただ死にたくて、この作戦に参加したってだけの、糞餓鬼だ」
荒々しくディルを投げ飛ばし、巨漢の男が土気色の外套に付いた埃を払い、歩き出す。
「名、前は……っ!?」
「アルガス・リージュ。あー、名乗っちまった。次、テメェと手合わせしたら負けるなぁ、これは。だから、俺に付き纏うなよ、糞餓鬼」
巨漢の男――アルガスは名乗りを終えると、面倒臭そうに広場から姿を消した。
「ちっくしょぉおがぁあああああ!!」
獰猛に叫びを轟かせ、敗北の味を、土の味が心を揺さぶる。
空っぽであることを見抜かれた。死にに来ていることを見破られた。
自分だけが特別なのだ、という観念を見抜かれた。
そしてそれら全てが、無価値であると言い切られた。そんな感情は誰だって抱き、誰だって不幸に味を占めるのだと。
ディルは痛感させられた。自身は特別でも無く、強くも無く、そして弱くも無い。平凡で、凡庸で、凡才な人間が、カッコ付けているだけに過ぎないと、アルガスの目はそう言っていた。
そのどれもを否定したくなり、拒絶したくなる。
何故なら、事実であればあるほど人は本能的に嘘をつくものだから。嘘をつき、誤魔化し、その場を取り繕うことで、逃げ出そうとする。
しかし、ディルには逃げ出すべき振り返るべき場所が無い。
ならば、この動揺を、敗北の味を、どうすれば消し去れると言うのか。
慰めの言葉など求めていない。そんな言葉はどれもが無意味で無感情で、無価値であることをディルは知っている。
そして呪いの言葉を知っている。
死ぬのが君だったなら――
彼女の両親は確かに、ディルに向かってそう告げた。
そしてディルの両親でさえ、「いっそ、一緒に死んでくれれば」と呟いた。
そのとき、枷も箍も外れたつもりでいた。しかしまだ、外れてはいない。あのアルガスという男ほど狂い切れていない。しかし、これ以上、狂うには理由が必要となる。狂人はいつだって、どんなときだって、そうなるための経緯がある。
狂う理由を求めるなど、まさに狂っているとも言えるのではあるが、ディルにはまさにそれが足りない。
ディルは外套と衣服に付着した土埃を雑に払い落とし、人を殺してしまいそうな眼光で野次馬連中を睨み付け、広場をあとにする。




